脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

「物語の歴史」と「体験の歴史」

これは2年前くらいに書いた記事だが、せっかく書いたので今更ながら放流しておこうと思う。今でも自分の人生とかフィクションについて考えるうえで前提として考えがちな部分ではある。

 

 

「物語の歴史」と「体験の歴史」

 少し前に佐渡金山の世界遺産認定の件がニュースになり、一部界隈に「歴史戦」という言葉があることを知った。このワードに対して抱いた違和感は特に強いものがあった。そこで、この感覚を言語化しておくことは何か重要なことのような気がするので、試しに文章にしてみることにする。ただしこの言葉の定義や意義についてはここで深掘りすることはない。問題にしたいのは、人間の(あるいは国家の)「歴史」とは何なのか、ということである。

 

 筆者の考えでは、一般的に使われる「歴史」という言葉は大きく分けて2つのものを指している。ひとつ例を挙げたい。BがAに夕食でつくるカレーの材料をスーパーで買ってくるよう頼んだが、Aはどういうわけかクリームシチューの材料を買って帰ってきた。なぜシチューのほうを買ってきたのかBが聞くと、たまたま特売で安かったからだとAは答えたとする。まずこの一連の流れにおいて注目されるのは、なぜAは当初頼まれたものと別のものを買ってきたのかという問題であり、Aの返答の是非が人々の主な興味の対象となる。もしかするとAは昼食でカレーを食べていて最初からカレーは嫌だったのかもしれないし、事前にシチューのCMを見ていて衝動的に食べたくなったのかもしれないし、Bが本当はシチューを食べたいのではと変に気を利かせたのかもしれない。仮にそうした事実があったとしても、多くの場合それらは捨象され、Aの行為は特売だから買ったという因果関係により表面上「説明」される。Bがその説明に納得すれば大概この話はここで終わり、仮に納得しなかったとしてもAの「他の理由」はAの意識上で生じたものに過ぎず、厳密には因果関係を立証することはできない。結果的には実際に言葉として叙述されたAの説明とそれに対するBの反応を軸に合意が図られ、AB間の関係が更新され、次の局面に移っていくことだろう。

 

 歴史の話に戻るが、この例え話における1つ目の歴史とは、ひとまず「事実」として合意がとれた「Aがカレーの材料を買いに行ったが、特売でシチューの材料が安かったため、そちらを買ってきた」という物語である。今後これを「物語の歴史」と呼ぶことにする。しかし、これは絶対的な真実として後世に残るにしては欺瞞を含んでいる。前述の通りAの行動には他にも理由があった可能性がある。それに、一連のプロセスにおいて取り上げられるべきは「依頼とは別のものを買ってきた」ことのみに限定されるのかという疑問もある。例えばAがアイスのケースを前に買うかどうか悩んだり、レジが混んでいて予想外に待たされたり、帰り道で見た夕焼けを見てきれいだと感じたりしたことは、誰の興味も惹かない些末な出来事かもしれないが、Aの体験のなかではシチューを買ったことと連続した同レベルの事象として成立しているはずである。すなわち、どう解釈し説明するかに関わらず連続的な体験における事実は存在する。必ずしも記録や言葉として残るわけではないが、あらゆる人々が生きる一瞬一瞬によって蓄積されてゆく行動・感情あるいは宇宙全体の運動、そうした過去の膨大なデータの束のような概念を考えたい。これもある種の「歴史」であるとして、2つ目の「体験の歴史」と呼ぶこととする。

 

 どちらかといえば欺瞞的でないと言えそうなのは「体験の歴史」の方で、「物語の歴史」は「体験の歴史」を恣意的に再構成したものだともいえる。「物語の歴史」の代表例は歴史の教科書である。人類の歴史を振り返れば、それこそ途方もない量の「体験の歴史」がそこにはあり、その膨大さはとうてい歴史学の知見の及ぶところではない。歴史学で取られるのは実際の史料に基づいて客観的な類推を積み上げてゆく科学的な手法であり、根拠なくそれらしいストーリーを構築することを意味するのではない。だが新たな史料が発見されたり、より有力な解釈が広まったりすれば、それまで共有されていた「事実」は覆されうる。100%普遍的で正しい歴史的事実が存在しているのではなく、(他の科学的な学問と同様に)相対的により正しいと信じられている知識が一通り辻褄の合うように体系化されていると言ったほうが正確だろう。それを教科書にまとめる際には、歴史学の知見をさらに恣意的に取捨選択することを避けられないのはあらゆる観点から明らかだ。国家の主導のもとトップクラスの歴史学と教育学の専門家が記述する教科書でさえそうなのだから、「体験の歴史」と「物語の歴史」の間にあるギャップを埋めるのは非常に困難だといえる。

 

 では「物語の歴史」を全くのフェイクと断じてよいかといえば、もちろんそれは否である。「体験の歴史」は正確ではあるが、それは過去ないし現在の全てを意味するものであるがゆえに、観測し記録することは事実上不可能でかつあまりに膨大なので、人間の認知能力では全てを遡って理解することはできない。それゆえに人間は多かれ少なかれ過去を「物語の歴史」として抽象化して記憶し語らざるを得ないのである。問題とすべきはどのような意図に基づいて「物語の歴史」を編集するのか、あるいは「物語の歴史」の恣意性についてどこまで自覚的であるのかという点にある。

 

 就職活動では履歴書を書き、志望動機や将来の展望などについて自分の来歴と絡めた説明が行われる。責任ある立場で何か大きな失敗をすれば再発防止のためとして失敗の「理由」の言語化が求められる。絶対王政が王権神授説を必要としたように、国家権力の根拠としての建国の歴史や神話が必要とされる。結婚式のスライドショーでは新郎新婦があたかも結ばれるべくして出会い、幸福な半生を送ってきたかのように演出される。自分の学生時代が不幸だった印象を持っている人は、部分的に幸福な瞬間があったとしても悲しみにあふれたものとして学生時代を振り返る。大阪出身の人はそれだけでお笑いが好きだというステレオタイプを他者から押しつけられがちである。あまりにもありふれていて枚挙の暇がないが、「物語の歴史」と「体験の歴史」とのギャップによって発生するこうした欺瞞はごく日常的に発生している。だが通常は人同士のコミュニケーションの不確実性と自分のアイデンティティを確立したい欲求との間で、こうした欺瞞は曖昧になり問題となることは少ない。それは人間の能力的制約でもあるので欺瞞として扱うべきではないとさえ思える。

 

 だらだらと書いてきたが、つまりこの文章の主旨とは端的に述べるなら、「物語の歴史」に対する疑義、である。「歴史戦」とは「国益」のために有利な「物語の歴史」を、恥も臆面もなく明確な恣意性をもって構築することだと理解している。そこには物語を裏付けるまっとうらしいエビデンスが用意されるのかもしれない。同時に相手国側の主張を裏付けるエビデンスもまた用意されることだろう。そのどちらが「正しい」かを決める判断が、学術的な客観性を欠いた政治的な利益誘導と駆け引きによって行われるおそれもあるし、そもそも近世以前に存在した政治体制や人々の枠組みと現代の国家や国民が地続きのものだと考えてそこに責任を追及したり、現代の倫理観を過去の出来事に当てはめて正しさを争ったりすること自体に無理がある。いずれにせよ「歴史戦」という言葉を使う人々にとって「歴史」とは、「体験の歴史」のように日々蓄積されるイメージというよりは、ただ現在の自分を肯定したり利益を得たりする目的のために随時恣意的に再定義されてよい「物語の歴史」なのだろうと思う。その是非についてこれ以上論じるつもりはないが、何か都合が良すぎるのではないかと感じてしまう。

 

アイデンティティとコミュニケーション

 社会における人間は刹那的・本能的な欲求のみに従って生きることができないので、自分の生きる(存在する)意味を考えることから逃れられない。自分とは何者で、何のために生きるのか?という本質的に答えのない問いと生涯向き合い続けることになる。辛うじてそこに答えらしい、あるいは答えだと信じられそうな何かを与える根拠となるのが多くの場合過去である。過去は自分自身が何者であるかを物語る有力な要素であり、過去が個人のアイデンティティを規定するともいえる。ただし、ここでアイデンティティとなりうる過去とは「体験の歴史」というよりは「物語の歴史」である。「体験の歴史」は全体としての一貫性に欠けるので、そのままでは自らの生とは何かという問題に対する回答の根拠にはなりにくい。野球の上手さを人から褒められた体験があるとしても、それ単体ではさして重要なことでもなく、他の昼寝をした体験やアイスを食べた体験と同じように忘れられていくだけだろう。例えば「野球選手を目指したきっかけだった」などと後付けでテーマを与えて体験を定義するなどして、「野球が上手い」ことを、過去から敷衍して自分を語るうえで現在・未来に渡って重要であると信じられるときのみ、「野球が上手い」ことは自分自身の説明たり得るのであって、自己同一性を担保する一部となるのである。つまり、我々は「体験の歴史」の中から恣意的にあるエピソードを抽出して物語化することで、自分が何者であるかを内面と外面の両方に向けて説明しているのだ。

 

 自分を把握するための物語で重視されるのは、それを一般化できるかどうかという点である。なぜなら多くの場合、物語化は他者とのコミュニケーションのために必要不可欠だからだ。自分が言葉を用いて自己紹介をし、それを他者が理解できるようでなければ、人間の社会生活上必要な一定の信頼関係が築けず、コミュニケーションが成り立たない。それゆえに人々は一般解がありそうもないアイデンティティの問題を、できる限り一般的な言葉によって叙述しようと試みてしまう。だから「学生」「男性」「日本人」「サッカー部」のような典型的な属性から、「ゲーマー」「メンヘラ」「几帳面」「陽キャ」のような定義の曖昧なラベリングも含めて、一般化された言葉によって分別可能なステータスとそれらを裏付ける物語が自分自身の生に対する回答としてよく利用される。このため、物語は広汎に共有されたパターンに一定程度従うことになる。「学生」という言葉を介して自分を説明するなら、受験の時の体験、講義やサークルでの体験、若さゆえの無茶をした体験などはいかにも「学生」らしいエピソードであり理解を得られやすい。これらを「学生」という属性を表す言葉とセットの物語としてまとめることで完成度の高い説明がつくられる。そうすることで自分自身が何者かを客観的に理解しやすくなり「自分はこれでよいのだ」という実感を得られるし、また他人にも自分を理解してもらいやすくコミュニケーションを円滑にできる。こうして社会全体では、言葉を介してパターン化された同じような物語が量産されることになる。

 

 その一方で、誰もが遭遇する自分とは何者なのかという苦悩のなかで、いわゆる「本当の自分」などと呼べるような固有の概念が各人の内面のどこかに備わっているというアイデアは社会の片隅に根強く存在する。十人十色、人それぞれが異なる本質を抱いているようにもイメージされるが、明確に各個人がバラバラな要素で自己を構成しているといえるのは、実際には「体験の歴史」に着目したときのみだろう。「物語の歴史」に沿ってつくられたアイデンティティはコミュニケーション上の必要性のために、それをわかりやすくしようとすればするほどパターンから逃れにくくなる。ピュアで各人に固有な「本当の自分」を維持していられるのは恐らく「体験の歴史」の範囲までであって、それを言語化し物語化しようとした段階で自分の存在は急速に陳腐化する。とはいえ、「体験の歴史」の域を出ず物語化しえない「自分」などに再現性があろうはずもなく、人間はそれが一貫性をもった自分だと認識することさえ難しい。これらを組み合わせると確固たる「本当の自分」などというものを見出すことは不可能だといえてしまいそうだが、これは理性的存在として人間を定義する現代的な思想の多くと相性が悪く、受け入れにくい結論である。

 

 自分のアイデンティティを見出せなかったり、社会に見せているペルソナを偽りだと感じてしまったりすることで苦しむ人は多い。社会に流布している陳腐な自己像を甘受しさえすれば、ある程度円滑に社会とコミュニケーションを行えるので、それが可能な人間が実在するならば実質的に「本当の自分」とは何なのかを求めて悩む必要はなくなるだろう。だが、それを完全に受容することは恐らく不可能だ。社会に見せている何らかの自分の姿にリアリティを見出せず、確固たる自我を欲する葛藤の多くは自分を説明する物語の恣意性と陳腐性に由来している。そのような矛盾を抱えた人々によるコミュニケーションではお互いについての不確実性が大きすぎるので、しばしば社会性の外面を撫であっては既出の文脈を擦り続けるだけの茶番が繰り返される。

 

 また、現実的には各人を表現する物語が単一であることはない。物語のスケールには大小さまざまなものがあるにせよ、それらを無数に組み合わせることで自分のパーソナリティを形成している。自分を構成する物語どうしには必ずしも一貫性があるわけではなく、むしろ当前のように互いに矛盾を含む物語が組み合わされている。そうした矛盾は通常さほど批判の対象にはならず、むしろ「人間らしさ」であると肯定的に解釈される場合も多い。自分のことを慎重で思慮深いと考えている人が、過去のエピソードを根拠にそれを裏付ける物語を持っているとしても、「体験の歴史」からはそれに反するエピソード――大胆さや短慮さを示す――を探し出すことは容易だと思われる。「体験の歴史」から恣意的に物語を編集するばかりでなく、さらにその物語を多数束ね合わせて所持しておき、場面に応じて仮面をすげ替えるがごとく都合良く物語を使い分けるという二重の恣意性によって自分を説明することはごく当たり前に行われている。

 

 人同士の生得的な結びつきが弱い都市的な社会(例えばインターネットなど)では、共有されている文脈そのものが乏しいため類型的に物語を理解することが難しくなるはずだが、自他の説明不能な領分は大幅に拡大するわけではなく、実際にはさらにパターンを細分化することで説明が図られている。こうした社会では極私的な領域に至るまで詳細かつ意識的に物語化を行う人々が多く、そのうえで似たような物語を持つことを起点に人間関係が構築されることが多い。細切れになったとしても母数の人間は十分多いので、物語的に説明不能なものとして自分あるいは他者を把握するというよりは、細分化されたカテゴリに押し込むことで個人を把握することが可能になってしまう。だから都市的な社会においても、結局のところ人生の恣意的な物語化・パターン化から逃れることはできない。むしろ職業などのパブリックな領域だけでなく、趣味・嗜好などプライベートな領域についても積極的に自らを言葉によって定義し、物語的に把握されやすいように努めている人をよく見る。パブリックとプライベートの間を、例えばSNSのアカウントを使い分けるようにして峻別することで自己の本質を物語ろうとする人もいるが、どちらも明確に他者ないし社会に受容されることを目的として恣意的な物語化を図っているという点では両者に差はない。また、物語は必ずしも人生に前向きで幸福なキャラクター像をもたらすとは限らない。それが生に否定的で鬱屈としたキャラクター像をもたらすとしても、物語がなく自分の生について全く説明できない状態のほうが恐怖であるため、惨めな自己像を憂いながらその物語に耽溺している人もいる。

 

 アイデンティティが必要なのは個人に限った話ではなく、家族のような小規模な人間の集合から国家のような大きな共同体に至る集団にもいえることである。複数の個人が集団としての凝集性を維持するために、通常は集団の来歴や集団をつくることの意義といった何らかの物語が集団内で共有されていなければならない。物語の介在がなければ、多くの場合ある個人がある集団に属さなければならず、集団を存続させるために何らかの責任を負わなければならない明確な根拠など存在しないからだ。しかし、もし「物語の歴史」を作るうえで「体験の歴史」だけが真実味を与えるのだとすれば、集団の場合の「体験の歴史」を定義することは個人の場合よりも格段に難しいといえる。集団内で同じ体験を共有しようとすれば、語られた時点でそれは多かれ少なかれ物語になってしまうからである。ゆえに、集団で共有される物語には一部体験にすら基づかない虚偽が含まれていることは珍しくないが、集団を保つための必要悪として許容されている場合もある。例えば、絶対王政の根拠とされた王権神授説や明治維新以降の皇国史観などは、国家としての形態を保つために行われた物語化の好例だといえるし、ナショナリズム民族主義の文脈の多くも明確な根拠のない物語だと思う。


因果関係と責任

 ある原因に基づいて結果としての事象が生じるという因果関係は、「物語の歴史」の根幹をなす概念である。恐らく因果関係を一切含まない物語は物語たり得ないだろう。ある事象に対し、それが生じた背景にあるもう1つの事象を原因として因果関係で結びつけることで、合理的でわかりやすい説明をつくることができる。そして人物についての物語であれば、我々の行為はすべてその人物の意思に依拠して行われており、意思と行為の間には因果関係が存在するため、責任を追及可能であるとされることが多い。

 

 前述した「カレーの材料を買いに行ってシチューの材料を買ってきたA」の話でも述べたように、これは「物語の歴史」的な思考パターンであるといえる。Aがシチューを買ってきた理由を「特売だったから」と説明したところで、原因となりうるような事象はそれ以外にも無数に存在しているのが普通で、厳密には原因がそう一義的に定まることはない。Aが選択を行ううえでどの事象が最大の影響を及ぼしてどれが実際の原因なのか、そのようなAの意識上で生じた問題に対して再現性をもって立証することは実際には不可能である。注意したいのは、ここではAが嘘をついているか否かはさほど論ずる意味がないという点だ。人間の意識に再現性がないならば、明確に「本音」と「嘘」とを峻別することさえも難しく、ただその都度因果関係を立てられそうな後付けの解釈のうち、どの解釈を採用するかという選択が存在するだけだと考えたほうが正確だろう。

 

 同様に、人間の意思そのものに対しても再現性をもたないという点で疑いを向けることができる。本当に意思が人間のあらゆる行動をコントロールしているのならば、人間が迷ったり後悔したりすることもないはずだ。すべての行為の背景には意思が存在し、人間が常時意思をもって生きていると考えるのは典型的な欺瞞である。ある行為Aを選択したいという意思があるとして、たとえそれなりに状況を整理してAを選んだ方がよいことを論理的に理解していたとしても、別の行為Bを行うことを人間はごく日常的に行っていると思う。意思に基づく行為は「~~と思ったから……した」というように容易に物語化が可能であるため記憶にも残りやすい。しかし「体験の歴史」のなかでは意思に基づかない行為も確かに存在するはずで、それらの多くは行為として取るに足らないもので記憶にも残らないかもしれないが、明らかに自己表現の一部であり、時に責任が追及されるだろう。そのため可能な限り自分の行動を意思と選択の制御下に置いて管理しようとする人は多いが、その度に意識下の自分と無意識下の自分とのギャップに苦しみ、「反省」を繰り返すことになる。

 

 そもそも意識下における人間の認知能力に限界があることは明らかだ。「物語の歴史」を形成するうえで最も参照先となることが多いだろう人間の記憶は、時間がたてば忘却され変容してしまうし、何がその時の印象に残るかは制御できない。あるいは様々な認知バイアスが人間の思考を歪ませることも明らかになっており、常に人間が一定の物語に則って一貫性を維持しながら思考できるとも考えにくい。睡眠不足や飲酒、老化などによっても人間の意識は鈍化する(もっともこれらの要素は広く一般に知られているため物語化が容易であり、さらに前段階の行為の選択に対して責任が問われることが多い)。

 

 人間に意識があり各人に固有の人格があり、それぞれの確固たる意思に基づいて行動している、という人間理解の方法は社会の様々なフェーズで見られ、しばしばこれに基づいて行為の責任が追及されているが、厳密にはこうした理解にはいくつかの問題が含まれているといえる。人間の認知能力には限界があり、自分を形成する記憶さえ定かとは言えず、場当たり的に行動していることも多いからだ。「体験の歴史」としての人生の各場面では明らかに意思に基づかず、因果関係を立てることもできないような、一貫した「物語の歴史」と矛盾をきたす事象が必ず発生する。人間の行動すべてがその場でサイコロを振って決まるようなランダムなものではないことは確かだが、少なくともその時々で振れ幅のある存在だと理解した方がより本質的だろう。

 

 例えば犯罪行為について「つい魔が差した」「衝動的にやった」などと説明がなされることは多い。つまり、社会一般で共有された倫理観なるものがあるとして、それに反する倫理観を持った人間だけが犯罪を行うのではなく、一般倫理に基づく判断基準を持ち合わせた人間(少なくとも自分の倫理観と社会の倫理観とのずれを自力で認識し修正可能な人間)にも犯罪行為は可能であり、事実として行われているのである。


「成長」概念

 人間は「努力」することで「成長」して能力を拡大し、いずれは成功と自分の望む自己像を手に入れることができるとする思想がある。ここでは事前に設定された人生の目的に基づいてあらゆる行為の価値付けがなされる。例えば野球が上手くなることを人生の目的に置くならば、熱心に野球の練習に励むことが推奨され、他の遊びに自由な時間を使うことは「怠惰」な行為だとされる。必要な「休息」「息抜き」だと合理化することもあるだろうが、その目的に基づいて行為の価値を判断していることには変わりない。これは自らの行為の物語化に他ならない。目的が現在の自分をオートマティックに物語化してくれるので、自分を説明することが容易になる。あえて苦労を買って甲斐甲斐しく「努力」する自分に酔うこともできるだろうし、少しずつできることが増えて「成長」の嬉しさを感じることもでき、人生に満足感を得るための方法としては広く共有された普遍的な概念であるといえる。

 

 しかし「物語の歴史」を疑う視点からは、こうした考え方にはいくつかの批判を加えることができるだろう。第一に、「成長」概念によって作られる自分の人生の物語には未確定の未来の結果が含まれているということ。努力と成長の末に望んだ成功を得られれば、それまでの過程は輝かしいサクセスストーリーへと昇華し、仮に努力から目を背けた後ろめたい瞬間があるとしてもそれは有耶無耶になり、自己肯定感も高まることだろう。だが失敗という結果が生じれば、事前に作られた物語は破綻する。その過程そのものを心から肯定することはもはや不可能になるはずだ。努力から逃げた瞬間ばかりが失敗の要因としてクローズアップされ、積み上げた努力は急激に無意味と化し、時間も目的も失った虚無感が自分を苦しめることになる。「成長」概念による人生の物語化は、未確定の未来を基準にして過去・現在を説明するため、構造的に物語として不完全なのだ。だからこの矛盾を解決するために、成功した場合の物語に加えて「ベストは尽くしたが才能が足りなかった」「結果は出なかったが得たものはあった」というように失敗した場合の物語が用意されることも多いが、それ自体「成長」概念と努力の前提である目的の正しさが疑わしいことを示している。そもそも「成長」した後の自分の方が以前の自分よりもベターだとする根拠はしばしば曖昧だ。もちろん「成長」する前の自分が「成長」の目的に価値を見出していればいいとしても、「成長」後の時点では価値観そのものが更新されている可能性があり、その目的の価値(成長の価値)を確かに信じ続けていられる保証はない。振り返ってみれば何のために「努力」していたのかわからなくなるということもあり得るし、よしんばそこで自分の「成長」に満足したとしても、目的を果たして「成長」の物語が終われば現在の自分を説明できなくなるため、また次の目的を用意して「成長」のストーリーを物語らなければならない。例えば高校受験が終われば次は大学受験、大学受験が終われば次は就職試験、就職が終われば次はキャリアアップとでもいうように、際限なく「努力」と「成長」を繰り返していくことをほとんど脅迫的に人生の指針としている人も多い。

 

 第二に、現在や過去の自分の意思や感覚が矮小化されてしまう点。「成長」のための「努力」とはすなわち自己改造である。苦痛を負ってでも過去・現在の自分を否定し、理想とする自分に作り変えようとする。まさに自分の意思によって自分自身を改造し制御するからこそ、そこに「成長」の喜びや達成感を見出すことができるのだろう。しかし、現在の自分を「成長」中だと定義し、未完の物語の途上に位置づけるという無理をあえて行うためには、ある目的の正しさを自らの意思の力によって絶対的に信仰する必要がある。「経験の歴史」的な観点からすると、現実の人間の行為は必ずしも唯一の基準(目的)に基づく意思によって一次元的に価値づけられるような単純なものではない。野球をうまくなりたいという意思が本物だとしても、練習を休んで他の遊びに興じたいといった目的に反する衝動や別の意思が生じることはごく自然なことだといえる。「成長」概念によって現在を物語化する立場からは、そうした連続的な体験のなかでは確かに存在するはずの矛盾や葛藤を、堕落に寄りかかった「誘惑」であるなどと断じ、自分の物語ではないとして無視し続ける必要がある。しかし、現在の自分が司っているそうした複雑な意思や感覚は、ありふれているようでいて実際には再現性のないその場限りの体験であるとも考えられる。葛藤を内包した存在としての自分を直視するのがいかに困難だとしても、安直に「成長」概念で自分を物語化したところで、過去・現在の自分を犠牲とした痛みの伴わない説明は生じ得ない。時には取り返しのつかない喪失をもたらすこともあるだろう。

 

 また、「成長」概念を採用している人々は支配的なほどに多いため、現代の社会において「成長」概念は様々な局面で一般化されているといってよい。特に、子どもから大人に至るまでの人間の段階的発達と、「共同体に有用な一人前の成員を育成する」という社会的な要請とは、「成長」概念によって奇妙に結びつけられている。「大人になる」という発達段階上の到達点がどこになるかは、実質的には社会への貢献を基軸とした価値観によって設定される。だが、表面上それはあくまで「成長」を望む個人の内発的な動機によるものとして位置づけられる場合も多い。おそらく我々には、幼少期から(実質的に将来就きたい職業を意味する)「夢」について答える機会が定期的に設けられている。はじめはその「夢」は途方もなく非現実的なものでも許されるが、徐々に「夢」の実現に向けて「成長」する必要性が発生する。服従的な子どもとしての自我を克服し主体的な自我を自ら構築してゆく思春期は、まさに「成長」概念を受容しやすい時期だといえる。しかし実際には、「夢」はその実現可能性と「成長」の度合いを基準に何度か修正を迫られるし、「夢」を全く持たないことも「努力」を放棄することも許されない。つまり「夢」とは「成長」概念における目的のことであり、そこには社会による構造的な圧力が存在し、少なくとも本人の主体的意思のみによって決定されるものではない。そして面接など人生のいずれかの場面では、あたかも「夢」が自発的な動機に基づく自己実現の手段であり、その目的のために「成長」してきたかのように人前で物語る必要に迫られるが、これは明らかに欺瞞を含んでいる。主体的な自己の確立と社会的役割への受容とが同義であるかのように自然と説明されてしまうからだ。だが、こうした物語化を繰り返すなかで「成長」した我々は、この説明を受け入れて自明なものとして内面化させてしまうし、あまりにも広く一般化されている「成長」概念に対しての批判的思考を失ってゆく。「成長」とは社会の要請によって無意識的に方向付けられるものだといえる。前段で「成長」とは必ずしもより良い自分に変化することを意味するのではない旨を述べたが、「みんな(社会)がより良いと評価してくれそうな」自分への変化であると換言することもできるだろう。そして「成長」概念で自分を説明し、自明であると疑いなく信じ込めるようになった人間は、あたかも社会の代弁者であるかのように他者にも無意識的に「成長」概念の受容を強いるのである。

 

 なお、「成長」が社会によって方向付けられるといっても、それは「努力」による「成長」の帰結として各人の望んだ社会的役割が保証されることを意味しない。端的にいえば、社会の求めに応じて設定した目的に基づき、「成長」の物語で自分を説明してきたとしても、社会から役割を与えられずに物語化を阻まれることも決して珍しいことではない。現代社会においてその矛盾は競争と階層分化という形で現れる。あらゆる「成長」は社会によって方向付けられており、その度合いは例えば偏差値や収入といった基準によって定量的に評価することが広く行われている。だから同じような「成長」の物語をもつ人間が二人いたとして、そのどちらかを「成長」不足・「努力」不足だと判別し、より「成長」した人間だけに役割を与えることも容易だろう。しかし、当然こうしたパラメータは「成長」概念に対して忠実であったかどうかとは直接関係がない。偏差値も学歴も社会的地位も、それを得た人が「成長」「努力」の結果だと物語化していることは多いものの、こうした見方は「物語の歴史」のみに偏った考えであり、所詮は結果論と切り捨てられる詭弁であることは既に述べてきた。そうした観点からも「成長」概念には不確かな側面が大きいが、「成長」概念から降りることは競争での敗北を意味しており、その結果困窮するなどして生存が危ぶまれる状況に陥ってもそれは「自己責任」として処理される場合も多い。だから「成長」概念が支配的な社会においては、「成長」概念を意識的に受容しようがしまいが、実質的に「成長」しない自由は人々に与えられていない。

 

 また、「成長」の過程としての「努力」には苦痛も伴うが、社会心理学の知見からは公正世界仮説と呼ばれる認知バイアスの存在が明らかになっている。「努力」は報われなければならないし、逆に「怠惰」は罰せられなければならないと考えるのは人間の典型的な思考パターンだが、これは「成長」概念の矛盾である競争や物語としての不完全性を仕方のないものとして受け入れさせるのに役立っている。つまり、「成長」できず成功できなかった原因を「努力」が足りなかったせいだと考えることはきわめて容易であり、その見かけ上の正しさの前では、そもそも不確実な目的を設定すること自体不適切だった可能性や、単に競争のなかで相対的に劣ったにすぎず「成長」はしている可能性、「努力」以外にも多くの要因が関係していた可能性などは往々にして考慮されなくなってしまう。こうした要素を抜きにして「成長」の価値を判断することは論理的な態度とはいえないし、そんな非合理性のもとで「努力」すなわち苦痛と人間の意思にのみ「成長」の要因を求め、「自己責任」などと責任の所在が追求されるのだとしたら、これはほとんど狂気である。「経験の歴史」的な観点からは、我々は野球の練習をしながらサボりたいとも思っているし、サボりながら練習しなくてはとも思っているので、「努力」と「怠惰」を明確に区別することはできず、言うなれば両方を並立して行っている。練習も苦しいばかりでなく時には楽しいとも感じているはずで、苦痛と快楽の両方を体験しているのである。物語化する際にそれら相反する体験の一方の存在を忘却しているにすぎない。公正世界仮説が論理的に誤りなのは明らかだが、我々はこの説明を採用してしまいやすく、それが「成長」概念の問題点を見えにくくしている点については十分留意すべきだろう。

 

 一般化された「成長」概念が行き着く先は、個人のレベルを遥かに超えた社会全体としての成長主義であり競争主義である。こうした社会では科学技術・経済・人間性などが際限なく「成長」するものであるかのように語られ、「成長」の度合いを競って政治的なレベルでの競争が止むことはない。しばしば環境問題の顕在化をはじめ成長主義・競争主義の限界が指摘されるが、持続可能性や脱成長を実現させるためには、まず個人のレベルで「成長」概念からの脱却を図る必要があるように思えてならない。

後藤ひとりは「成長」したのか 「ぼっち・ざ・ろっく!」感想・読解・考察

 「ぼっち・ざ・ろっく!」は筆者のなかではここ数年遡ってもトップクラスにハマったTVアニメ作品だったので感想を書き残しておこうと思う。


www.youtube.com

 

 

きらら作品のテンプレと逸脱

 まず第2話の何気ない会話のシーンが衝撃的だった。後藤ひとり・伊地知虹夏・山田リョウの3人で順番に「好きな音楽の話」をするくだり。

山田リョウ「私はテクノ歌謡とか、最近はサウジアラビアのヒットチャートを……」
伊地知虹夏「そこ嘘つかないー」
山田リョウ「本当だもん」

 短いやり取りだが、ここには本作のキャラクター観がどういうものかが凝縮して示されている。多くのフィクションに言えることだが、特にきらら系列のいわゆる「日常系」と呼ばれる既存の作品群では、キャラクターについてのディテールの緻密さやリアリティはさほど問題にならず、それぞれに抱えた迷いや葛藤はあれど、基本的にはキャラクターは無条件に、絶対的な存在として躍動している。おっとりほんわかキャラはスローペースなボケで周囲を和ませたり、気が強いツンデレキャラは素直に自分の思いを表現できなかったりする。そこに疑問を差し挟む余地はなく、キャラクターたちは疑いなく確実に純粋なそのキャラクターのまま在ることが許されているように視聴者には見えるのだ。キャラクターたちが社会のと不安定な緊張関係のうえに立っていないので、視聴者は「安心」できるし、場合によっては「退屈」に感じることもある。

 

 大袈裟な言い方をすれば、これはある種の善のイデアである。個々人が自明に固有な「何者か」であることが許されているのは創作の世界だけであって、現実に存在する人間のパーソナリティは、一貫性を欠いた他者との社会的な関係の中で構築され表現される。だから個々人のキャラクターは多くの外的な要素に依存して成立しているし、同じ人でも相手が違えば全く違ったキャラクターとして認識を持たれているのが普通で、そもそも自分自身のキャラクターを端的に把握すること自体が難しい。そのため、現実の我々は自分も他者も不確実で曖昧な中で何ら確証のないコミュニケーションを繰り返している。そこへいくときららアニメの世界は一種のユートピアだ。個々のキャラクターが自明に尊重されていて、キャラクター同士が確かに仲違いをしたり心を通わせ合ったりする、そんな真実のコミュニケーションが永遠の「日常」として繰り返されてゆくように見える。視聴者はここに、思い通りにならない現実世界へ通ずる祈り*1を作品に見出すのだ。このような姿勢は多くのきらら作品に通底するある種のテンプレート*2なのではないかと思う。

 

 一方で前掲の会話を見てみると、この短いやり取りの中に様々な文脈が省略されている。サウジアラビアの流行歌を追っている人など滅多にいるわけがなく、いるとすればあえて少数派を気取っているか、音楽知識の「深さ」でマウントを取りにきているかで、山田リョウ自身もそうしたポーズを普段から行いがちだからこそ伊地知虹夏は即ツッコミを入れて否定したのだ。このやり取りは本当にサラッと流されるだけで特別な演出はないし、このシーンにおけるオチでもない。視聴者もこれだけで十分文脈を追えはするだろうが、きらら作品のテンプレからすると、かなり逸脱的なほどに言外に込められたニュアンスが多いと思う。換言すれば、ここでは背景にあるリアルな社会を前提として成立している部分が大きすぎる。きらら作品の理想世界では、各キャラクターは社会に影響されるまでもなく所与の存在であるはずなので、社会を前提条件として受容していてはならないし、やるとしてもしっかり説明を入れてオチらしくして「あるあるネタ」の次元にまで希釈する必要があるはずなのだ。

 

 そして、この会話が各キャラクターのイメージが視聴者側でも固まりきっていない第2話に出てくるというのもすごい。位置づけとしては伊地知虹夏と山田リョウによる自己紹介といっても過言ではないシーンである。にもかかわらず山田リョウが語る自分のキャラクター像にはあっさりツッコミが入ってしまう。きらら作品のテンプレのように、キャラクターが語られた通りにそのキャラクターでいることはこの作品では許されないのだ。例えば現実での我々は、「自分」を語る際にも相手やその状況次第で言葉を選んでいるのが普通だ。Twitterのbioに自分の好きな作品を書く人はいても、就活の履歴書の趣味欄にそれを書く馬鹿はいない。現実の我々にとっての「自分」は社会において多元的に拡散してゆく存在であって、その全体像は自分自身でも把握しきれない。山田リョウの自己紹介も、それそのものが他に解釈の余地がない自明の事実として受け入れられるのではなく、社会との関係のなかで多様に解釈されてしまう。山田リョウの「本当だもん」という反論で終わるのもよくて、伊地知虹夏の解釈が必ずしも正しくないという可能性を残している。より正確には、山田リョウの言葉が真実かどうかは大した問題ではなく、現実での人物同士のコミュニケーションには主観的な認識と解釈しか存在しないのと同様に、この作品でのキャラクターも一面的に把握され得ない曖昧な存在であること自体が重要である。

 

 こうした姿勢は作品の随所に見受けられ、きらら作品らしい理想的なイデア界におけるキャラクター観とは一線を画すような、リアルな手応えを感じさせるものだといえる。もちろんフィクションにおいて要求されるリアリティラインは作品によって様々なので、前述の会話にしても、山田リョウのことを「変人気取りでちょっとイタい、そういうキャラ」というところまで一般化して把握すれば、きららテンプレを拡張することは可能だし、事実としてきらら作品らしいシンプルなほのぼのギャグが占めているパートは多い。しかし、各キャラクターがそれ単独で存在するのではなく、社会との緊張関係に依存している曖昧な存在に過ぎないというキャラクター観は、他のアニメ作品と比較してみても本作の大きな特徴である。キャラクターたちが社会的な視点を経ながら多面的に描かれることで、リアルに即した繊細なテーマを表現することにこの作品は成功していると思う。

 

 

後藤ひとりとメタ認知

 主人公・後藤ひとりというキャラクターの特異性とは、一言で言えば「圧倒的なメタ認知の欠如」だと思う。つまり、自分ではない他者は普段さまざまな状況のなかでどのように世界を見て何を考えているのか、とくに他者視点では自分の容姿や行動はどのように見えるはずなのか、という認識がひどく欠けている。だから家族以外の他者に対して根拠のない思い込みと恐怖心を抱いているし、一人で勝手にネガティブな思考に陥って追い詰められ、異常行動に走る。

 

 本作は基本的には後藤ひとりの一人称視点を中心に話が進んでいくわけだが、少なくともはじめのうちは、後藤ひとりの陰キャコミュ障ムーブを彼女の視点に乗っかってあるあるネタとして受け流すのは容易い。その後も単なるギャグとして流せるかといえば一応流せはする作劇になってはいる。だが、注意深く見ていくと「バイトに行きたくなくて氷風呂に入って風邪をひこうとする」「すぐ嘘を塗り重ねてその場を乗り切ろうとする」などただのコミュ障では片付かないレベルの異常性を発揮し続けるているし、トラウマを刺激されて顔芸をしたまま謎の精神世界に没入してしまう流れも、ただ演出上そうなっているのではなく実際の現象として、しかも普通に人前でゾーンに入ってメンバーを困惑させるさまが何度も描写されている。そう、こいつは根暗キャラへの安直な共感の範疇を超えている、まさに「本物」であり、安易に視点として信頼すべきでないかもしれないと視聴者が気づき始めたあたりで第7話がくる。

 

 第7話では、伊地知虹夏と喜多郁代の視点から話が始まる。2人が普段からやっていそうな普通の会話を繰り広げたのち目的地である後藤ひとりの家に着いてみると、異様な横断幕が掲げてあるばかりか、玄関に入ると途端にクラッカーを鳴らされて出迎えられ、呆気にとられるという一連のシーン。ここでは後藤ひとりが他者の視点からは常々どのように見られているか、すなわちいかに後藤ひとりの言動が浮いていて空回りしているかを、いったん後藤ひとり視点から離れることで強調して描いていると言えるだろう。もし後藤ひとりが事前にメタ認知を用い、伊地知虹夏や喜多郁代の視点に立ってシミュレートできていたなら、ここまでダダ滑りすることはなかったはずである。

 

 言うまでもなく、後藤ひとりにメタ認知が欠けているのは、これまでの人生において他者と関わった経験が少ないことが原因である。そして、他者のサンプルが少なすぎるために、後藤ひとりの認識の中には「自分」と「社会」の間に本来あるはずの「具体的な他者」の領域が存在しない。そのため自分の外側はすべて正体不明で不気味で、かつ学校などを通じて押し付けがましい社会通念を強要してくる「社会」になってしまう。

左は一例

 他者のサンプルがそれなりにあれば、具体例から他者は一般的にはどう思考しどう行動するのか、またそれに対して自分がどうすれば円滑なコミュニケーションを行えるのかという一般法則を帰納的に導くことができる。無論最初はうまく実践で機能しないこともあるが、人間関係をやってサンプルを増やし、修正を重ねることでより使い勝手の良いセオリーが得られる。そして、社会の全てを見通して理解することは実質不可能だが、ミクロ的には社会とは個人の集合でしかない。サンプルの中にコミュニケーションが成立した例が多ければ、そこから敷衍して社会全体についても何とかやっていけそうだとプラスイメージを抱けるだろうし、逆にコミュニケーションに失敗した例が多ければ、社会全体に対するマイナスイメージがつくかもしれない。

 

 では後藤ひとりの場合はどうか。学校での後藤ひとりは「友達がほしい」と思っている一方で「具体的な誰か」に好かれようともしていない。そして「具体的な誰か」に拒絶されたり嫌われたりという描写もない一方で学校や社会全体に対するぼんやりとした嫌悪感を持っていて、「高校中退したい」などと口にする。これらのある種の奇妙さは後藤ひとりが「具体的な他者」の層を持っていないことによって起こっていると推察される。後藤ひとりの外側には白でも黒でもないただ不気味なグレーの靄が広がっているだけなのだ。特別嫌う理由はなくても、見通しが立たないものはそれだけで恐ろしい。

 

 後藤ひとりは人間関係について悩みを抱えているのではなく、そもそも自分を含む生身の人間についての相対的な評価基準を持っていないはずなのである。それならそれで、無知なままヘラヘラしていればいいのに何故かそうはならない。一人でギターを弾いているだけでは満たされず、ネットで得た「陽キャ陰キャ」「パリピ」のような人間をカテゴライズする中途半端な知識だけはあって、自分の立ち位置を相対的に見積もろうとしてしまい、挙句自信を失って絶望し追い詰められる。この辺りの感覚が非常に現代的というか、個人的に生々しいリアリティを感じた部分でもある。

 

 一方でメタ認知の欠如は、後藤ひとりに他者を意識しない大胆な行動を可能にしている側面もある。例えば、後藤ひとりは毎日平然とピンクジャージを着てギターケースを担いで登校している。これはかなり人目を引く行為には違いないが、そのことを後藤ひとりが意識している描写はないし、少なくとも「目立って恥ずかしい」などとは考えていないように見える。こうした点は、単に対人関係に自信がないだけのよくありがちな根暗キャラの描写とは一線を画すものである。パニックに陥った後藤ひとりが堂々と人前で顔芸をしたり卒倒したりできてしまうのも、後藤ひとりにとって他者とはただのぼんやりとした群れにすぎず、他者が自分と同様に意識をもつ存在なのだという認識が薄いためだと推察できる。ここまで社会性が終わっていると、個人の演奏技術は高いはずの後藤ひとりが、意外にも当初バンドでは周囲に合わせられず下手くそ扱いされていたのにも説得力が生まれてきてしまう。

 

 しかしながら、いちミュージシャンとしてなら、そうした後藤ひとりの性質はプラスに作用し得る可能性が示唆されている。第8話のライブでは、台風でバンドメンバーの知人がほとんど来られなくなってしまい、アウェーな状況のなかで他のメンバーは萎縮し本来の実力が出せない。そんな窮地を救ったのは後藤ひとりのスタンドプレーじみた突っ走った演奏だった。リーダー役を務めることの多い伊地知虹夏や、普段飄々としている山田リョウにさえ覆せなかった状況を、いつもは周囲に流されがちな後藤ひとりが鮮やかに覆すことができたのは何故か。それは持ち前の演奏技術の高さに加えて、後藤ひとりが空気を読まずにエゴを貫き通せるポテンシャルを持った人物だからだと思う*3。後藤ひとりがまともにメタ認知ができないほど社会性に欠けているからこそ、むしろ周囲の状況に影響されずに自分の演奏を貫徹することができる。他者を具体的な個人としてはっきり認識していない筋金入りのコミュ障だからこそ、自分で必要だと思えばステージ上でも他者の存在を無視して動くことができる。先輩バンドマンの廣井きくりが体現しているように、ロッカーとしてのパフォーマンスに社会性は必ずしも必要ではなく、むしろ時には社会性を逸脱してみせることが重要なのかもしれない。

 

 もちろん第1話の時点では段ボールを被らなければ人前で演奏できないという醜態を晒していたわけで、無条件にスタンドプレーを出せるわけではない。では第8話までの間で後藤ひとりは何を得たのだろうか。

 

 

後藤ひとりと「成長」

 物語のなかで後藤ひとりは、アルバイトで相手の目を見てドリンクを渡せるようになる、人前で演奏できるようになる、ライブのチケットを売ることに成功する、など少しずつ「できること」の範囲を拡大していく。こうしたさまを「成長」と呼び、ぼっちちゃんの成長を描くことが本作のテーマだと断ずることもできるかもしれない。少なくとも当初後藤ひとりが目標にしていたのは、友達をつくることやコミュ障を治すこと、つまり社会への適応であるといえる。他者との関係の結び方にぎこちなさを抱えている後藤ひとりが社会へ適応するという方向性ならば、まさしく定型発達で社会から認められやすい「成長」だといえるだろう。

 

 しかし、後藤ひとりの社会性が物語が進むにつれ高まっていったとは言えるにせよ、終盤になっても文化祭でクラスから逃亡する、観客席にダイブする、楽器店でヘドバンするなど異常行動を繰り返していて、とても社会へ適応したとは思えない。最終話では文化祭ライブという見せ場できれいに話を締めることもできたはずだが、そのあとのBパートで後藤ひとりがバイトを辞めようと考えていたり、楽器店でコミュ障をかましたりして伊地知虹夏が「最近成長したと思ってたけど、こういうとこまだまだだな」と語るところまでわざわざ描いて終幕となっている。つまり、最初から本作は後藤ひとりが定型的に社会へ適応していくような、ありきたりな方向性の「成長」をゴールとして設定してはいないのではないだろうか。

 

 第5話のオーディション回はまさに「成長」とは何かがテーマだった。努力してその証を示すことが成長だと考える喜多郁代や、判断基準が曖昧な以上見た目から入るしかないとボケをかます山田リョウらの「成長」観が語られた後で、後藤ひとりのモノローグが入る。

「成長って、正直なところよくわからない。努力とはまた違う気がする。でもそれはバンドとしての成長ではない気がする。(中略)ただミジンコやミドリムシから人間としてのスタートラインにやっと立っただけ。せっかく夢だったバンドをやれてるのに成長した気になってただけで、私は……」

 この後は伊地知虹夏との自販機前のシーン。音楽を通じた活動にも様々な形がある中で、結束バンドとしての活動に何を求めるのかと虹夏は問いかける。後藤ひとりは「ちやほやされたいから」という正直すぎる本音をここでは隠すが、この一連の流れにおいて示されているのは、この時点での後藤ひとりのバンド活動に対する目的意識の曖昧さである。後藤ひとりが自分が「成長」したか否かを評価できないのは、人間の行動や判断の評価基準となるべき目的意識が欠けているからに他ならない。本来はやりたいことやなりたい自分、そうした何らかの理想がまずあり、そこに近付こうとする目的意識が生まれ、目的によってあらゆる行動が価値づけられるなかで目的に適っていれば「成長」したと判断される。だが他者からの承認を得たいという自己中心的な理想はあっても、そこに向かう目的と4人でのバンド活動とが後藤ひとりの中で必ずしも結び付いていないため、バンド活動をしても「成長」の実感を得られていないのである。

 

 なぜ後藤ひとりはバンドに対して目的意識を持てないのだろうか。そもそも、本当にただ「ちやほやされたい」だけが目的なら、例えばネットの世界で「guitarhero」として活動を続ければよい。しかし後藤ひとりの欲求はそれだけでは満たされなかった。なぜなら、後藤ひとりが抱いている真の願いとは、おそらくより正確に言えば「ありのままの自分を承認してもらうこと」だからである。

 

 ありのままの自分を承認してもらうためには、ネットではなく素顔を晒してコミュニケーションを試みなければならないのは確かだ。そのように割り切れているなら、後藤ひとりがバンド活動をする目的は明確なはずである。しかし実際には後藤ひとりの目的意識は曖昧だ。おそらくそれは、半ば強迫観念めいた「社会に適応するために自分を変えなければ」という自信のなさゆえに自らに課してしまうプレッシャーと、自分自身のプリミティブな願いとを彼女が混同してしまっているためである。結果として、自分が周囲の他者や社会の要請のような外在的な要因でバンドをやっているに過ぎないのか、それとも自分自身を認めてほしいという切実な願いのためにバンドをやっているのか、いずれか判断がつかない状態にあると想像される。生身で他者と関わるバンド活動では、社会的に受け入れられるような目的に従わなければならないと無意識に思い込んでいる。

 

 家族以外から承認を受けたことがない後藤ひとりは、ありのままの自分を受け入れてもらえるだけの自信がない。自信がないからこそついネットでも自分を偽ってしまうし、自分は矯正されなければならない「ミジンコやミドリムシ」にも等しい存在だと思い込んでしまう。それは社会に媚びへつらうようにして適応しなければ人間にはなれないとでもいうかのような、自罰的で強烈な強迫観念につながっているように思える。この自信の有無が変人を気取って社会に阿ろうとはしない「一人でいるのが好きな人」こと山田リョウとの決定的な相違点だろう。

 

 これまで散々後藤ひとりには社会性がないという話をしてきたが*4、実のところ冷静な時の後藤ひとりは、第4話でミーティングを始めた伊地知虹夏の意図が練習続きの喜多郁代に息抜きさせることだと見抜いたように、他者が何を考えているかを想像する洞察力は最低限持ち合わせている。だが自己肯定感の低さは人間関係を円滑に進めるうえでの強力なデバフとして作用してしまう。自信がないからこそ、他者が自分を見て何らかの評価をするはずだという実感がもてず、メタ認知のような感覚が芽生えないのだともいえる。

 

 生きにくさを抱えた状況を打破するためには、結局のところコミュニケーションの場数を踏んで自信をつけ、他者は思ったよりも自分に期待もしていなければ、拒絶もしていないのだという実感をつかむことで、他者との適切な距離感を少しずつ会得するしかない。しかし自己肯定感が希薄なコミュニケーション弱者は、自信のなさゆえにコミュニケーションでぎこちなく下手を打ってはしばしば破綻をきたし、さらに自信を喪失するという悪循環に陥りがちである。メタ認知ができていない後藤ひとりは、他者とのギブアンドテイクの中で徐々に信頼関係が築かれてゆくイメージさえうまく描けていないのだろう。だから後藤ひとりの精神世界には、どうやって人々からの信頼と承認を積み重ねるかという中間の地道なプロセスが存在せず、売れっ子となってインタビューされる将来の自分や、逆に落ちぶれて酒に浸る将来の自分、浮世離れした「パリピ」など空想めいた極端な人物像しか存在しない。

 

 話を戻すが、5話の自販機のシーンと明確に対になっているのが、8話の2回目のライブの後、居酒屋の外で伊地知虹夏と会話するシーンである。5話時点では「秘密」とされていた、虹夏がバンド活動を通じて叶えたい「夢」について明らかになり、「ぼっち・ざ・ろっく」のタイトル回収からEDに入るという、作中でもかなり重要な位置づけがされたシーンであるといえる。「guitarhero」の正体が自分であることを虹夏に見抜かれていた後藤ひとりは、「この性格を直してから話したかったんです」とこれまでそれを言わなかったことを取り繕おうとする。こうした部分に自己肯定感の低さによる後藤ひとりの対人関係の不器用さがにじみ出ているが、より重要なのは、この後で虹夏目線で見た後藤ひとり像について語られる点である。これはまさにメタ認知に他ならない。おそらくこのとき、後藤ひとりは人生ではじめて、家族以外の他者から表層的でない生身の自分の人格がどう見られていたのかを知るという経験をし、しかも一緒に目標に挑ませてくれる仲間としての信頼を得ることとなった。

 

 「guitarhero」という隠していた自分のパーソナリティの根幹部分を看破された以上、後藤ひとりは伊地知虹夏との関係においてその場しのぎの誤魔化しで逃げることはもはやできない。しかし本質を晒してしまったのは伊地知虹夏も同じで、互いに互いの秘密を共有したことに意味がある。こうして、ただ混沌としていた後藤ひとりの内面に、伊地知虹夏という自分以外の具体的な存在が泳ぎはじめる。辛うじて社会性を纏って自分を取り繕うこともできない代わりに、他者の視線によるメタ認知が可能になれば、より多面的に他者を、そして生身の自己を理解することができるだろう。そうした本物のコミュニケーションへの可能性がここで示唆されたのだといえる。虹夏のいう「ぼっちちゃんのロック、ぼっち・ざ・ろっく」とは、まさにそうして後藤ひとりが自己を発見してゆくなかではじめて到達できる表現の高みである。

 

 

「個性捨てたら死んでるのと一緒だよ」


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 ところで、話数単位だと筆者が本作で一番好きなエピソードは後藤ひとりが作詞に挑戦する第4話である。報われない青春時代の鬱憤をぶつけるような鬱々とした曲を好み、中学時代にもまるで呪文のような歌詞を書いていた後藤ひとりだが、そんな暗い歌詞は望まれていないと考え、「バンドらしい」明るくて万人受けしそうな歌詞を考えようとする。やはりここにも、社会に対して適応的でない自分のエゴは表に出すべきでなく、バンドとは社会的に受け入れられるものでなければならないとする思い込みがある。こうした意識は「guitarhero」名義での、実態とはかけ離れた健常者っぽい人格を演じながら*5、(自分の好きな曲というよりは)売れ線バンドの曲ばかりを選んで弾くという活動方針にも表れている。単にバンド活動を他者を楽しませるためのものだと考え、その中で「ちやほやされたい」「売れたい」という目的のみに従うのであれば、これは全く正しいものに思える。しかし、おそらく多くの場合、バンド活動は別の一面を持っている。すなわち、表現者による自己表現であるという側面だ。

 

 後藤ひとりは悩んだ末に応援ソングの歌詞を書き上げるが、「薄っぺらい」と感じてしまう。後藤ひとりの書いた歌詞は、とりたてて抒情的であったり技巧的であったりするわけではないが、明確に出来が悪いとも思えない。流行歌の中に入っているようなフレーズをちゃんと押さえられているし、平凡ではあるが素朴な表現の方が共感を呼ぶこともあると思う。しかしどこか納得できない後藤ひとりは、まず山田リョウに歌詞を見せて率直な評価を聞こうとする。この歌詞で満足なのかと尋ねられた後藤ひとりの返答は、「ヒットしたバンドらしいのがいいのかなと」だった。つまり、後藤ひとりは外在的な要因によって自己表現とかけ離れた歌詞を書かされたことが自分の中で引っかかっていることを半ば自覚できているのである。しかし、この時点での後藤ひとりは、社会に対する反感というか被害者意識はある一方で、社会に迎合しなければならないとも考えている。社会に迎合できないありのままの自分を表現したとして、それを受け入れてもらえる自信がないのだ。

 

 それを受けて山田リョウは、結束バンド結成前に別のバンドを辞めた過去を語り、「個性捨てたら死んでるのと一緒だよ」「バラバラな個性が集まって、1つの音楽になって、それが結束バンドの色になるんだから」と自己表現を促すアドバイスをする。これは、普段はつかみどころのない言動を繰り返している山田リョウの根幹にある信念だといえるだろう。山田リョウは「個性」が社会に流されずに尊重される世界を望んでいる*6。だから自分だけの音楽を追求することはもちろん、彼女にとっては他者もまた画一的でなく自分のようにあるがままに在るべきであって、そうした個性の連なりこそがバンドミュージックなのだ。そんな山田リョウの珍しく力強い言葉に、「リョウさん、ちゃんとした人だったんだ」と後藤ひとりも一瞬だが尊敬の念を抱きかける。

 

 ただ、本作全体で見ると必ずしも個性や自己表現の価値を無限定に賛美してはいない。例えば、第4話前半のアー写撮影のくだりでは、そのバンドの個性を伝える自己表現に他ならないアー写にも、ありがちな背景や構図が存在することが語られる。つまり、十人十色の個性に基づいてバラエティ豊かな自己表現が営まれるというある種の思想は理想主義的なもので、実際にはパターンの模倣に従っていることも多いという。あるいはバンド活動の経済面での苦しさをしっかり描写しているところからも、結局は個性に従ったどんな表現でも許されるというわけではなく、ある程度観客に受け入れられるような曲とパフォーマンスを作っていかなければ活動自体続けられない厳しい世界であることを感じさせる。第10話では、まさに山田リョウが中学生の時に文化祭でマイナー曲ばかりを演奏したところ、会場がお通夜になってトラウマになったというエピソードも語られている。この辺りもきらら作品らしからぬドライで冷徹なリアリティを感じさせる部分である。

 

 山田リョウの思想はともするとただの「逆張り」にもなりかねないもので、伊地知虹夏からはそうした痛々しさを度々指摘されている*7し、山田リョウ自身の「個性」も絶対的で揺らがないほど強固かというと恐らくそんなことはない。山田リョウが「変人」と呼ばれて喜ぶのは、自分が完璧に個性的な「変人」であるというほどの自信がないことの裏写しである*8。だからこそ確固たる自分の表現を欲する気持ちをバンド活動にぶつけようとする。そんな山田リョウなりの苦悩と願望を後藤ひとりが感じ取ったのかは定かではないが、後藤ひとりはアドバイス通りに社会の顔色を窺ったような「バンドらしい」作詞をやめ、社会に対して自分が本当に訴えかけたい言葉(コンプレックス丸出しの陰鬱なテーマ)を表現するようになった。寝ずに歌詞を書き上げた後藤ひとりは、もはや歌詞の暗さをバンドメンバーから批判される不安ばかりに囚われてはおらず、むしろ欲求不満を作詞にぶつけて昇華させたかのような達成感と満足感を漂わせているように見える。そしてメンバーからも予想以上の高評価を得ることができた。ここには、自分自身を分かってほしいという期待と、拒絶されるかもしれないという不安の間で葛藤しつつも、それでも自分の中の何かを形にして表現することの喜びが誠実に描写されていると思う。

 

 そして、後藤ひとりが自らにかけていた「今の自分は間違っていて、社会に合うよう自分を変えなければならない」という呪縛を解くきっかけになったのもこのタイミングなのだと思う。少なくとも初期の後藤ひとりは、自分に社会性がないことを精いっぱい隠そうとする意識はあったはずだ。だが作詞をして以降の後藤ひとりは、第7話で男子中学生が考えたようなセンスのTシャツのデザイン案を見せたり、第8話で伊地知虹夏に「バンドで売れて高校退学したい」という目標を語ったりと、作詞以外にも自分の社会的でない一面を人に見せることにどんどん抵抗がなくなっていくように見える。つまり、後藤ひとりは作詞を通じて自己表現の快感を知り、かつそれを他者は否定するわけではないという実感を得ることで、ありのままの自分をさらけ出してもよいのだという手応えをつかんだのである。社会に合わせて自分を作り変える必要は必ずしもなく、ただ自分の内面を素直に表現していけばよい。これは厳しい言い方をすれば、自分が適応する努力を避けて他者の寛容さに縋ろうとする「甘え」だともいえる認識だが、「変わらなければ」という強迫観念に囚われて自信を失った後藤ひとりが、辛うじて嘘偽りのない自我を見出すためには必要なプロセスである。

 

 後藤ひとりがありのままの自分を認めるきっかけを作った人物としてはもう一人、廣井きくりの名を挙げなければならない。廣井きくりは様々な点で「後藤ひとりの進化系の1つ」みたいなデザインのキャラクターで、方向性は違えど見るからに社会性が終わっているという後藤ひとりと共通の特徴を持っている。ほとんどアル中だし普段の言動は破綻していて生活力にも欠けているが、ロッカーとしての胆力と演奏技術は卓越していて、表現者としては成熟した1つの完成形だといえる。

 

 そもそも後藤ひとりの「変わらなければ」という強迫観念の根本にあるのは、高校生なりに自分も「成長」して真っ当な大人にならなければならないという焦燥感だと思う。社会は発達にともなって人々に様々な能力を身につけることを要求し、それができなければ与えられる将来の選択肢を狭めてくる。学校生活でコミュ力や協調性を修得できなければ、孤独で惨めな将来が待っているだけだと思い込まされているがゆえに、後藤ひとりは誰からも愛されず引きこもりになる未来の自分の姿まで想像してしまうのだ。一般的には、社会の定義する正しい「成長」のプロセスがあり、そのプロセスを順当に踏んでいった先に社会に適応した「大人」像がある。少なくとも高校生の目線だと、そうした社会が定義する正しさは絶対的で抗いようもないものに見え、その正しさの前には服従するしかなく、敷かれたレールを歩かされるようにして「成長」することを強いられているかのように思えるだろう。

 

 しかし廣井きくりは、明らかにそうした「正しい大人」ではない。社会に適応しない生き方をロックを通じて叶えることはできるし、社会的に正しい大人にならなくても偉大になることはできる、という可能性を廣井きくりが体現していることは、後藤ひとりにとって大きな救いとなったはずである。二人の金欠変人バンドマンとの邂逅によって、ロックの世界には社会的でない自分をそのまま受容しうる土壌があるとわかり、漠然とした不安を払拭して、ありのままの内面を自己表現として吐き出してもよいのだと自分を解き放つ感覚をつかむことができた。それは社会の提供する正しい「成長」という幻覚を打ち破る契機になるだろう。逆説的だが、社会に普遍的な正しさがあるなどと信じていない方が、むしろ社会の中で生きていきやすいと思う。実際の社会とは高校生の想像力が及ばないほど混沌として多様な場であるからだ。社会が見せる幻想としての「正しい生き方」が全てではないことを自己表現によって知らしめるところにカウンターカルチャーとしてのロックの本質があるはずだ。正しく「成長」できなくても、実際の社会が多様性に満ちていて個々人にそれぞれの抱く正しさがあるだけなのだと分かれば、殊更に自分と他者との違いを恐れ、社会に対して憶病になる必要はなくなる。

 

 

陰キャ陽キャ


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 だが、社会が多様な場であるとしても、誰もが山田リョウのように人同士の違いに寛容(あるいは鈍感)でいられるわけではない。多様で無秩序なだけの社会では、他者は何を考えているのか分からない。それは不気味で恐ろしいので、まず大まかな基準を用いて人々を区別し、一定のセオリーに基づいて他者を把握できるようにする。そのために使われるのが、陽キャ陰キャ」のような人々をカテゴライズするための言葉である。一般にそうした他者を分類する知識は、初対面だとしても他者をあるカテゴリーに押し込め、コミュニケーションを円滑にするのに役立てられている。だが一方では、こうしたカテゴライズによって他者への先入観や偏見による短絡的な理解が生じ、かえって人々の本質的な相互理解が妨げられている側面もある。特に陽キャ陰キャ」のような二元論的なカテゴライズは、安易な同族意識と共感によって他者とつながれる可能性をもたらすと同時に、「あちら側」と判定した相手に対する分断を生みかねない。ネットとSNSによって膨大な人々の人生を垣間見ることができ、自己と他者を容易に比較できるようになった現代において、対話と相互理解のための言葉よりも区別と分断のための言葉を欲してしまう人々は大勢いるだろう。

 

 言うまでもなく、「陰キャ」の後藤ひとりと「陽キャ」の喜多郁代との関係は、まさにそうした現代的でリアルな感覚のうえに成り立っている。「陰キャ」階級の後藤ひとりは、社会に適応的な「陽キャ」階級に対して漠然としたコンプレックスを抱いている。この設定は「陰キャ」目線で進行する本作の受け手に対して、同じ「陰キャ」としての共感ないし「陰キャあるあるネタとしての笑いを惹起させる。ここから作品にオチをつけるとしたら、「侮られていた陰キャが努力と才能でギターを修得し、陽キャたちに一矢報いる」などとという方向性が第一に考えられるだろう。実際、そうした階級主義的な構造と共感をベースにした安っぽいカタルシスを作品の中心に置いている作品は多い。だがこの作品は、ルサンチマンを原動力としつつも決してそれに終始してはいない。初見のときにまずそこに驚いたし感銘を受けた。後藤ひとりが「陽キャ」をぎゃふんと言わせてスカッとする演出になりそうな場面でも、この作品はかなり抑制的な演出にとどめていると思う。後藤ひとりが売れっ子になって「陽キャ」たちに「逆襲」する姿というのは、既に作中で後藤ひとりによる無根拠な空想として先回りして示されているのでオチになっていないし、そもそも客観的に見た後藤ひとりは単に「陰キャ」というカテゴリに入れて把握するにはぶっ飛びすぎていて、カテゴライズに基づく共感の対象としてはっきり位置づけられているわけでもない。

 

 そして、一見「陽キャ」代表のような喜多郁代もまた、「陰キャ」目線から見たような陳腐で単純なキャラクターとしては描かれていない。第10話では、後藤ひとりが文化祭ライブに出る気を失くして申込用紙をゴミ箱に捨てたのを知りながら、勝手にその用紙を回収して提出した挙句、出ないつもりで捨てたとは知らなかったと嘘をついていたことが描かれる。これは無論後藤ひとりに対する嫌がらせなどではなく、喜多郁代は後藤ひとりが普段の学校で全く注目されていないことに不満があり、ライブによって彼女のギターの凄さを学校中に知らしめたいという一応は利他的な動機があった。とはいえ後藤ひとりのみならずバンドメンバー全員からの信用を失いかねないリスクの伴う行動であり、それでも喜多郁代は自身の思いを優先させたということになる。

 

 なぜ喜多郁代はそこまで後藤ひとりに執着するのか。最終話の文化祭ライブ後のシーンで、後藤ひとりからギターの上達を褒められた喜多郁代は、別段嬉しがるわけでもなく「私は人を惹き付けられるような演奏はできない。けど、みんなと合わせるのは得意みたいだから」と語る。ここにあるのは、普段の明るい姿とは似つかない自虐的感情であると解釈すべきだろう。当初全くの初心者だった喜多郁代は練習を重ね、文化祭ライブではアドリブで後藤ひとりのピンチを救う活躍を見せるまでになった。それで自信を深めてもいいはずだが、喜多郁代は後藤ひとりとの間に簡単には覆せないほどのギャップを感じていることになる。廣井きくりや伊地知星歌からも一目置かれている後藤ひとりの才能は作中でも強調されているし、演奏歴も違いすぎるので当然のようにも見えるが、後藤ひとりへの畏敬の念と自身への劣等感はもっと根深いものだと思う。

 

 恐らく喜多郁代は、後藤ひとりのような周囲から突出した個性に対して強い憧れを抱いている。「みんなと合わせるのは得意」だとしても、主張するほどの確固たる個性を持っているわけではないことを自覚していて、そのことにコンプレックスを抱いているのだろう。喜多郁代が山田リョウを慕っているのも同様の理由で説明できる。山田リョウの路上ライブを見て「一目惚れ」したのがバンドに興味を持つきっかけだったわけだが、「ちょっと浮世離れしてる雰囲気とか、ユニセックスな見た目」のような際立った個性に惹かれたのだ。そして、それまで部活など何かに打ち込んだ経験がない喜多郁代は、バンド特有の単なる友情を超えた強い連帯に憧れ、ギター初心者なのを隠して結束バンドのメンバーに応募するという無茶な行動に出る。後藤ひとり目線だと「陽キャ」らしい旺盛な行動力の表れだとして説明されるが、客観的に見ると普通に狂った行動には違いない。つまり、人前で明るく普通に振る舞えるはずの喜多郁代の行動原理を時に狂わせるほど、個性的であること、換言すれば「何者かであること」への彼女の憧憬は強烈であるといえる。

 

 社会に適応的な生き方ができても、いや適応的にしか生きられないからこそ、社会に染まらなずに独立した存在に惹かれてしまう。普通であることにコンプレックスを抱いてしまうという感性はかなり現代的で生々しいものだと思う。例えば山田リョウへ「貢ぎたい」という喜多郁代の態度は、現代においてビジネス化しつつある「推し」文化の文脈でよく見られるものだといえる。「推し活」などといって直接的な見返りの少ない搾取構造に自ら取り込まれようとする人々は、多くの場合その不均衡さを自覚しているが、時間も金銭も投げうって「愛」を注ごうとする自分を狂気や偏執といった形で表現しようとする。利己的な動機付けができないほどアンバランスな取引であることに意味があり、そんな破綻した「愛」を注いでいる間だけは、適応的で保身的な、つまり平凡で退屈な自分から脱却して「何者か」になったと感じることができる。ここでは、自分自身では努力などによって自分の理想を叶えることはできないとする諦念が前提になっている。自分の思いを優先せずに周囲の顔色を窺ってばかりいるから、誰かから非難を浴びる可能性のある利己的な生き方を選ぶことができず、依存にも近い利他行動の深みにはまってしまう。

 

 だからこそ喜多郁代にとってバンド活動とは、周囲に合わせるだけの弱々しい自己と決別するためのプロセスなのである。第5話で「成長」の意味を努力であると定義しているように、重視しているのは何かに打ち込んで努力することそのものであって、喜多郁代にとって打ち込む対象が「バンドでなければならない」理由は山田リョウや伊地知虹夏ほどには明確でないかもしれない。それでも彼女なりに苦しみや葛藤を抱えながらバンドに向き合っているのであって、それは当初の後藤ひとりが想像していたように「陽キャ」だからという属性だけで説明がつくようなものではない。陽キャ」には「陽キャ」なりの地獄が待っているだけなのだ。人生を謳歌する「陽キャ」に対してコンプレックスにまみれた「陰キャ」という定型化された図式は、ここでは成り立たないことになる。

 

 最終話で「私は人を惹き付けられるような演奏はできない」という喜多郁代の自虐的な言葉を聞いたとき、「えっ」と驚いた後藤ひとりは何を思ったのか。喜多郁代の内包する葛藤を理解できたわけではないが、彼女の存在をただ自分とは異なる「陽キャ」という枠に押し込めてきた自分の態度を見直すきっかけにはなったはずだ。喜多郁代が後藤ひとりのことを「ひとりちゃん」と姓ではなく名前で呼ぶようになるのは、決して「陰キャ」が「陽キャ」と対等になるまでに成り上がったことを意味するのではない。「陽キャ」「陰キャ」などという二元論は、明らかに個人個人の本質を示唆していない。社会に散らばっている陳腐なカテゴライズを超え、陰キャ」「陽キャ」ではなく「後藤ひとり」「喜多郁代」という一言では説明しきれない固有の人格があるに過ぎず、その人がその人なりの葛藤を抱えて生きているという認識に立ってはじめて、本当の意味で相互理解への道筋が開かれる。後藤ひとりのもつ個性や才能、あるいは喜多郁代のもつ明るさやコミュ力への互いの羨望は簡単にはやまないだろう。だが少なくとも後藤ひとりにとっては、自分を「陽キャ」に劣る「陰キャ」などと貶める視野の狭い価値観から自身を解放するための楔となるのが、喜多郁代という存在なのである。

 

 

ラストシーンと「転がる岩、君に朝が降る


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 最終話ED付近で流れる、後藤ひとり版の「転がる岩、君に朝が降る」は、第1話のサブタイトルが「転がるぼっち」、最終話が「君に朝が降る」であることからも明らかなように、使用された劇中歌の中でも特別な位置づけの楽曲であり、そのテーマは作品全体のコンセプトの根幹をなしているとさえいえる。歌詞の解釈は様々できるだろうが、「出来れば世界を僕は塗り変えたい」とひそやかに願ってはいても「何を間違った?それさえもわからないんだ」と嘆く主人公の姿は後藤ひとりと重なる。「僕らはきっとこの先も心絡まっ」たままなのかもしれない。しかし、どんなに見苦しい有様でも、「転がって」でも「凍てつく世界」に踏み出してゆけばよいと歌う。この曲をある種の応援ソングと位置付けることは可能だろうが、ここで歌われているのは、何か自己変革の末に華々しい成功を勝ち取るような劇的なサクセスストーリーでは決してなく、「転がる」しかない不完全な自分に「朝が降る」かのようなささやかな祝福がもたらされる物語である。逆境をはねのけたり理想を実現させたりする力が自分に備わっていなくても、「転がっ」たままで進めばよいのだとあらゆる存在を認める「許し」がここにはある。そしてそれは音楽の力によってもたらされる祝福*9である。まさに「陰キャならロックをやれ!」だ。

 

 改めて、この作品のテーマは後藤ひとりの「成長」ではないと思う。むしろ後藤ひとり自身は大して変わっておらず「転がるぼっち」のままだ。しかし、そうしたありのままの自分を他者は見てくれていて、周囲に合わせて変わらなくてもいいし、自己表現によってさらけ出してもいい。人々を分かつ強固な壁のように見える社会も、実際には様々なバリエーションを内包していて、誰もがその人なりの不安を抱えて生きているのだとわかる。「成長」について語られた5話で自販機前のシーンがあり、それと対になった8話の居酒屋前のシーンで伊地知虹夏の「ぼっちちゃんのロック、ぼっち・ざ・ろっくを!」のセリフが出てくるのは、「成長」するでもなく「ぼっち」な後藤ひとりの現在を、本作は自然なままに受け止めているためである。そうして未完成で不確実な自分の現在を許し、認め、「君に朝が降る」と祝福し肯定するところにこそ本作の主題がある。

 

 だからこそラストシーンはいかにもフィナーレにふさわしい感動の文化祭ライブではなく、いつものある日の朝に何気なく後藤ひとりがつぶやく「今日もバイトかあ」で締めくくられなければならない。あたかも物語のように成長の度合いや進むべき目的が見えているということは、実際に体験される人生ではあり得ない。自分の過去の全てを肯定することも、将来を確実に予測することも、常に現在にしか生きられない我々には不可能だからだ。それなのに人生のネタバレが進んだ現代においては、誰もが自分の現在を物語のように「成長」やその時々の目的に応じて定義づけなければならないという焦燥に駆られていて、思い通りにならない自分を省みては自信を喪失する。「青春」などとは言っても、ただ向こう見ずに刹那的な現在を生きることに集中するのは難しい。だからこそ、自分の現在を肯定できなかった後藤ひとりが、何でもない「いま」を自然と受け入れられるようになったことに意味がある。これはリアリティに即した極めて真摯な結論に思えるし、ここに不安と迷いの中に日常を送る現代の我々が祈りをささげる余地があるといえるだろう。そんなテーマを表現するための音楽・作画・演出などすべてがあまりにも雄弁な作品だった。

 

*1:分かりやすくいうと、「キャラ萌え」と言い換えられるかもしれない。あまり自信はない

*2:もちろん多くのきらら作品が、テンプレを描きつつもあえてそこから少しずつ逸脱してみせることで、その作品なりのテーマを描こうとしていることは知っている。例えば本作と同じClover Works 制作の「スロウスタート」は、体面上は「日常系」の体裁を保ちつつも、一面的な理解によるキャラクター観は真実ではないということにかなり自覚的で、リアルな断絶を随所に取り入れることでシリアスなテーマを強調した作品だったと思っている

*3:大胆に行動できるとはいえ、それは演奏者としてその場での最適解を選べるということを意味しない。最終話の文化祭ステージでは、ギターの弦が切れるトラブルに咄嗟のボトルネック奏法で対応するあたりはミュージシャン然とした非凡な直感と才能を感じさせるが、その直後には空気を読めずに客席にダイブして滑り散らかしている。爆発力はあるが判断力が伴わないためランダム性が高い

*4:後藤ひとりが追い詰められた挙句に謎の解釈をして謎の行動に出るという流れは間違いなく本作の笑いどころではあるのだが、わりとギャグとして成立するかどうかギリギリのラインを攻めていると思う。この文章の中でもつい茶化した書き方をしてしまっているが、10代の自我と承認をめぐるきわめてシリアスな葛藤が一定のリアリティをもって描かれているのは確かで、それを陰キャあるあるだとか異常者だとか安直に対象化したうえで笑いのネタにされているとするなら、筆者個人としてはあまりいい気はしない。念のため付け加えるが、以上は作品自体に対してというよりは受け手の態度に関するコメントである

*5:https://twitter.com/guitarhero_0221?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

*6:山田リョウの言動が空虚に見える理由もこれで、あらゆる他者の「個性」はただそこにあるだけで尊重されるべきであって、自分が干渉する余地はないと考えているためであろう。

*7:もちろん山田リョウは個性第一主義の理想の信奉者だといえるが、幼いころからライブハウスで「個性的でありたい人々」を多く見てきたであろう伊地知虹夏はもっとドライな考え方をしていそうだ。バンド内で歌詞の担当を後藤ひとりに振る流れもかなり適当だったし、伊地知虹夏にとっては自らの夢を叶えることが第一で、そのための手段であり過程にすぎない表現の中身については拘泥していないように見える。そんな彼女が、物静かに情熱を滾らせるタイプのロマンチストである山田リョウをバンドに勧誘した際、殺し文句として放った「だって私、リョウのベース好きだし!」とはどういう意味なのか……などと考えてみると、この二人の関係性も相当味わい深いということがわかる

*8:アプリオリに個性的である人間が存在するとしたら、そもそも他者を他者としてうまく認識できず、自分は多少なりとも正常に振る舞いができると思い込んでいる(後藤ひとりのような?)本物のコミュ障でしかないだろう。程度の差はあれど山田リョウも相対主義に囚われていることには変わりなく、ただ純粋で絶対的な自我に対する憧憬を抱いているのだと考えると、やっぱりこの二人の関係性も相当味わい深いということがわかる

*9:「転がる岩」って Rock 'n' Roll じゃん、と気づくまでにまあまあ時間がかかった

浅倉透GRADには何が書いてあったのか 読解・感想・考察

 昨年書いた浅倉透WINGに引き続き、シャニマスの浅倉透GRADシナリオについて筆者なりの読解や感想を文章にまとめておきたいと思います。基本的に透のコミュは他のキャラクターと比べても難解なものが多いですが、恐らくGRADは透のキャラクターを理解するのに必須であるにも関わらず、WINGよりもさらに難解だと感じました。必ずしもこの読みが正解であるとは思っていないので、ご指摘・ご感想などあればぜひコメント等いただけると幸いです。

 

touseiryu.hatenablog.com

↑浅倉透WINGの記事。これをベースに議論している部分もあります

 

OP「鼓動」

 透の「湿地」に関する発表のナレーションと並行して事務所でのPとの会話が描かれる、透らしい印象的なコミュ。透が学校で「偉い人」と語る学年2位のクラス委員長から300円のギャラでナレーションの依頼を引き受けてきたという。言葉足らずな透の話を聞いたPは最初アイドルの立場として受けてきた「仕事」なのだと早合点し、「直接打診を受けた時はまず相談してほしくって――」と彼女を窘めかけるが、学校の授業の一環と聞いて「それならいいんだ」と態度を改める。それに対する透の反応は「仕事でしょ ギャラもらってるから」だった。オーディションイベント「G.R.A.D.のことも忘れないでほしいとPは注意する。「――うん」と肯定してみせた透の態度はやや不満げだ。唐突に「ミジンコってさ あるのかな、血」「ある?心臓」と問いかける。そして1人で事務所からの帰りに川へ寄った透は「もし、あるんだったら―― どきどき、してるか ミジンコ」と謎のコメントを残してコミュは終わる。

 

 OPとはいえ改めてあらすじを追ってみるとなかなか難解だが、ナレーションの内容とPとの会話で示された透自身の内面はリンクしていると考えられるのでそれを手掛かりとしたい。さまざまな生物が生息し、豊かな生物多様性の揺り籠としての湿地。そこにはミジンコのような微生物も一個の生命として存在しており、生態系の一部をなしているはずだが、人間社会からすればその膨大な体系を物理的に見ることも困難で、興味の対象となることも稀だろう。しかし透はそんなミジンコに「どきどき、してるか」と共感し語りかけてみせるのである。いつもの浮世離れした宇宙人的発言と突き放すことはできるが、ここには一貫した透独自の姿勢が表れている。すなわち「個」への分け隔てない視線だ。WINGシナリオでは社会通念とは距離を置く透の生き様が描かれたが、彼女の興味の対象もまた人間社会の常識に縛られることはなく、ただそこにある生命をフラットに見つめているといえよう。なお同様のテーマは比較的初期のコミュだと「天塵」で缶のコーンスープを飲んだ際に底に残った粒を気にするシーンや、「10個、光」でバスから見た個々の家の明かりに感動するシーンなどで繰り返し描写されている。

 

 透の不満げな様子は、Pが学校の発表のナレーションをアイドルとしての「仕事」ではないと判断したこと、あるいは「G.R.A.D.」について「期間中は、ずっとアピールタイムみたいなものだからさ」と言っておきながら学校生活のことを区別して、透の関心が発表の方に移るのではと気にしていることが原因だと考えられる。

 

 おそらく透はナレーションの「仕事」を含めた学校生活とアイドル活動をあまり区別していない。アイドルとしての浅倉透と「24組、浅倉透」の間には何の垣根もなく、ただ自然体の浅倉透という「個」が存在しているだけなのだろう。社会は「芸能人」「女子高生」「(職業の)プロデューサー」といった属性の集合によって普遍的に個人を把握し、それぞれの属性に沿った立ち居振舞いを要求する。個人はそれに応じて場面ごとに様々な「顔」を使い分ける。しかし透は、人間社会に見放されたミジンコの視点から、いかにも社会人らしく「プロデューサー」の顔の範疇で彼女と向き合おうとしたPの態度に違和感を覚えたのではないか。そして「どきどき、してるか」とは透自身の今後の展開への期待と不安の表れでもあるのだろう。

 

シーズン1「携帯が鳴ってる」

 偶然透が写り込んだ写真がSNSで拡散され、にわかに注目を集めることになった透とPの会話と、ナレーションを依頼してきたクラス委員長との会話の回想という2つの場面がここでも交差するように描かれる。写真に写り込んだ透は「奇跡の赤ジャー」などとルックスを賞賛されているらしい。SNSの投稿の「♡」もフォローも無秩序に増加していき、通知が止まらなくなって携帯は鳴り続ける。Pは「めちゃくちゃ話題になってるぞ、透……!」「注目されるってこと自体は、ポジティブなことだから」と炎上を気にしつつも状況を前向きに捉えている。しかし当の透はそもそもSNSに関心を持っておらず、「うん……やばい アイドルみたい」とどこか他人事のようだ。一方回想では、「ごめんねいきなりで、びっくりするよね」と畏まる委員長に対して、透も「偉い人きたーって思った」と驚きを口にする。透はクラス委員会のことを緊張すると言ったり、委員長の成績を褒めたりする。委員長が、自分ごときでは到底届かない高みに透はいるはずだ、という恐縮の意味で「だって、どうやってなるの? その、アイドルって」と尋ねると、透は何故かそれに真正面から答える。「……なんか、なった ていうか―― なってないかも?」の後に暗転して「息 してるだけで」というセリフで唐突に締める印象的な演出がなされている。

 

 SNSの「♡」はOPで出てきたミジンコの心臓の話とかかっているし、携帯の通知を伝えるバイブレーションは「鼓動」に似ているとも考えられる。しかし明らかに透は「♡」にも携帯の通知にも、それほど関心や前向きなイメージを持っていない。これは前回示されたミジンコへの興味とは対照的だ。あえて言えば、ひとつの生命の宿す血の通った「鼓動」と、ネットと電子機器が作り出したバーチャルな「鼓動」とがあり、透は後者にはリアリティを感じていないのである。さらに後者によって描き出されるだろう自身の「アイドル」像についても、「アイドルみたい」という発言から窺うに、実のところ透は確信を得ていなかったことがわかる。

 

 一方で委員長との会話でも、委員長と透の差異が対照的に描かれている。両者とも世辞のつもりで言っているとは読みにくいので、お互いに相手に対するリスペクトと近寄りがたさの混じった畏敬の念があると考えてよいだろう。一般的な価値観では「学年2位」がクラスにいることはあっても本物のアイドルがクラスにいることは稀であり、委員長のような態度のほうが自然に思え、透がクラス委員会ごときで緊張したり、委員長の「どうやってなるの?」という質問を反語だと受け取らなかったりする方が奇妙に思える。しかしOPコミュで見たようにアイドルとしての仕事と学校生活との間に区別と優先順位をつけることを拒み、自分がアイドルであるという実感が希薄な透には、やはり委員長の方が「偉い人」ということになるのかもしれない。

 ここにある透自身の自己評価の低さと委員長に対する評価の高さをどう解釈すべきだろうか。「途方もない午後」では本コミュとかなり近いテーマを扱っている。多くの業界関係者から持ち前のルックス(あるいは雰囲気、オーラ)について「いいね!」と褒められるが、透は独り「よくなーい」と呟く。そこでPが言及したのが「のぼる」ことだった。「のぼる」とはWINGシナリオのキーワードであり、以前筆者の書いた記事から引用して「常識に縛られず、「成長」して「何者か」になるというある種の観念にも馴染まず、何かその先のビジョンが見えているわけでもないが、ただ純粋なまま、既に手元にあるもの(例えば過去)を肯定するためにもがくこと」であると一旦定義したい。透は少なくともWINGでは確かに「のぼる」ことをしたはずだが、それでも自分を肯定するまでには至っていないということなのだろうか。「息してるだけ」でアイドルになれてしまう今の透は、社会による評価と自己評価が釣り合わないことに不満がある。例えば市川雛菜であればこうした水平的な思考にはならず、「自分は自分以外にはなれないから気にしても仕方ない」と割り切るところだろう*1社会通念に染まらず飄々とした印象の透だが、実は社会と周囲の人間の姿を彼女なりに見て応えようとはしていて、その中で個々の生命(例えばミジンコも含め)が公平に扱われるべきだ、というような信念をもっていることが見て取れそうだ。

 

 そして透はなぜ委員長のことを高く評価するのか。これもやや不自然で、朝コミュで「補講にならないように気を付ける」という趣旨のコメントがあるように学習面に関しては全くやる気がないわけではないものの、真剣に取り組んでいるとは言い難い。委員長と成績で張り合おうという気はないはずだ。恐らく透たちの高校は少なくともバリバリの進学校という感じではないだろう*2、決して全員が同じ目標に向かっているのではなく、高校生ともなれば勉強、部活、その他の活動と人それぞれ様々に打ち込むものがあり、各々である程度バラバラな評価軸を持っているはずだ。

 

 WINGPと出会う以前の透は、恐らくその「打ち込むもの」が何もないことにコンプレックスを抱いていた。だからこそ元から憧れがあったわけでもなく偶然にPとの出会いによって始まったアイドル活動を、「のぼる」ことであると再定義して進むことを決意するのがWINGシナリオのヤマである。しかし先に述べたように「のぼる」とは何かその先に展望があるわけではない、言わば自己の救済のための独善的な運動であることには違いない。「のぼる」ことをあえてアイドルで行わなければならない決定的な理由を、Pとの関係くらいしか透は持っていないのである。これは他者あるいは社会と極めて密接にかつ複雑に関係してゆくアイドル活動においてはいつか向きわなければならなかった問題だともいえる。そして案の定、透は自分がアイドルであるとの実感を持てないままここまで来てしまったのだ。

 

シーズン2「息してるだけ」

 SNSで話題になったことで仕事が増える透。出演したラジオ番組ではめちゃくちゃなボケを連発して大暴れするが、業界人からは「いいキャラだなあ」「面白いじゃないですか」などと好感触を得る。収録の帰りの車内で透とPが会話する。Pは急に多忙になった透のことを心配している。仕事を「無理に、請けなくてもいいからさ」というPに対して透は「いいってこと? 請けない方が」とその心配を全く意に介さない。「やってなくない? そんな心配されるほど」「――しんどいって言ってた。めっちゃ めっちゃしんどいんだって。2番になるの」「ないじゃん、そういうの めっちゃ、なんか――楽勝だから

 

 ラジオ収録のシーンはこれぞ浅倉透の真骨頂という感じでかなり笑えるが、P目線だと大ボケをかます透にハラハラさせられた場面だっただろう。その後車のシートに透が食べ物か何かを落として汚しかけるように、どこか危うさを抱えた存在なのだろう。致命的な失敗をビニール袋一枚の差で辛うじて躱して何とか笑えているのが現状なのかもしれない。だからこそPは「透の気持ちが大事になる、ってこと」と改めて透の決意を確認しようとする。一方の透は、むしろ自分が何故か失敗しないでここまで来れていることに不満があるように見える。どれだけ現場でミスをしても芸能界ではそれは「キャラ」「持ち味」として好意的に受け取られる。何かそんな有様を公平*3ではない、と感じているのかもしれない。

 

 透が比較対象として出したのはやはり委員長だった。委員長は2番になるために「めっちゃしんどい」思いをして勉強している、対して自分はアイドルの仕事をしているとはいえいつも「楽勝」、だから委員長は偉く、自分は大したことをやっていないと自虐的に語る。換言すれば努力や必死さが自分には足りず、それを持っている委員長の方が高く評価されるべきだと考えていることが明確になる。その方が公平だと考えているのかもしれない。ではアイドル活動に必死になって自分で努力すればよいのでは、という話になるわけだが、筆者には何か最後の透のセリフに諦念のようなものが混じっているように思える。つまり自分にはそんな努力は不可能である、というような諦めと、どうにもならない投げやりな気持ち。

 ここは筆者個人の解釈が強くなるが、「のぼる」ことはいわゆる「成長」のためのプロセスを意味しないと感じる。「成長」とは他者あるいは社会が定義する姿に自分を適応させることであり、その前後の変化は必ずしも絶対的に肯定できるものではないし、そうした普遍的な価値観を鵜呑みにしないからこそ浅倉透という人格が作られたと考えているからだ。だが思えば、ここまで「のぼる」運動を行ってきたとはいえ、透が本質的に自分の意思で自分を変えようとしてきたかといえば否だろう。努力とは自己変革である。痛みを覚悟で過去の自分を否定し、自らの意思で自分を作り変える。透のいつもの姿勢はそれとは程遠い。学校生活でもアイドルでも透は常に自然体を保ってきたし、ラジオの収録で何度もミスをしても透は謝罪しない。それが透らしさでもあるのだが、例えば努力することを当たり前だと考えている福丸小糸であれば平謝りして失敗を取り繕おうとした場面だっただろう*4

 

 「努力できるのも才能」とはいうが、なぜ透が自分は努力できないと考えているのかは判然としない。透が努力せずにアイドル世界で成功できてしまうように、元から賢い人間は凡人から見れば大した努力もせず勉学で成功してしまうこともあるし、努力して永遠に失われてしまうものだってある。そんな言葉をかけたくもなるが、高校生で同年代の他者が痛みを負って努力しているなか、自分だけが安穏としていることが許せない気持ちは理解できる。だからここで透は自分を変えようとしてしまうのだ。「のぼる」こと、すなわちこれまでのアイドルに対する向き合い方に変化が生じてくるのが今後の展開であるといえる。それを象徴するように、鼓動のようなSEが多用されたり、舞台監督の「つかむ子はつかむんじゃないですか」という予言めいたコメントが挿入されたりしている。

 

GRAD予選

 予選前後のコミュでは、透がPに「勝ったらさ、すごい?」「じゃなくて、偉い?」と質問を繰り返す。Pが「すごい」「偉い」と言葉を返しても透の反応は鈍い。敗退時にはPの力強い言葉に「つられる」と言って微笑みかける。良くも悪くもここまでアイドルをやってきたモチベーション、すなわち「のぼる」ことの中心にはPがいたわけだが、今ではPの言葉を信じ切れず、自分は唆されているに過ぎないのではないか?という疑念が生じかけていることが窺える。

 

シーズン3「どうしたいのかとか、聞かれても」

 透と委員長の会話と、透とPそれぞれのダンス講師との会話が平行して語られ、さらに後半にはPの視点になり、各所にランニングをする透の痛ましいほどに荒い息遣いが挿入されるという、かなり複雑な構成で感情を揺さぶる本シナリオのヤマ場。透は委員長と連絡先を交換する。委員長が「浅倉さん、その……クールな感じだから クラスのことに協力してくれるんだ、って」と本音らしきものをつい口にすると、透の反応は「言われる ちゃんとやれーって」だった。しかし「ちゃんとやるから、これ」「ふふ、やれるかな 委員長みたいに、めっちゃ頑張るの」と決意を述べる。その後にダンス講師とのレッスンがあった。委員長との約束の方に気をとられた透は、着信を気にしてレッスンを中断させてしまい、そのような態度を「全体的に適当というか、何を考えているかもわからない」とダンス講師に判断され、気持ちを引き締めるために「河原コース100周してから出直しなさい」と言い渡されてしまう。それを真に受けた透は、「100周したら わかりますか」と本当に河原コース100周のランニングを始める。しかしそれは到底無謀な挑戦であり、Pが駆けつけるまで息も絶え絶えになりながら走り続け、5周したところで倒れてしまった。

 

 委員長から「浅倉さんに引き受けてもらえたの、ほんとに、すごく嬉しいの」と言われて透は素直に照れた態度を見せる。これはGRAD予選でPから「すごい」と言われた時とは対照的な反応である。そんな信頼を寄せる委員長から協力してくれなさそうなイメージを持たれていたことは透なりに応えたのではないか。ダンス講師の「そういうキャラだって、ちやほやされてるんでしょう?」も含めて、透が頻繁に「常に無気力で何に対してもやる気がないくせに、顔が良いので周りから注目されてそれに慢心している」ように周囲から思われていることは想像に難くない。基本的には他者から愛されることの方が多いのだろうが、先天的な素質の上に胡坐をかいていてずるいと毛嫌いする人もいるだろう。もちろん透は自分勝手な人間ではないし、危ういながらも彼女なりに軸を持って生きていることはわかる。ただ自己表現があまりにも拙いために周囲に誤解を与え続けているに過ぎない。現にWINGでは他ならぬPが透の真意をはかりかねていた。たびたび透が、心臓があるかどうかさえ人間に知られていないミジンコに自分を重ねているのは、周囲から一向に理解されない透自身の疎外感の表れなのかもしれない。

 

 ただし透が同年代と比較して明確に欠けていると思われるものがある。すなわち目的意識である。Pと出会う以前にはもちろんその目的意識が持てなかったことから退屈で閉塞感のあるジャングルジムの夢を見ていたのだろうが、WINGでの成功体験でそれを克服したはずだった。だがアイドルの道でも、「のぼる」まではできてもゴールがあまりにも不明瞭であるがゆえに、目的意識をもって努力し、主体的に自分を変えていくほどのモチベーションは見いだせなかったのだろう。まさにタイトルのように自分を「どうしたいのか」が分からない。だからこそ、自分には努力して主体的に人生を歩むことなど無理だと半ば諦めているのではないか。

 

 自分にはできない努力をしている委員長から頼られたことは、本当に嬉しかったのだろう。それは透が自分自身に欠けたものをもう一度見つめ直す機会になった。委員長を手伝うという心からの目的意識が、確かに自分の内に宿ったことを確認した透は「ちゃんとやるから」と努力を誓うのである。しかしここで、透がこれまで維持してきた、学校生活でもアイドル活動でも区別せずに自然体で向き合うというバランス感覚は崩れることになる。それは何事に対しても「目的意識を持たない」ことではじめて可能となるスタンスだったからだ。一度目的意識をもってしまえば、それに基づいて自分の行動・思考が新たに定義づけられ評価される。それはもはや人造物としての自己であり、自然体とは呼べないだろう。バランスにさえ気を遣ってそれらしい目的意識を場面ごとに使い分けられれば、目的意識の数だけ違った顔を演じ分ける(おそらく透の嫌いな)立派な社会人になれる。だが高校生の透にはまだそれができず、ダンス講師との関係に破綻をきたす結果につながった。

 透がやっとの思いで抱きかけた目的意識には、これによって冷や水が浴びせられる形となった。それでもなぜ透はダンス講師の言葉通りに、おそらく意味のない河原100周に挑んだのか。透は相手の言葉をあまりにも率直に受け取りがちなため、本当に講師の真意が分からなかった可能性はあるものの、別の要因を考えたい。

 第一に、社会への当てつけであるという説。自分に過大評価を与えたり、逆にずるいと非難したりする人が多い中で、彼女を彼女としてそのまま認めてくれる人間が家族や幼馴染たちの他にどれほどいるのか。いや母親ですら透の直面する事態をつかめていないし、真に自分を分かってくれる他者などこの世にいないのかもしれない。このダンス講師にもまた透の本質は理解されず、人格を否定するような厳しい言葉も受けたのかもしれない。そんな自分を理解しない社会に対するフラストレーションがこの時爆発したのではないか。

 第二に、透の中で何らかの公平さを維持しようとした説。恐らく透は、委員長との大事な約束があったとはいえ、レッスンを台無しにしたのは紛れもなく自分であるという自覚はあるだろう。それを罪とするなら罰を受けなければ彼女の中で公平さが保てない。あるいはダンス講師の「そういうキャラだって、ちやほやされてる(のでずるい)」という批判を受けて、その「ずるさ」に対する責め苦を自分が受けることで公平であろうとしたとも考えられる。先述してきた通り透は公平さに妙にこだわっている節があるし、最後の「分割払いで」というセリフからもランニングが何らかの「負債」であると考えていそうなことが窺える。

 第三に、自傷行為であるという説。委員長との比較の中で目的意識のない自分の惨めさを自覚し、それでも辛うじて芽吹きかけた目的意識は一瞬で吹き飛ばされてしまった。自己の尊厳をかなり失っている状況であることは間違いない。であれば、自己を破壊したい衝動や、自己を追い込んで自らの生を確認したい衝動に駆られても不思議ではない。だからこそこの時「ミジンコの心臓」の話が出てくる。とにかく向こう見ずに走り続ければ透の心臓は早鐘を打つように鳴り、確かに彼女の心臓がそこに存在し、彼女が生きていることを知らせたことだろう*5。そして透は周回中に「わっかんない」と吐きすてる。自分を限界まで追い詰め、破壊しきった先に何か自分の求める答え、すなわち自分は自分を「どうしたいのか」がわかるかもしれないと一縷の望みにすがろうとしたのではないか。

 第四に、分かりやすく形式的に「努力」っぽかったから。ランニングで体を鍛えるのは単純に生存に役立つし何をするにしても無意味ではないが、一度に100周もする必要性は全くない。目的意識が曖昧なままではそれは努力とすら呼べず、ただの悪あがきだと思う。

 

 筆者はこれら4つの要因全てが関係して透を自暴自棄な行動に走らせたのだと考えているが、やや想像の部分が多い。いずれにせよ、これほどまでに追い詰められた透を見るのは誰もが初めてだっただろう。ここには努力によって得られる青春の爽やかさなどはない。ただ透の束の間の喜びと、無念さと、もがき苦しむ様が痛々しく描かれているだけである。それは描き方としてはきわめて真摯であるように筆者は感じた。

 

シーズン4「息したいだけ」

 透のアイドルとしての仕事は引き続き順調で、業界人たちは口々に透を賞賛する。しかし透の表情は曇ったままだ。それを見てPも、「上々だよ……けど――合ってるのかな、俺」と違和感に気づき始める。透と委員長の会話では、透の朗読を委員長が聞いている。透は原稿の意味がわからないが、「ぴったりだよ 浅倉さんの読んでくれる雰囲気で」と委員長に褒められる。「『川の水、海の水、あたたかい泥 そこに沈めば、きっと こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に』――なりたいの?そういう感じに」透は問いかける。「食べて食べられて、どんどん太陽の命がつながって湿地を営んでるの……もちろん、世界中がそう そのくらい、命ってシンプルなんだなって……そういうことに、感動しながら書いてたかもしれない」委員長はそう答えた。Pと透は、偶然出会ったバス停まできて話をする。透は「座ろ」と言ったり「乗ろ」と言ったり、迷う様子を見せる。Pは「大丈夫か」と透を気遣うが、透は「『大丈夫だ』って言ってよ」とそれを遮る。そんな中で冗談のように透が言った「湿地に行く」というアイデアを、Pはその場で実行に移すことにし、透を連れ出す。干潟に着いた透は、改めて心情を吐露する。「ウケるじゃん、走らなくても――べつに、踊れなくても 大変じゃなくて……全然 してるだけだから、息」「のぼってる……って思ってたけど わかんないや、最近」「いいよね、ここ――息してるだけで、命になる ミジンコとかも でかい鳥とかも」それを聞いたPは、透が確かに「命である」と認めた上で、「頑張りたいんだな、透――頑張れてるのかどうかってこと 透が決めていいんだ」と語りかける。「大丈夫だ、合ってる――ちゃんと……立派に、命に見えるよ

 

 業界関係者からのいつもの過大評価が続いた後で、自分が何を読んでいるのかをよく分かっていない透を依頼主の委員長が褒める。ここには含意があるだろう。すなわち、「努力している人」として努力していない透の価値を正しく測れるはずの委員長が、実は業界人たちと大差ないのではないか、という可能性である。そして「こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に」が来る。委員長が真摯な気持ちでこれを書いたことの意味は重い。大きな生態系のなかで考えると、個々の人間が何を考え、どう行動するかといった問題はあらゆる意味で全く取るに足らない小さな行為であると言い切れてしまう。中でも努力とは自分の意思で自分を再定義するために行うものだ。生命がいずれこなごなになって名前をなくし、ただ食物連鎖の一部になる運命なのだとすれば、努力して自分を高めたところで、いつか唐突に全くの無意味となって忘れ去られれてしまうことになる。だが、本来それは穏やかな滅びであると同時に祝福でもある。複雑な人間社会の営みが矮小に思えるほどのダイナミズムと、本来的な生命のシンプルさに委員長は感動したのだ。思えば、委員長は自分の努力について「しんどい」としか言っていない。つまり、実のところ委員長は努力を必ずしも肯定してはおらず、努力する自分を生命として不自然だと疑問さえ抱いていたのだ。努力しているという点で委員長を勝手に「偉い人」だとみなしていた透も、本当は委員長のことを何も分かっていなかったのである。

 

 現代的な、各人の意思によって各人の人生がつくられると考える社会では、人々が死の運命にあり、当然のように人生にかけた望みが絶たれうる事実は隠匿される。そして一般的には、思春期にある人間は発達とともに自分の可能性を拡張し、最も死と縁遠いところで自己を形成し、今後の生き方を決めるものだとされる。だから死の運命と生命の循環という自己形成そのものを無意味化しかねない概念は、特に思春期には似つかわしくなく、努力を賛美する価値観とは正反対に位置するものだ。しかし、その努力を自分の意思でやっているつもりが、どこかでそれを何者か(あるいは社会)に強いられている、何かがおかしい、本当に自分の主体性はここにあるのか?と悩む気持ちは筆者もよく理解できる気がする。努力しない人間は社会から承認されないのだ。だからこそ人間社会のあらゆる理念を無力化しかねない、社会の外部にあってあらゆる個を承認する生命の連環に、委員長は救われたのである*6。透のナレーションを聞いた委員長が「ぴったりだよ」と言うが、恐らくナレーションを委員長が透に託したのは、透の社会通念に縛られない自然体の生き方が、人間社会を超越する「湿地」のテーマと通底すると考えたからだろう。

 一方の透は戸惑いを深めてゆく。努力によって人を評価する価値観の源泉であった委員長もまた、自分と同じように生き方に迷いを抱える等身大の女子高生であると分かったからだ。だからそこで目的意識に疑いが生じ、残りの50周を走る理由も失ってしまった。前コミュで自然体としての飄々とした自己さえ失い、迷った透がたどり着いたのはWINGシナリオでPと出会った思い出のバス停であった。無色透明だった透をアイドルの道へ誘ったのはPである。だから透はもう一度、「大丈夫だ」と自分を導いてくれることを期待するのだが、Pにも答えは見えておらず「大丈夫か」と気遣うことしかできない。そこでPは、WINGの時のように社会的な役割関係を放棄し、対等な自然体でのコミュニケーションに活路を見出そうと、透を連れ出したのだろう。このあと「のぼる」というキーワードが再登場することからも、ここはWINGシナリオを下敷きにしたディレクションであるとみて間違いない。

 

 Pの言うとおりにアイドルをやることがWING以来の透にとっての「のぼる」ことだった。しかしアイドルを続ける中でいつからか自分の主体性の在りかに疑問を抱いてしまった。恐らくそれがGRADでの透の葛藤の原点だ。そして他人はもっと内発的な動機で、しかもずっと痛みを背負いながら努力しているのだと気づき、委員長から認めてもらえたことをきっかけに自分の人生に目的意識が欠けていたと自覚する。自分でも諦めかけていた努力をやってみることで、ずっと以前から抱いていた周囲に対するコンプレックスと疎外感を解消できると考えた。しかし委員長の葛藤を感じ取り、実際には努力そのものが正しいわけではないのかもしれないと気づく。そうして思い悩むうちに何も考えていなかった頃の自然体の自分を見失った。ここまでの透の葛藤の経過をまとめると以上のようになるだろうが、ここで単純化のために現時点で透自身の抱える問題を3つに大別しよう。

 ①人生全体に主体性がないこと 

 ②周囲からの疎外感があること 

 ③前2項目を意識した結果、自然体の自己を肯定できなくなったこと

 これをもとにPのかけた言葉の意味を考えたい。「頑張りたいんだな」とは一見努力のことを言っているようだが、直前に努力の価値は打ち消されているし、「何かを行って成したいのだろうが、痛みを負うことも自分を変えることもしなくてよく、それを他人に認められなくてもいい」くらいのことを指しているのだとしよう。例えば「途方もない午後」では、透は自分の良さを信じられないかもしれないが、自分を良いと言うPのことは信じてほしい、という形で一通りの決着がつけられている。だがここでは何をもって良しとするかもPを介さずに自分で決めていいと言うのである。より進んで透の主体性を促しているので、つまり①のケアを意識していることがわかる。

 そして「立派に、命に見えるよ」とは、自分を人間社会とは異質なミジンコに重ねるほど孤立感を深めてしまった透を、確かに他と同じように生きていてよい生命であると認めているのである。つまり②への回答である。ここで注意すべきは、人間社会の一員ではなく、もっと広い生命の一員だと考えている点だが、これはまた後のコミュでまた触れたい。

 さらに「大丈夫だ、合ってる」というセリフ。これはもちろんバス停で透が欲しがった言葉で、透が迷いを克服できるとPが確信したからこその発言であろう。つまり自信をつけさせて③を解消するための最後の一押しだったように思われる。

 

GRAD決勝

 透は干潟に行った時に聞いた音と、ランニング時の自分の呼吸音や、バックステージで聞く客の歓声とが似ているという。干潟に生きる豊穣な生命の鼓動を感じたことで、自分も確かにひとつの生命であり、また他の人間たちもまた同じ生命であるという感覚を、何か本能的に会得したということなのだろう。以前の透の「海」は、まるで原初の海のごとく静かであった。つまり、人間社会から疎外感を覚える透は、無意識に耳を塞いで他者との関わりを避けてきたということでもあろう。しかし生命の豊饒な営みを知った今の透の「海」には、そこにある様々な生命を丸ごと生かすだけの度量がある。

 

 序盤のコミュの「息してるだけで」は、明らかに透にとってネガティブな意味で使われていた。息をするだけなら努力は必要ないからだ。しかし、このコミュでの「いっぱい、息してきてくれ」というPの励ましでは、今度は「息」がポジティブな意味で用いられている。この「息」の意味が反転していることは思いのほか重要だ。シーズン4では透が2回「息」という言葉を使う。1回目の「してるだけだから、息」は自虐的発言だが、2回目の「いいよね、ここ――息してるだけで、命になる」では前向きな意味合いがある。どんな生命であっても生きてさえいれば、その大きな干潟の体系のなかでひとつの命として受容される。今までは生きているだけでは人間社会に受け入れてもらえないため、努力などによって認めてもらう必要があると考えていて、それができない透は孤独を深めていった。しかし干潟に行ってから透の価値観は全く変わった。人間社会も結局は干潟のような生命の織り成す連環の中にあると捉えれば、自己変革を行うまでもなく当然どこかに自分の居場所はある。そう信じられるようになったことが窺える。

 

 勝利後のコミュでは、透がいきなりこれから河原を10周すると言いだしてPを困惑させる。「頑張る」が単純に努力のことでないとすると河原100周を完走することに意味はないはずなので解釈がやや難しくなるが、シーズン4の選択肢では、残りを完走するなかでたくさん息をすればもうそれは明らかに命である、という趣旨の発言をPがしている。「わかるよ、たぶん あと10周で」とも言っているように、透たちが完走することにダンス講師も思いつかなかったような独自の意味を見出している可能性は高い。

 

ED「泥の中」

 SNS効果で増えていた仕事も落ち着いたある日、透とPは事務所で安物の顕微鏡を使ってミジンコの観察を試みている。ついにミジンコを見つけ、確かに心臓があって鼓動しているのを見た透は、静かに興奮しながらまるで子供のように呟く。「どきどきしてる すごい……めっちゃ」「どきどきする」「生きてる」場面は変わり、撮影で映像ディレクターが透を褒めて言う。「浅倉くんがカメラを向くと、カメラが息をし始めるんですよ……忘れてたみたいにね」「そういう存在がいるんです 全部のんじゃう、全部のんで輝く――捕食者が」再び場面は変わり、学校で透のクラスが発表で金賞を取ったときの回想。ハイテンションに喜ぶクラスメイトの輪の中心に透はいなかったが、委員長が「ありがとう、読んでくれて」と声をかけると透は笑顔で応えた。また事務所に戻ってきてミジンコを観察した後の透のコメントは名言揃いだ。「……いいや私 どんな形したのが私って思われても」「どきどきしたい ミジンコみたいに」「嬉しい そうやって、命のひとつになって――いつか誰かが、食べてくれたら」「そういうところにいたい 泥の中に

 

 ミジンコを観察して心臓の鼓動を確認した透は、まさにそこに生命の輝きをみたのだろう。それはミジンコに自己を投影する透自身の輝きでもある。しかしそんな生ぬるいところではこの話は終わらない。映像ディレクターいわく、透は「捕食者」なのだという。委員長が言う通りミジンコとは湿地で最初の動物、つまり他の生命を食らって生きる最も単純な生物である。巨大化したミジンコが人間を取って食う存在しないB級怪獣映画みたいな画を想像してしまうが、このコミュで描かれているのは透の「怪物性*7だ。ひとたび彼女がその魅力を解放すれば雰囲気だけで場を呑みこみ、そこにいる全員を支配してしまう。それが先天的な素質なのか後天的に獲得した能力なのか、つまりずるいかどうかはもはや透にとって些細な問題となった。凡人の理解の及ばないまさに天才、いや怪物だ。河原100周というのは、この怪物が殻を破って出てくるまでのカウントダウンに過ぎなかったのだ。

 

 最後の透のコメントはさらにすごい。「どんな形したのが私って思われても」とは、他者が自分をどう評価し理解しようがもはやそれを気にしないということで、ほとんど市川雛菜イズムに近い。自分はもしかしたら「人間」としてはとても歪んだ、理解から遠い存在なのかもしれないが、だとしても自分が生命体であることには変わりないので、人間社会の上位概念である生態系の枠組みのなかで確実に自分の存在は受容されうる、とまで透は考えているはずだ。だから彼女は、他者に束縛されることもなく、社会の中で顔と目的意識を使い分けるまでもなく、どこまでも自然体の自分のまま微笑んでいることができる。

 そして彼女が得た人生の目的意識はといえば、「どきどき」することと、命のひとつとして食べられることである。どちらもかなり尖っていてしかも独善的だ。「どきどき」とは多くの人々がしのぎを削るような鼓動の近くにあって、自らの生の実感をひしひしと感じられる状態、とでも言い換えられるだろう。

 

 食べられること。こちらはセリフのところにライブステージの背景が重なる演出があるため、現実的にはアイドルとして観客に自分を見せて、自分を通して何かを感じ取ってもらうことを言っているのだろうが、本当にただそれだけならもっと穏当な表現を選ぶはずだろう。食べられて自分自身の存在は粉々に破壊され、どこへともなく拡散されていくというある意味グロテスクなイメージがここにはある。恐らく透は、他者からの評価をどうでもいいと思っているのと同じくらい、自分自身の内面についてもどうでもいいと思っているに違いない。自己の意思や、他者からの評価が自分という人格をつくってゆくのではなく、自分がただそこに「ある」事実が横たわっているだけなのだ。それが真に自然体であるということでもある。だからその運命が来た時には自分が壊れるのは仕方のないことで、自分を食べた他の生命にバトンを繋いでいける、そんなダイナミックな営みの一部となれれば満足だというのである。

 

 もしかすると、アイドルとして自分をコンテンツ化して切り売りするうちに、自然体の自分が拡散してゆく感覚を踏まえての表現とも考えられる。委員長の「こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に」にもどきりとさせられるが、自分の人生が自分の意思を通じて主体的に回っていく実感が希薄な、これが現代の若者のリアルなのだと言われれば納得できる気もする。こうした目的はアイドル活動の中で達成を目指すことができるからこそ、透はPに頼らずアイドルをやれるだけの主体的な理由をようやくここで手にする。まさにPからのGRAD=graduation(卒業)である。一番最後にPと出会ったバス停の風景にブラウン管テレビのようなエフェクトが入る演出があるが、まさにPと出会ってアイドルを始めた頃の自分がようやく「過去」になり、「湿地」概念をインストールして自信を取り戻した新たな浅倉透としての人生が始まるということだろう。

 

 きらびやかなイメージのアイドル世界を「泥の中」と言っているのもなかなかひどい。泥といえばナレーション原稿では生命が「こなごなの命に戻る」場所を指しているが、どこまでも綺麗事で済ますつもりはないというライターの信念を感じた。透の中ではファンの歓声轟くライブ会場は、すなわち生き物の鼓動が共鳴する干潟であり、ただ泥の中で無数の名前のない生命が混ざり合い、蠢き合う場なのだ。虚飾も何もない、どこまでも平等で公平で自然な、透らしい捉え方だと思う。少し話が逸れるが、恐らく透はファンのことも公平に考えるので、できる限り全員に彼女なりに心を尽くしてファンサービスするだろう。しかしそれはミジンコやカニや鳥類に向ける眼差しと全く同質の温もりであると知ったら、ファンはどう思うだろうか、というのは少し気になる。

 

 アイドルをするということは、常に不特定多数の見知らぬ人々の群れと向き合うことでもある。多かれ少なかれその群れ、ないし社会の承認なしではアイドルはステージに上がることはできない。群れの一人一人を個として扱い、理解し合うためのコミュニケーションを行うことは実質的に不可能で、巨大に見える社会の潮流をアイドル一人で覆すのは困難だ。だからそこでそれらしい目的意識を用意してきて、社会の承認を得られやすいように自分を作り変え、適応させる。既存のアイドルの物語は、「努力することの美しさ」などと誤魔化してそのグロテスクな構造に蓋をしてきた側面はあるだろう。このシナリオも途中までそうした流れが見えつつあった。だが結末は全く違っていて、筆者の期待を裏切らないものだった*8

 

 そもそも、社会と自己との間で迷うキャラクターの葛藤を真正面から描くシナリオで、その社会の上位構造を持ち出すことで葛藤自体を矮小化させて解決するというのは、ほとんど禁じ手に近い技だと思う。だが、それでも浅倉透という人物の葛藤を解決させるのだとしたらこれしかない、という凄味のようなものを感じさせてくれるコミュだった。彼女の、どこでも所かまわず自然体で行ってきては華麗に大ボケをかましてくる飄々とした生き様、社会による分断をものともせずひとつひとつの「個」を公平に扱おうとする姿勢。そして彼女の湛えるまさに怪物めいた可能性と、それと表裏一体の今にも壊れそうな危うさ。それが浅倉透の本質であるとまでは言わないが、総括としては浅倉透らしさに真摯に向き合ったシナリオだったと思う。

 最後に透とクラスメイトとの関係について触れておきたい。恐らく透がナレーションを引き受けたのは、委員長の提案だったからというのもあるが、それを通じてクラスメイトとの相互理解を深めたいという期待はあったと思う。委員長から非協力的な印象を持たれていたことからも分かるように、透の人間関係は幼馴染の輪の中でほぼ完結していて、クラスメイトからすると嫌ってはいなくとも近寄りがたい存在ではあったと想像される。一般的に、思春期とは努力などによって自らの意思で自分を作り変えてゆく時期であることは既に述べた。高校生ともなれば、ある程度「選んで」人間関係をやるようになるだろう。だからこそ、この辺りから「選ばれない」ことの重大さが増してくる。高校生の社会がさも当然のように要求してくる目的意識を分かち合うことができず、疎外感を覚える透が(その素質のわりに)自己肯定感を持てず、幼馴染との関係に閉じこもっている理由はそのようにも説明できるだろう。

 

 クラスで金賞を取ったとき、クラスメイトは口々に「イエーイ!」と声を上げる。これはもちろん透の決め台詞の1つである「イエーイ」または「イエー」に近い。初見の時は、作中世界でも「イエーイ」が透の持ちネタとして世間中に、もしくは少なくともクラス中には既に知れ渡っていて、今回は透が一緒だからという理由でみんなが「イエーイ!」と叫んでいるのだと思ったが、よく考えるとそれなら透がもっと輪の中心でみんなと喜んだり称え合ったりしているのが自然である。実際には透のセリフは一言もなく、意を決した委員長にようやく話しかけられたという雰囲気だ。つまり発表への協力そして成功をもってしても、委員長を除いてクラスメイトとの距離はさほど縮まらなかったという描写に思える。だから「イエーイ」は意図せず偶然に重なったものなのか(これならわざわざ作劇上被せる必要がない)、あるいはもともとクラス内の流行語か何かだったのを透が聞いて、嬉しい時には「イエーイ」と発声するものなのだと思い、Pなどクラスの外との関係において使うようになったと解釈すべきかもしれない。

 

 「湿地」概念をインストールすれば、他者や社会との関係がどうなろうとも孤独感を覚えることもなく、極限までピュアな自分自身を保つことができるかもしれない。だが思い通りに自分をコントロールし、意思と選択によってできなかったことをできるようになったり、分かり合えなかった人物と心を通じ合わせたりする喜びには鈍感になるはずだ。失望もしない代わりに無常観と諦めの選択肢が人生につきまとうようになるだろう。言い換えるなら、透は10代にしては成功体験を得る前にあまりにも悟りすぎた。「イエーイ!」と伝播する共感の輪でつながれたクラスメイトの「青春」のノリを、委員長に話しかけられる前の透はどんな心持ちで眺めていたのだろう。

*1:あるいは「天塵」で本番で歌うのを放棄してスタッフに抗議したり、ライブを見ようとしない観客に「こっち見ろー」と声を上げていた頃の透とも違うかもしれない

*2:例えば

https://twitter.com/E231Touseiryu/status/1433845358690373633

*3:あまり関係ないかもしれないが社会心理学に「公平世界仮説」という用語がある 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

*4:余談だが、透は「偉いね小糸ちゃん」というが委員長と同じ理由で小糸を評価している可能性は大いにある。透→小糸の関係性についての考察の材料になれば

*5:筆者の考えでは、「健全」とされるものであっても自己鍛錬のための運動・トレーニングは全て多かれ少なかれ広義の自傷行為だと思う

*6:概ねここの問題意識と近い記事 

https://toyokeizai.net/articles/-/404722

*7:透をある種の「生き物」だと捉えるコミュとしては他に「おかえり、ギター」がある

*8:社会に屈服する浅倉透は見たくない。でもその結果がこんな化け物を生み出してしまったのかと思うと筆者にもその責任の一端がある(?)

改めて浅倉透WINGには何が書いてあったのか 感想・読解・考察

 実装から1年余りが経ったシャニマスの浅倉透WINGシナリオについて筆者なりの読解や感想を文章にまとめておきたいと思います。基本的に透のコミュは、透の独特な言い回しや多義的で非言語的な表現が多く、難解な部類に入ると思います。なので後付けの印象で雑にまとめることのないよう、できる限り「全部」、丁寧にどんな表現があったのかを逐一拾いながら解釈を試みています。そうしたらかなりの文章量になってしまいましたが……なお朝コミュとオーディション前後のコミュにはほとんど触れられていません。必ずしもこの読みが正解であるとは思っていないので、ご指摘・ご感想などあればぜひコメント等いただけると幸いです。

 

 

オープニング「あれって思った」

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  WINGプロデュース開始時のコミュにおいて、バスに乗り遅れたプロデューサー(以下P)の前に飄々と現れる美少女こそ今回の主人公こと浅倉透である。待っていてもバスは当面来ないので歩いた方がいいと彼女はPに告げたうえで、自分では悠々とバスを待つ構えを見せる。Pも透も何のためにバスに乗ろうとしていたのかは明示されないが、急いでバスの時間に間に合わせようとしたPに対してバスを乗り過ごしたことを悔いる様子もない透という対比が描かれている。偶々Pが「時間通りに進む」バスに乗り遅れなければ出会うことのなかった、つまり「成長」「合理性」「社会のルール」のような概念に背くキャラクターとして象徴的に描かれた登場シーンだったといえる。

 

 「(綺麗な子だな…)」と透のルックスに惹かれてスカウトするP。透はにべもなくそれを断り立ち去ろうとする。この場面で、透はその前の「部活とかやってないの?」というPの質問が気に入らなかったのだろうと推察できるが、高校生ならばみんな部活をしていて当然だというステレオタイプに対する反感や、部活など何かに打ち込み「何者かになる」ことへの諦念が背景にありそうだということが後々分かってくる。いずれにせよPから「アイドル」という言葉を聞いて驚きはすれど大して心を動かされなかった様子から察するに、透のアイドルに対する憧れの気持ちは少なくとも強くはないし、自分のルックスを評価されることを嬉しがってもいないことが窺える。

 

 「しつこいよ」とPを拒絶した透の心を動かしたのは「俺が、いくからさ!」というPの苦し紛れの一言である。突如挟まれるセピア色のバス停とジャングルジムのカットインはその言葉が透の過去とリンクするものだったことを暗示している。そのあと、今度は逆に透がPを追いかける構図になるのは過去のリプレイだが、一方彼女が掴んだのがセロハンテープだったのはややドライな思考の持ち主として成長した透とPの新しい関係の始まりを予感させるもので面白い。

 

 その場では一度名刺だけ受け取って保留にしておき、後日事務所に現れて契約を行う透。バス停では「他人」として振舞った透が、事務所に現れた時には一転して笑顔を見せるなどかなり態度が軟化して打ち解けているように見える。一度縁ができた相手には急に距離を詰めてくるのは彼女らしいといえばらしい。

 

 このOPコミュに限ったことではないが、透のコミュは全体的に背景や空を映すカットインで過去や時間経過を表す演出が多用されていて、他のアイドルのものと比較してもかなり異質な雰囲気があると思う。間の取り方が独特でテンポが緩やかに感じるが、「時間通りに進むバスに乗り遅れることで出会う少女」である透のペースにゆっくりと引き込まれてくようだ。生き馬の目を抜くアイドル世界の競争主義的な厳しさが強調されるシャニマスにおいて、どこかノスタルジックな甘い香りが漂うのが透のコミュの特徴であるといえる。

 

 

シーズン1「人生」

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  冒頭で透は「ジャングルジムの夢」を見る。「—―小さい頃から たまに見る のぼってものぼってもてっぺんに着かない へんなジャングルジムの夢 のぼる前は たいした大きさに見えなかったけど ひとつ足をかけると もう上が見えない それでこう思う ああ、長いなぁ……—―」

 

 透は夢の中で、ジャングルジムの外側というよりは内側に入って頂上を見上げている。内側から見ると、ジャングルジムは自分を取り巻くある種の檻のように見立てることができる。檻から抜け出すべくよじ登ろうとするも、挑むたびにゴールは遠のき、あまりの道のりの長さに足がすくむ。いつしかそれが退屈で意味のない徒労であると気づいたとしても檻を登り続けるのをやめることは許されない。あたかもそのさまはタイトルにある「人生」であるかのようである。「ジャングルジムの夢」はこうした透の人生観を現したものだと解釈できる。そして恐らく透にとって、この夢は決して心地よいものではないのだろう。夢から覚めた透の「……そっか。今日からあれか」という呟きからは、その日の予定に対して彼女があまり良いイメージを持っておらず、そのために「ジャングルジムの夢」を見たのだと考えていることが窺える。

 

 果たしてその日の仕事は撮影現場の見学を兼ねた業界関係者への顔の売り込みであった。いかにも透が嫌がりそうな仕事ではある。ところが、Pの心配をよそに透は持ち前のオーラだけで初対面のはずの業界人たちから圧倒的好印象を得てしまう。その後の選択肢でそれほど大きく展開は変わらないが、最後に透が笑顔を見せることと「人生って、長いなー」という内容を呟く点が共通している。選択肢「え——」では番組ディレクターに挨拶に行く展開になる。ディレクターからオーラがあると言われて複雑そうな反応をする透だったが、相手を不快にさせない程度の受け応えは心がけていることがわかる。

 

 選択肢「そ、そうか……いい挨拶できてるぞ」は最もはっきりと透の思考が表れたルートに思える。「けっこうやれるもんなんだね」と自信をつけた様子の透を「そんな甘いもんじゃないよ」とPが宥める。対する透の返しは「じゃないと——人生、長すぎるよね」だった。つまり、透は今回の挨拶回りでの成功を必ずしもポジティブには捉えておらず、むしろ「ジャングルジムの夢」の延長上にある退屈で虚しい人生と同一視しているのである。そしてこの先もこうしたことが繰り返されるのではないかという暗い予感を、一通りPの言葉を信じてみることで追いやろうとしている、そんな心情を読み取れる。

 

 「いあいや、そんな……」を選ぶとホーム画面でのセリフにも選ばれている「アイドルってもっと特別な感じかと思ってたけど、学校と変わんないね」が聞ける。何が「学校と変わらない」のかは文脈的に解釈の分かれるところだろう。①挨拶が重視される点②自前のルックスだけで何とかなってしまう点③「ジャングルジムの夢」のような退屈な人生の延長である点 が思いつくが、恐らく①②③すべてを総合した実感なのだろう。明るい口調とは裏腹に重い意味が込められた一言である。ちなみに②が正しいとすると学校でもモテて仕方がないということになるが、例えば市川雛菜の懐き方を見ると納得できる気がする。

 

 明らかに透は今回の仕事内容に関して事前の段階でもいいイメージを持っていないし、仕事が上手くいってからもその成功を心から喜んではいない。むしろ、自分が積極的でなかったにも関わらず想定以上の評価を受けてしまうことが不服であるかのようにさえ見える。そもそもオープニングコミュでも見た通り、透がアイドル活動そのものに対して自分なりの意義や憧れを持っているとは考えにくい。それにも関わらず、なぜ彼女は最後に笑顔を見せるのだろうかという疑問が生じる。

 

 恐らく、透なりに素直に嬉しかったのだと思う。全く未知の世界に飛び込む不安のなか、自分のスタンスを特に曲げることもなく受け入れられ成果を挙げられたことに安心したのだ。つまり、透は何かそこに独自のポジティブな意味合いを見出していることになる。消去法的に考えるとそれが過去に何らかのかかわりを持つPの存在と無関係ではないことまでは推測できる。透の中では顔だけで上手くいってしまうアイドル活動を退屈な人生と結び付けて厭う気持ちと、それでも成功したことには安堵する気持ちというやや相反する二つの軸が存在しているように見える。

 

 なぜそれでも透はアイドルを目指すのか。そのカギを握るであろうPは今回透にアイドル世界の厳しさを教える監督者ないし大人という立場で振舞うわけだが、特に噛み合わない会話を続けている印象が強い。この関係が今後のコミュの軸になっていく。

 

 シーズン1終了後コミュではクリアしても敗退してもリアクションが薄く、少なくともこの時点ではアイドルとしての成功(WING)に対してほぼ無関心である様子が見て取れる。むしろ透の関心はPとの関係そのものに向いている。

 

 

シーズン2「あれって思った」

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  オーディションを受ける透とP。しかしキャッチフレーズという想定外の課題にうまく応えることができないままオーディションは終了する。ここで苦し紛れに「参上」が出てくるワードセンスはかなり好き。透は自分のオーディションが不首尾に終わったことを認識していない様子を見せる。これが初めての失敗らしい失敗になったような描写があるので、分かっていながらあえてとぼけているとも考えにくい。本当にオーディションで何を求められていたか理解していないのだろう。何でもそつなくこなす優等生かと思いきや意外にも透の抜けた一面が垣間見えるのが今回のコミュだと言える(今や意外性は全くないが…)

 

 Pは公園のジャングルジムに見知らぬ男の子と登ったことがあると思い出話をする。それを聞いて動揺する透。後のストーリーで明かされる内容だが、透も昔同じジャングルジムに見知らぬ誰かと登った記憶があり、その時の人物がPなのではないかと疑っている。恐らくそれが、透がPのスカウトを受け入れたきっかけでもあったのだが、この時点ではまだ透には確信が持てていない。一方Pの側では当時出会ったのは「男の子」だと認識しているため、仮に透とPが昔出会っていることが真実だったとしても、透からアプローチしなければPが自分でそれに気づく可能性はほぼない状況だとわかる。しかし、この場面で透は軽くごまかして話を流す道を選ぶ。このような直接的な言葉で本質を明確にしようとしない透の姿勢こそが彼女らしさでもあり、この後のPとの関係に決定的に影響してゆくのである。

 

 オーディションの結果は不合格だった。「オーラは抜群なんだけどなぁ、それだけじゃ……」とPは悩む。透をアイドルとしてさらに上に導くためには何らかの改善が必要であるとPは考えている。選択肢は結果をどのような形で透に伝えるかで分岐する。

 

 選択肢「ダメだった」はあえてストレートに結果を伝えて透の反省を引き出そうとする択だ。「ちゃんと自分を伝えてないから」、それがPの分析する敗因だった。Pからすると、透が何のためにアイドルをするのかが判然としないし、本気で取り組んでいるのかすら疑わしく見えているだろう。ちゃんと自分を伝えて、というのはオーディションへのアドバイスとしてだけでなく、P自身の切なる願いでもあったはずだ。一方の透はそのアドバイスの内容はちゃんと覚えていたことから、Pに対してはある程度真摯さをもって接していることがわかる。ただしそれが自分の問題であると認識できていない状況なのだろう。Pにも透の真摯さが朧げながらも伝わっているからこそ、自分を伝えろと透に迫ることに後ろめたさを感じ、「もし、こんな先の見えにくい世界に、透を無理に誘ってしまったんだったら——」のセリフにつながる。しかし透ははっきりこれを否定する。「私、こうやって会えたこと 嬉しいから」はホームボイスにも選ばれているセリフだが、透がスカウトを受諾したのはPとの「再会」が叶ったという要因が大きいことが明確になっている。彼女は去り際にも笑顔を見せるが、このタイミングで「ちょっとショックに浸ってくる」といって出ていくことからはオーディションの結果よりもPに自分の思いが伝わっていないことへの失望が大きかったことも想像できる。

 

 選択肢「ごめんな」は最も消極的で現状のモチベーションを下げないように気を遣った択である。透の「なんか、思ってたよりショックかも」に関しては「ダメだった」のルートで浅い反応だったことと照らし合わせると、やはりオーディションの不合格そのものよりもPに失敗した責任を感じさせてしまったことへの落胆の方が大きかったことが読み取れる。Pは力になりたいと断ったうえで、透自身のことをもっと言葉にしてほしいと詰め寄る。しかし透には伝わりにくい言葉を選んでいるという自覚がない。むしろ、「でも……それ、本心だし」と虚偽のないありのままの本心を伝えることについて、こだわりを持っているかのような返答を見せる。逆に透は「私も知りたいんだ、プロデューサーのこと」とPに迫ろうとするも、過去のことを知りたい透とアイドルに対する態度を問うているPとでは決定的なすれ違いがある。平行線のまま会話は終わる。

 

 選択肢「よくやった」は不合格という結果をポジティブな意味に変換しようとするやや苦しい択である。だが透にもPの気遣いは伝わったようで、最も穏便な形に終わっているルートだといえるだろう。ここでもPは透に自分の心の内を言葉で表現することを求める。自分でも透のことがよく分からない、表現することがパフォーマンスにつながると説明すると彼女の表情は曇ってしまう。これに対して透は「でも……不思議だな」「プロデューサーのこと、私は前から知っていたような気がするから」と自分の関心事、つまりPとの過去について仄めかすわけだが、全く互いの向いている方向がバラバラで噛み合わない会話になっている。何が「不思議」なのかといえば透自身がPと過去に会っていたかもしれない感覚を抱いていることでもあろうが、「前から知っていた」にも関わらずPと心が通じ合っていないことに不満を述べているのかもしれない。

 

 このコミュでは透とPとのディスコミュニケーションが強調されている。オーディションの失敗で透一人のルックスで押すだけでは成功できないことがはっきりした。故に力を合わせなければならないのだが、アイドルとしての成功という未来を志向するPに対して、過去へと眼差しを向け続ける透。透の言葉はアイドルと世界の文脈に馴染めない気持ちとPとの過去への興味の間で揺れ動いているがゆえに曖昧である。同様に、Pの言葉も仕事上の立場からの助言と透の実像を掴みたい思いが交錯したものになっていて二面性がある。 プロデューサーという立場上、アイドルのことを理解していなければ仕事にならないが、明らかに透はアイドルを強く望んでいるわけではなく、少なくともプロデューサーという役割からみればほとんど理解の埒外にある存在だといっていい。「どうプロデュースすればよいか」と正面切って本人に聞く択もあるかもしれないが、それをするとプロデューサーとしての能力を疑われてさらなる不信を買う可能性がある。

 

 シーズン2終了時コミュではかの有名な「ドキドキプロバイダ、浅倉透 無限のトキメキ、定額制でお届けします」が聞ける。キャッチフレーズに対する態度も半分冗談のつもりのようで、勝ち負けそのものにはやはりこだわりはないようだが、敗北時では素直に自分の責任を認めたうえで、Pの求めていた「説明」に意欲を見せている。既存の「アイドルらしさ」にはさほど興味がなく、しかしPとの関係自体に対しては真摯な様子が改めて見てとれる。

 

 

シーズン3「っていうか、思い込んでた」

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 再び「ジャングルジムの夢」から始まる。前回と異なるのは、一緒に上ってくれている誰かの存在に気付くという内容が追加されている点だ。徒労でしかない登攀=人生の苦しみを分かち合える「誰か」が何者を指すかといえば、やはりPだと考えるのが自然だろう。ただし、「誰か」の話はもともと「ジャングルジムの夢」に含まれていた内容だったのか、それともPとの出会いの後で書き加えられたものなのかはここでは判然としない。そして、夢の中の「誰か」とは一切言葉を交わさないというのもポイントだろう。

 

 Pは透に日誌をつけることを要求する。「ちゃんと透のことをわかりたい」透の負担を増やすのは本意ではないはずだが、それでも相互理解へのチャンネルを増やした方がいいという決断だ。「プロデュースの方針を決めることもできない」「プロデューサーとして無能なのではないか」と透から疑われないためのギリギリの妥協案だともいえる。一方透の反応は「え、そんなのわざわざ……?」と不満げなものだった。やはり透目線では十分に分かり合えているという認識であり、Pの意図を理解していないことが明確になる。

 

 透がどんな文章を書くのかが明らかになる交換日記パート。素っ気ない文体の透に対してPの返しは食い気味でオッサンくさい印象がある。両者の熱量にかなり差があるように見えるが、よく見るとサボりだす前までの透のコメントにはPが直前の返事のなかで気にしていた内容が含まれていることがわかる。つまり「わかりたい」というPに透がある程度応えようとしていたことは確かだ。しかし、もともと日誌の意義に懐疑的だった透はサボり始め、ついには「旅に出ます」とだけ書き残して消息を絶つ。

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 「透は……何を考えて……どんな気持ちでいて……―― 自分のこと、ちゃんと伝えてくれって言ったのに……」透を探すPは、やはり失踪の原因がアイドル活動に関する何らかの不満であると考えているようだ。ついにPは公園で透を見つける。透の身を心配する立場から語気を荒げるPに対して「……どうしたの?」ととぼけた様子の透。その後の「ていうか、そんなの誰も気にしないでしょ」の表現に着目したい。このシーンで透が微笑むのはこのセリフのみであり、言い方も極端に軽薄なディレクションがなされているように思える。この場面について、「Pに迷惑をかけるだろうことを透が本当に想像できず自分勝手に突発的な行動を起こした、ゆえに透は人の心情を読み取ることが苦手だ」とそのように解釈することも一見可能だろう。しかし筆者はこれはミスリードだと考えている。もし透が致命的に鈍感であることを描くつもりなのであれば、直前に「それは……なんでも書けって言うから」と珍しく言い訳をしたり、すぐに「――……ごめん……」と謝ったりするのは不自然だし、もとより不満を持っていた日誌のやり取りの中でPに譲歩を見せている理由が説明できない。そうではなく、透は最初から「旅に出る」ことが多少なりともPを困らせることになることを理解していて罪悪感さえ覚えており、不意に現れたPの必死な様子に、何でもないよと冗談っぽく返すことでその場を取り繕おうとしたと考えるべきである。あえて軽薄な言い方を選んで「分かっていない」ふりをするのは、分かり合っているはずなのに「分からない」という態度を取り続けるPへの意趣返しであり、Pの元から失踪したのも分かり合えないことへのもどかしさや不満がベースにある。透らしいPへのユニークな「試し行動」だとも考えられるし、本当に一度Pから離れて気分転換するつもりだったと考えてもいい。少なくとも透がPと自分との間にあるギャップを認識してそれを埋めようと彼女なりに配慮していたことは確かで、結局透は素直に謝罪しPとの関係回復を図る道をとる。

 

 選択肢「教えてほしいんだ……」はPの捨て身の覚悟を感じる択だ。「今度こそ、ちゃんと――嫌なら、もうこの世界に縛られなくていい」はシーズン2コミュ「ダメだった」選択肢の内容の再確認である。セピア色のカットインから透の「……――知ってるじゃん」により透の分かり合っているという思い込みが過去の記憶に由来するものだったことがはっきりする。相手を無条件に信じられる気がしていた、しかしそれは自分の過度な思い込みに過ぎなかったと認めざるを得なくなる「そんなこと、ないよね……ごめん」はセリフとしては切なげだが、「私、今度はちゃんとわかったから そんなに悩まないでよ」とPを気遣ってさえみせる口調はむしろ明るい。期待通りの反応ではなかったにせよ、Pが自分を心配して駆けつけてくれたことには応えるべきだと考えているのかもしれない。

 

 選択肢「空回りしてるよな」は透ではなく責任は自分にあるということにする択だ。透も自分に非があることを認める。透の「なんか、ちょっと思い込んでた 気持ちが通じてるって……」はP目線だと全く真逆の感想を持っているはずなので笑ってしまうが(筆者)、「――プロデューサーは……私のこと、知らない?」は過去のことを尋ねる質問である。透がPのことを過去に出会った人物だと思っていて、かつその人物であれば以心伝心で分かり合えるはずだという歪んだ認識を持っていたことがここで確定する。ここでも透には過去出会ったことがあるかどうかをPに直接聞く選択肢もあったにも関わらず、言い淀んだままに会話は終わる。

 

 選択肢「わからないんだよ……」ではPはやや感情的な態度を見せる。さすがの透もたじろぐ。ここで「ジャングルジムの夢」の中で向こう側をのぼる「誰か」とはPのことだと透が考えていたことが確定する。終わり際の透の「――あの人かもって勝手に思い込んじゃってた……」は明らかに他のルートと比べてもネガティブな展開である。二人のディスコミュニケーションだけが問題なのではなく、もっと遡って透がPのスカウトを受けた時の動機が曖昧になれば、アイドルでなければならない理由を持たない透にはPと一緒にいる理由もなくなってしまう。

 

 一連の透の発言からすると「ジャングルジムの夢」に一緒にのぼる「誰か」が登場する展開は前からあったものだろう。そして、透は単に過去出会った人物との再会を望んでいたのではでなく、ジャングルジムの登攀のような同じ目的を共有できて、言葉を尽くさずとも以心伝心で互いに理解し合える、そんな理想の人物の出現をこそ彼女は待っていたということが明らかになってくる。透がはっきりとした物言いを用いず基本的に舌足らずだったり、意図的にに互いを分かろうとするためのコミュニケーションに反発したりすることも、彼女が多くを語らない関係を理想としているからだと説明できる。

 

 そしてシーズン3終了時コミュの分岐はかなり重要だ。これまで通過か敗退かという知らせに対して淡白な反応を続けてきた透が、初めてはっきりと嬉しい/残念がる様子を見せるのがここである。勝利時は自分が喜んでいることをPが言わずとも感じ取ってくれたことで透が笑顔を見せるという内容であり、一度は挫折しかけた相互理解が得られつつあることを示している。敗退時には透が「通過したらさ、何が……あるのかなって」と呟く。つまり、透はこのアイドルとしての活動(WING)に何らかの意味を見出そうとしていたことがわかる。しかし「――……なんだろう わかってたつもりだったんだけど……」と言うように、それは曖昧になってしまったのだ。シーズン3コミュでは透とPとの関係には何らかの亀裂が生じており、一見アイドルへのモチベーションも低下しそうに見える。この間に何があったのかを考えたい。

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 ここでジャングルジムのカットインが現れることに着目したい。透がWINGに見出しつつあった意味とは、この場合「のぼる」ことなのだと考えるとしっくりくる。檻のごときジャングルジムをのぼることは苦痛で退屈な終わりの見えない人生そのものである。しかし、のぼりきった先にこの檻から解放される瞬間があるのだとすれば、のぼってみたい。だが透にはのぼり方ものぼるべき方向も分からない。OPコミュで部活のことをPに聞かれたときの冷たい反応は透のそうしたコンプレックスの現れだ。だからこそのぼるために導いてくれる「誰か」の存在を透は強く欲しているのである。「誰か」への思いが強いあまり、Pをその人だと決めつけたうえに言葉抜きで分かり合えるはずだとさえ思い込んだ。シーズン1・2の頃はPとの関係はいわば当然のもので、殊更にその意味や目的を考える必要もなかった。だからPを困らせたくない気持ちはあっても、透自身にとってWINGは通過しても敗退してもさほど変わりないものだった。しかしシーズン3コミュでは知らず知らずのうちに前提にしてしまっていたP=求めていた「誰か」という図式に確信がもてなくなってしまう。透の失望は大きく、この時点でPとの関係を絶っていてもおかしくない。ここで透の中でPとの関係は確実に書き換わったはずだ。Pとの関係を切りアイドルを辞めてしまってもいいかもしれないが、それでは朧げな最終目標である「のぼる」ための道筋もリセットされてしまう。だから一旦Pの提供するアイドルの道を「のぼる」ことだと自分の中で再定義して、必ずしも以心伝心というわけにはいかないかもしれないと割り切ったうえでPとの関係を続ける選択をしたのではないだろうか。だからようやくアイドルが透自身の目的ともリンクしはじめたことで、WINGの勝敗もかつてなく重要な問題になってくる。敗退時コミュの透はアイドルではのぼれないと冷たい現実を突きつけられるからこそ指針を見失ってしまうし、勝利時コミュでは透の割り切りがかえってPとの相互理解に良い影響を及ぼしているように思える。

 

 

シーズン4「ちゃんとやるから」

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 日誌でのやり取りはまだ続いていて、Pは透の相変わらず短い文章への返事を書こうとする。この日透はオフなので今日中に返事を書く必要はなかった。だがPは「こういうのは、気持ちだ……!」とあえて今返事を書くことにする。すると一度事務所を出て戻ったところで思いがけず透と遭遇する。Pが仕事上の義務的なスケジュールから逸れた行動をすることで透がやってくる。透のほうも予定通りではなく休みのはずが何故か事務所にやってくる。ここでの二人はOPコミュと同様に社会の役割関係から切り離されている。ゆえにPは「ビシッと」せずに「ボロッと」している。透が事務所に来たのはPが渡したアイドル世界のDVDを観た感想を伝えるためだった。それだけなら休みの日に来るまでもないはずで、コメントはいつも通り簡素なものだったが、透は知りたいというPの願いに愚直に応えようとしている。Pにとってはそれが可笑しくもあり、思いがけず嬉しくもある。透はそんなPに照れた様子を見せる。「私が無口みたいじゃん」「違うとは言いにくいけどな」のようなやりとりを見てもシーズン3の諍いを克服したようだ。透とPの両者が本当の意味で互いに相手を理解しようとすることではじめてこうした展開になり、そのためには透の過度な期待と先入観や、Pのプロデューサーという仕事上の役割や既存のアイドル世界の文脈を取り払い、自然体で向き合うことが必要だったということが示唆されている。

 

 打ち解けた雰囲気のままPのジャングルジムの思い出に話は飛ぶ。Pは一緒にジャングルジムへ登った「男の子」が夢の話をしていたことまで覚えていた。「だから……一緒にてっぺんに座った時、ただのジャングルジムなのに、すごく嬉しくて ああ、のぼるっていいことなんだなぁって思ったんだ なんか、最近そのことを思い出してな」透という人物の基底をなす「ジャングルジムの夢」の人生観をPも共有していることが明らかになり、人生は退屈だが、「のぼる」ことで「てっぺん」を目指すことには価値があるとPは語る。

 

 選択肢「長いなら嬉しいこと増やそう」は痛みを覚悟してでも「のぼる」ことで「てっぺん」にある喜びをつかみ取ったほうが良いというロジックで、透も素直に納得できるものだったようだ。「――……ずっとさ、一緒にのぼってくれてたんだよね」はPを夢の中でジャングルジムを一緒にのぼる「誰か」の役に見立てることをもはやためらわないということで、「のぼる」ことがはっきりと共通の目的になったことで決意を新たにする。非言語的に分かり合うことにこだわってきた透だったが、それよりもはっきり確信が持てる関係のほうが強固で、目的を分かち合う喜びも大きくなると理解したのだろう。

 

 選択肢「のぼっていくの、いいことだからさ」はマジでそのまんまで浅倉透語録っぽい。「てっぺん……近づいてるみたいな感じがするんだ」はホームボイスにもなっているセリフで、透が最終的に求めているのは「のぼる」ことで「てっぺん」に近づくことなのだとはっきりわかる。「だからかな、最近思ってたよりは、人生短いのかもって感じる」というのは目標を見定められていなかった透がPの導きによって目指すべき「てっぺん」を明確に感じていて、「のぼる」プロセスさえ充実したものになりつつあるということだろう。「日記に書けること、増やしてくから」というコメントがここで出るということは、今まで透の日誌が短文で終わっていたのはアイドルとしての活動にPに詳細を書いて伝えるほどの意味を見出していなかったせいだったとわかる。

 

 選択肢「透にも、その嬉しさ感じてほしいんだ」では目的を共有することの「嬉しさ」が強調されている。「私、今嬉しい 伝わってる? プロデューサー――!」は特に二人の心が重なった喜びが表れていてヤバいセリフなので必聴である。 

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 透にとっては一旦疑いが生じかけた過去出会った人物=P説が逆に確信に変わるような衝撃の展開である。ただし日誌に言及もしていることから、先入観に基づいてコミュニケーションを怠るような同じ轍は踏まないと決意しているようである。そしてここは何よりPの変化が大きい。これまでのように「大人」「プロデューサー」といったある種の役割から物を言うのではなく、ほぼ完全に対等な一個人として自然に透に向き合っているように思える。シーズン3コミュの選択肢付近で自分の想定以上に透に弱みを見せすぎ、開き直るしかなかったというのはあるかもしれない。Pは透の過去については一切知らないのでジャングルジムの話を出したのはほんの偶然に過ぎないのだが、この話がなくても十分心を通わすことができたのではないかと思うほどにPの態度は透に馴染んだものになっている。

 

 シーズン4終了時コミュでは勝利時だと妙に勝った実感が持てない透とPの通じ合った様子が描かれる。透の「もっともっと、たくさんのぼるんでしょ?」からも二人は明らかにWINGに関しては結果よりも「のぼる」プロセスに重点を置いていて、WING優勝でさえ「てっぺん」とは呼ばないかもしれないことを考えると自然なリアクションだといえる。敗退時の「けっこうショックかも ちゃんとのぼるとさ、けっこう堪えるんだね」は透の本気度が伝わる重い一言になっている。

 

準決勝+決勝

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 準決勝開始前には「これ、あのゴミ箱に入ったら勝つ――」と言ってゴミ箱めがけて物を投げるも、外してしまう。「えっ……ま、負ける……のか?」と一瞬弱気になるPに対して「入るまでやる で、勝つから」とまるで動じない透の姿には妙な頼もしさが宿っている。宣言通りに勝利した後には「勝つっていったでしょ」と何食わぬ風で微笑む。

 

 決勝開始前のコミュではPの語彙がほとんど透と変わらないものになっている。そして透自身が自覚していなかった透の緊張をPが見抜いて指摘するほどに、透とPとのシンクロの度合いが高まっていることを表す内容だ。そしてついにWING優勝を果たす透。それでもすぐに感情を爆発させないのが浅倉透だ。オーディション勝利後コミュ②でもみられた妙なノリの「イエーイ」でPとハイタッチはするも、取り乱しはしない。「うちに帰って……寝る頃にはさ わかってると思う 私にとって、きっとすごく大事な日だったって――」は筆者がWING編で一番好きなセリフである。いかにも嬉しがるべきタイミングで嬉しがるのではなく、「いい」「嬉しい」それらは自分ひとりきりになって様々なことを総合して、はじめてはっきりと実感できるものだという透らしいコメントに思える。

 

 敗退時コミュでは「ダメ」ではないという点で透とPの認識が一致している。むしろここまでのプロセスを肯定的に評価している。その後のコミュでPは「悔しい」と率直な感想を口にする。しかし透は「悔しいって、嬉しいこと?」とその悔しささえ肯定的に捉えているようだ。「でも、のぼってて増えるのは、嬉しいことなんでしょ」結果はどうあれ、透にとってはようやく「のぼる」ことができたこと自体に充足感があって、負けた悔しさも本気でのぼらなければ得られなかったと言いたいのだろう。

 

エンディング「人生、長いから」

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 WING優勝を果たした直後、透は事務所を抜け出してジャングルジムの思い出のある公園で佇み、過去のことを振り返っている。一人称が「僕」の「少女」と「学生」のバス停でのやり取り。バスに乗り遅れた「学生」に対して、「少女」がバスは当面来ないので歩いたほうが早いと告げる、明らかにOPコミュに被せた展開だ。ただしPとは違って「学生」は「ここ気持ちいいし……時間あるから」と急ぐ様子も困った素振りも見せない。「少女」もそれに倣ってゆっくり待つことにする。時間通りに、休まずに、社会の常識に従って……そうした一般に共有された概念とは一線を画す透の生き方の原点がここにあるとも解釈できる描写だ。

 

 「少女」がジャングルジムの方を眺めているのを見て、「学生」は行ってきたらと提案する。しかし尻込みする「少女」。ジャングルジムのカットインによって「ジャングルジムの夢」のようなマイナスイメージを「少女」が抱いていたことが示唆されている。それを見た学生が放った言葉が「あーっ、いいのかなぁ?きっと行きたくなるよ――」「俺が、行くからさ!」だった。恐らくこの一言のおかげで「少女」は怖がっていたジャングルジムへ登ることを決心し、ついに「学生」と一緒に頂上の景色を見る。「俺が、行くからさ!」はもちろん透がPのスカウトを受けるに至った決定的な言葉だったわけだが、その背景が明かされている。

 

 Pも透を追って夜の公園にたどり着く。ここで透は、ついにPと思しき人物と出会った過去のことを語る。「ええっ! なんだそれ……いつ?」と驚くP。今になって急にそれを明かしたことには透にも照れがあるようで「ちゃんと伝えようと思って 自分のこと……」「プロデューサーがしつこいから」と言い訳をしている。

 

 「学生」=Pという前提で話を進めるとして、ここで過去の回想と現在を比べて変わらないものと変わったものに着目したい。まずジャングルジムについて。透は「のぼろうよ ジャングルジム」というが、実際に現在もジャングルジムがあるという描写はない。ジャングルジムといえば近年危険遊具とみなされ撤去される傾向にあり*1思い出のジャングルジムはもはや存在しない可能性を考えるべきだろう。回想において「学生」はジャングルジムにのぼった後で「来たくなったら、おいでよ」と語りかけるが、もはや少女の透が「のぼった」証たるジャングルジムは、すでに失われていたのかもしれない。そしてOPコミュと回想のバス停でのやり取りについて。回想の「少女」=透は怖がりながらもジャングルジムという目標を見定めていたわけだが、OPコミュの透はPと並んでバスを待つ間、恐らく何もしていない。ジャングルジムが失われたこと、Pから部活=一般的な高校生が打ち込むものの話を出された時に示した苛立ち。この時の透は人生の目的を見失っていて、どこにのぼればいいかが分からない。だから一度克服したはずの「ジャングルジムの夢」が再び脅威として立ちふさがっている。何より、現在の透は17歳だ。やや想像を働かせると、進路の問題や、部活や勉強に打ち込む同級生、そうしたものが常に透の身近にあるはずだ。もはや幼いころジャングルジムをのぼった成功体験などがもはや何の意味をなさないことを透は十分に知っていて、何もない自分にコンプレックスを持っていても不思議ではない。それでも心のどこかでは、何も考えなくてよかった当時のことを懐かしんでいる。初期の透がスカウト直後にも関わらずPに対して異様な馴染み方をしているのは、思いがけずあの頃から失ったものを取り戻せるのではないかという期待感が暴走したものとも考えられる。だが一方で、そうして意味をなさない過去に縋ろうとする自分を、恥ずかしいものとして戒める気持ちもあったのではないか。だから、Pに自分の過去を話せそうな機会は何度かあったにも関わらずスルーしてきたし、このコミュでようやくそれを明かす段になっても照れた態度を見せる。

 

 ではPの方はどうか。回想の中の「学生」には悠然とバスを待つ余裕があった。しかし勤め人となったPには時間通り、予定通り、社会に迷惑をかけないように立ち回る制約が課されている。それは「学生」のころ持っていた精神を受け継いでいるかのような透の生き様との対比の中で描かれる。シーズン4コミュであったように、透と分かり合うためには大人・社会人としての役割や立場を捨て去って、自然体で向き合うことが必要だった。つまりPにとっても、過去を取り戻すことが目的へとたどり着くための道筋だったのである。

 

 これらを踏まえて、「最初に出会った時のことは……プロデューサーに思い出してほしいんだ」とはどういうことか。回想の中で透を導いたのはPであった。そしてWING優勝まで透を導いたのもPである。しかし、「少女」と現在の透の声が重なって「ねぇ、のぼろうよ――」というように、今度は透がPを過去へと導くときが来たということだろう。今度は逆にPが「待って――」と透を追いかける立場に回る。アイドルとして新たにのぼった証を打ち立てたこの日に、透は社会や常識との間でさまよえる自分と決別し、ジャングルジムをのぼった頃のルーツとしての自分をようやく肯定する。注意しておきたいのは、このシナリオでは過去を取り戻すことは必ずしも後ろ向きなネガティブな意味をもつのではなくて、むしろ「のぼる」ための理解につながるとして肯定されている点である。そして、ジャングルジムのように変わったもの、もはや戻ってこないもののを見送りながら、過去のリプレイではなく二人の新たな関係を築いてゆくということでもあるだろう。

 

 二人の関係は単にプロデューサーとアイドルが出会ったというだけにとどまらず、特に透にとっては運命の相手ともいうべき人生観に深い影響を与えた人物との再会が叶うという、ご都合主義的で現実味の薄い話であるといえば確かにそうなのだが、逆に考えるとこうした突飛な結びつきがない状態で、この浅倉透という人物をスカウトできたかといえば否だろう。読者たる我々はそんなifの話だと捉えるべきかもしれない。常識に縛られず、「成長」して「何者か」になるというある種の観念にも馴染まず、何かその先のビジョンが見えているわけでもないが、ただ純粋なまま、既に手元にあるもの(例えば過去)を肯定するためにもがくこと。WINGシナリオの指針たる「のぼる」ことをあえて説明するとこんな感じになるだろうが、果たしてこれがどれほど多くの人の共感を惹起する物語なのかは、筆者には正直わからない。けれども、どこか甘美でノスタルジックな、特別な印象を残すシナリオだったといえるだろう。 

 

 人生に「確か」なものはない。今やっていることの価値も将来の進路の選択も、相手の心の内もそうだ。そんな不確かさのなかで日々葛藤している。相手を理解することは難しく、過度な先入観が妨げになったり、常識や立場が本質を見抜く眼を曇らせる。しかし唯一手にした過去は変えることができず、確実である。「成長」による自己変革で自分の可能性を広げることもできるかもしれないが、過去を振り返り、そこに「ある」ものとしての自分を認めること、すなわち「脱成長」のような考え方がベースにあり、それが筆者がこのシナリオに惹かれる理由かもしれない。

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 最後に、透の「私も、ちゃんと気持ちを伝えるの――時間かかりそうだから」に触れておこう。透の伝えたい気持ちとは何か。普通に考えればプロデュースしてくれたことへの「感謝」、これが真っ先に挙がるだろう。EDコミュでPに感謝を伝えるのはシャニマスでは定番と言ってもいい。しかし、透とPとの関係は実に特殊だ。すぐには伝えられない理由を透の自己表現力の拙さに求めてもいいかもしれないが、それ以上に気持ちを伝えるのに相応しい言葉が見つからない、というのはあると思う。唯一無二の関係だからこそ、ありきたりな言葉でこの感情を閉じ込めるべきではない、そんな思いなのではないかと筆者は解釈している*2

*1:リアル世界の話である。例えば→https://news.livedoor.com/article/detail/9226884/  ジャングルジムという小道具の選択自体、Pくらいの年齢層にノスタルジーを感じさせる意図を感じる

*2:天塵コミュのラストに引っ張られている自覚はある

正月なのでフォロワーがギリギリ観てなさそうなAmazonPrimeVideoの推せるアニメを5つ紹介する(ネタバレなし)

 お正月ですね。いつもより時間にも気持ちにも余裕ができた今が、まだ観ていないアニメを消化するチャンスではないでしょうか。ただ漫然と寝て過ごすのもいいですが、ひと作品観て感情を動かされた後で寝た方が睡眠の質も上がるというものです。往々にして、思っているほど正月は時間がありません。浮かれ気分の今観られないなら休みが明けても何も観られないでしょう。そうして我々はアニメも観なくなってオタク話も碌にできない、生活に大した情熱もない、休みにスマホを眺めているだけのつまらない奴に成り下がり老いてゆくわけだ。それでは寂しすぎる。オタクはアニメを観ろ。

※タイトル通りの短い記事です。四畳半神話大系やピンポン、Fate/Zeroなんかは全員観てると思っているので入れてません。

 

1.UN-GO

 「敗戦後」の近未来を舞台に、主人公の探偵が相棒と力を合わせて事件を解明しようとする探偵もの(といえばそう)。しかし「真実はいつもひとつ!」などと単純な話ではなく、むしろ「真実」なるものの本質を問うメタ的な構造がこの作品の特徴だといえるでしょう。『鋼の錬金術師』などで知られる脚本・會川昇による、メディアが大きな力をもつ現代そして歴史の多義性を見通すこの作品の視点が好きです。SF的な要素と呪術的な要素が奇妙に混ざりあう退廃的でスタイリッシュな世界観も格好いい。相棒の謎の生物・因果を演じる豊崎愛生の演技力にも注目してほしいところ。タイトルは坂口安吾の小説を原案にしていることからのトリプル(?)ミーニング。それなりに好き嫌いは分かれそうな作品だけどせめて4話からの風守の話までは観てほしいですね。

 

2.Zガンダム

 ガンダムシリーズの二作目にして、富野由悠季イズムを語る上で恐らくファースト以上に外せない作品。Zに関しては劇場三部作が本当に駄作なので、全50話と長いですがぜひTVシリーズ版で追ってほしいです。前作において「味方」側だった連邦軍が敵に回りガンダムが真っ黒にカラーリングされるという衝撃に始まり、大人になったアムロらかつてのヒーローたちの葛藤、強化人間、たくさんの人の死、第三勢力の介入などなど、人の業を煮詰めたような暗い展開が続きます。それがこの作品を特に印象深くしているのですが、ガンダムシリーズ中最強のニュータイプとされる主人公・カミーユがいかに立ち向かうか……というところに富野監督が懸けた未来への希望のようなものが感じ取れます。登場メカは全体的に前作より線がシャープになりました。悪役顔といわれた主人公機・Zガンダムの尖った感じが本当に好き。

 

3.四月は君の嘘

 ピアニストの少年と周囲の人々の彷徨を描く青春群像劇。『響け!ユーフォニアム』など音楽を扱ったアニメもなかなか増えてきた感がありますが、この作品はとにかく演出が上手い。奏者の奏でる音楽には、楽曲のもつ世界観にくわえて奏者自身の感情や精神性が込められているわけで、その生き物のような流動性を巧みにビジュアルに落とし込んだという点でこれを超える作品はないでしょう。あとは登場人物全てに対して尺をたっぷり使って非常に丁寧に心理を描き切っている点もとても好きです。やや人を選ぶとすればギャグシーンの漫画っぽい表現くらいでしょうか。

 

4.ガヴリールドロップアウト

 動画工房お得意の美少女日常系アニメ。ギャグを挟みながら毎話さほど凹凸のない話が続くいつものアレですが、「ゆるゆり」を手掛けた太田雅彦監督だけあってこの作品は特に会話のテンポが小気味よいと感じます。お話としては、天使や悪魔の主人公たちが人間社会に馴染んでいく過程で、「常識」で済まされる部分が少なく毎回新しい発見があったりよくあるネタの焼き直しが少なかったりすることもあり飽きがこないです。ガヴリールがかわいい。多分類似の作品のなかでこれが好きなのは4人の中でガヴリールという輪の外側への引力が常に働いている構図が気に入ってるからだと思う。

 

5.C

 カネが支配する異世界・「金融街」へと招かれた大学生が、未来を担保にした決闘「ディール」に巻き込まれてゆく話。敗北者には文字通りの破滅が待っている緊張感のなか、疑似的なパートナーである「アセット」と共にカネを強さに代えて戦うバトルシーンは本当に見せ方が上手くてワクワクします。破産寸前のスリル、カネを持つ者の強者としての振る舞い、数多くの人間を犠牲にして輝きを増す「金融街」の美しさ。そうしたカネの持つ光と闇を実にスタイリッシュに描いてみせたこの世界観が大好き。毎回現代社会においてカネとは何か?という問いに対して様々な回答が出てきて考えさせられます。現代社会の問題に作品を直に接続しようとする試み、中村健治監督は「ガッチャマンクラウズ」でもやってましたね。その辺りの議論はやや尻すぼみ感があったり、後半は駆け足になりがちだったりもするのですが、そういう不完全さというか青臭さみたいな部分も正直割と好きです。

 

入れようか迷ったのは『プリンセス・プリンシパル』『新世界より』とか。わりと見放題作品は年代が偏ってるんだよなあ。

これ何か参考になるんかな? とりあえずよいお正月を。

劇場版響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~ 感想・レビュー

「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」を公開初日(4/19)に観てきましたので、ひとまず暫定的に雑多な感想を書き残しておこうと思います。今のところあまりまとまった話にはなっていませんが率直に思ったことを書いておきます。

なおネタバレには配慮してませんのでご注意ください。

 

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入場特典は「くみれい」で"Happy Ice Cream" 一番欲しい絵柄を引いた.

 

・冒頭の久美子が塚本に告白されるシーンで、リズと青い鳥に脳細胞を焼かれたショックから立ち直れていない筆者は「異性愛!?そっちか!?」となりいきなりびっくりして椅子から転げ落ちそうになった。

 

もっと長尺で見たかった気はする

・観終わって第一の率直な感想としては、これTVシリーズ3期としてやった方が良かったんじゃないかな、ということだった。もっと長尺で見たかった。

TVシリーズにおける響けユーフォニアムは久美子視点で語られる群像劇だった。吹奏楽部内で様々な問題が起こり、それに対して久美子以外にも多くの人物が苦悩し乗り越えてゆく姿を少しずつだが着実に、丁寧に描いてきた作品だったと思う。例えばTVシリーズ2期における部内の「問題」とは「笠木希美・鎧塚みぞれ問題①」と「田中あすか問題」の2つだった。今回の劇場版では「鈴木美玲問題」そして「久石奏問題」がそれにあたるだろうか。

・だからこそ響けユーフォニアムの合奏シーンはあれほどに美しい。それぞれバラバラな青春の色を持った彼ら部員たちがひとつの曲を奏でるまでの並大抵でない努力と葛藤を観客は見て知っているからだ。

・2つの「問題」に久美子が対処しようとするシーンはセリフ回しと演技の秀逸さが光るかなり印象的なシーンに仕上がっていた。しかしそこに至るまでのプロセスの丁寧さや関係するキャラクターの心情を細やかに描けていたかどうかという点では、時間をかけて描写することができただろうTVシリーズの時よりも雑になってしまったと思う。そのためかクライマックスの関西大会での演奏シーンにはあまり気持ちが乗ってこなかった。単純に群像劇として見えているドラマの総量が少ないので感情移入できないというパターン。

・TV版ユーフォの演奏シーンは画面の切り取り方が非常に巧みで、それだけでキャラクターの感情やそこに至るまでに積み上げてきた思いを伝えてくるカットの数々が大好きだったが、本作クライマックスの演奏シーンではそこがややとっ散らかった印象を受けた。特に劇中でピックアップされていた久美子・奏や久美子・秀一のラインさらには美鈴や夏紀にはもっとカメラが向けられるべきだった気がする。突然入るCGも若干異質感があった。ただし、楽曲「リズと青い鳥」について技術的なことは分からないので筆者が無知なために勝手に違和感を覚えているのかもしれない。あるいは全国大会出場を逃したあと一歩の不調和を伝えるためのものと考えることもできる。

・以上は筆者が「ユーフォはこういう作品だ」というイメージと過大な期待をもって劇場に行った結果思ったほどでもなかったという話なので一般的な作品の評価とは関連性がない可能性も高い。もし観ていない人がこの文章を読んでいたならまずはともかく観てほしい、見どころは間違いなくあります。

 

先輩になるということ

・新しく部にやってきた一年生と久美子たちがどう打ち解けてゆくか、という話はかなりリアリティがあって面白かった。響けユーフォニアムは久美子視点で語られる物語であるため一年生組は最初は奏をはじめ自分勝手さが目につくような描かれ方をされている。得てして直属の上司部下になる一年生と二年生は仲悪くて三年は余裕があるから一年が二年よりも三年になついたりとかはよくあるよね。それでも高圧的な態度はとりたくない久美子は面倒くさい人間関係に精神を消耗して駅のホームでハーッとうなだれる。上下関係は難しい。

・そんな中で本心が読めない奏を見て思い出したのが久美子が一年生の時に田中あすかから投げられた言葉だった。当時はあすか先輩怖っ…という感じで受け止めていただろうその言葉が先輩としての立場になった今では自分が後輩の奏に対して投げつけたい言葉にすり替わっている。久美子のあすかへの思いはこの時おそらく単なる憧れからより深い理解へと変わる。TVシリーズ時の久美子の、「特別」になるためとして肯定してきた一年生らしからぬ悪行の数々(?)が相対化されてゆくのはかなり笑えた。

・そんな気づきが久美子の人間としての独り立ちを促したのだろう。一年生の時は麗奈に引力で引っ張られていただけの印象もあった久美子が自分の言葉で、努力した先に何もないなんてことは考えない、努力は無駄にはならないと奏の前で言い切れるまでになる。また奏者としても、ユーフォニアムのエースとしてあすかの後を継いで滝先生からも認められる存在にまで上り詰める成長を見せた。

・そう考えるとあすか先輩と半年振りくらいに再会するシーンはかなり大事だった気がするがあのひまわり畑が描かれた絵葉書みたいなのは何だったんだろう。あすかの後ろにのぞみぞれの二人が居たことに何らかの意図を感じてあんまり会話を聞いてなかったかもしれない。あとオーディションの件で奏に突っかかって以降の夏紀先輩の描写が少ないことも気になる。

・二年生組で一番後輩との関係でギクシャクしていそうなのは高坂麗奈なのでそのあたりの話も見てみたかった。トランペットでは反目しあう麗奈と一年生とそれをなだめる吉川優子みたいな構図があったかもしれない。

・いかにも訳ありという感じで登場した一年生の月永求についてはっきり謎が明かされないまま終わってしまったという事実は本作の尺不足感を如実に表していると思う。「源ちゃん先生」が彼の父親で、それに反抗心を抱いて北宇治にやってきたというところまで合っているとして(それ以外に推測するための材料がない)、父親が顧問の高校に目の前で全国大会への切符をかっ攫われるわけだが、その時の彼の気持ちやいかに。結局久美子も川島に任せておけばいい求には大して興味がなかったということなのだろうか。

 

麗奈と秀一

・恐らく久美子の成長は麗奈との関係の変化とも関わっている。1期の大吉山のシーンをはじめ全体的に百合っぽい雰囲気でやってきたユーフォだったがプロローグに秀一とのシーンを入れてきたのは明確な意図を感じる。序盤こそ美玲に距離近くないですかと聞かれるなど親密さを見せる久美子と麗奈だったが、後半の縣祭りのシーンではまた二人で大吉山の山頂まで来たにも関わらず麗奈がトランペットを吹く横で久美子は秀一へのメッセージを打っていたり、プールに来てお揃いの白黒の水着で並んで話していてもどことなく倦怠感が漂っていたりする。

・そうはいっても久美子としてはまだ麗奈や葉月、川島らと一緒にいた方が気楽で、塚本君とはまだ自然体というわけにはいかないのだろう。最後には彼からの告白をきっぱり断っている。それでも部を引退した後まだその気があるならその時には改めて彼を受け入れてもいい、と秀一に告げる。TVシリーズではあまり見せ場のなかった秀一にしてみれば大きな進歩だ。

・2期の田中あすかとの交流を経て上級生となり、自分だけの「吹く理由」を確固たるものにした久美子にとってはもはや麗奈という存在が唯一の指針ではなくなったのは大きいだろう。そして麗奈と入れ替わりに秀一が久美子のパートナーとして急浮上してくるのはなぜか。恐らくそれは途中でてきた卒業後の「将来」の話題ともリンクしている。音楽学校に行きたい、滝先生を振り向かせたいと常に遠くのものに手を伸ばし続ける麗奈に対して秀一が提示する恋愛関係は、2年生となり将来を考える必要を迫られつつある久美子にとってより確かで現実味のあるものだと感じられるのかもしれない(もちろん彼らが結婚して家庭をもって~とかそんなことまで現実味をもって考えているとは思わないが、あくまで方向性として)。

・一年生の頃の久美子が麗奈とともに戦ってきた相手は、トランペットソロのオーディションの時がそうだったように、「部全体の空気」とでもいうべきものだった。しかし二年生となった今の久美子は少なくとも一年生から見れば「部全体」の側の人間なのである。それどころか一年生の世話係まで任せられてしまった彼女は、彼女自身は個人を尊重したいと思っていたとしても、「部全体」の代行者として振る舞い一年生を集団としてまとめ上げることが求められている。だから久美子は部の空気を作ることはできても反抗することはできないし、もはやそれを選ぼうとはしない。大人になった、という言い方をしてもいい。だが一方の麗奈は引き続き滝先生を射止めるという明らかに部の調和を乱しかねない目標に向かって反抗し続けなければならない。久美子の心が麗奈から離れてゆくのはそうした理由もあるのだろう。

・こうした変化は進級するということの意味、つまり①後輩の面倒をみるようになる②将来のことを考えざるを得なくなる という大きな変化によって引き起こされるもので、この辺りも千変万化する青春のリアルを感じられて良かった。塚本君自身についても後輩の面倒を見るようになり男を上げた結果としてTV版では散々アプローチしてもだめだった久美子からの評価が高まったのかもしれない点も指摘しておくべきだろう。

 

リズと青い鳥」と久美子

・帰り際に観客のひとりが「のぞみぞれで負けたのが悔しいなあ」と言っていたのが印象的だった。リズと青い鳥に精神を破壊された傷が癒えていない筆者としても同感である。コンクールは時系列的にリズと青い鳥のラストシーンより後の出来事なので、夕焼け空の下で希美とみぞれが誓い合った本番の成功は完全な形では果たされなかったということになる。確かに悲しい。

・個人的に本作で一番無念なのは、そもそも希美とみぞれの心情についてほとんど何も描かれていないことである。ついついこの2人が画面のどこにいるか探しながら観てしまったが、ほとんどその他部員と同じ扱いでセリフもない。唯一の見せ場はラストの演奏シーンで、第三楽章の二人のソロパートではアップで描かれていた。ちなみに演奏シーンで一番作画が良かったカットは恐らくみぞれのソロパートだった。そこはスタッフの愛を唯一感じられて嬉しかったが…

・そうなった理由自体は理解できる。のぞみぞれの関係についてはリズと青い鳥でむせ返るくらい濃厚にやっているので映画の2時間の尺に収めようとするなら真っ先に削るべき箇所として挙げられるのもやむを得ない。またリズと青い鳥という作品は結末のない未完成の物語であり、今回その続きを描くとなるとあえて残された余白を狭めてしまうことにもなりかねない。

・そしてユーフォ本編はあくまで久美子視点の物語であることを忘れてはならない。TVシリーズ2期でみぞれがヒステリーを起こした時のことを思い出してほしい。みぞれの「希美のために吹いている」という言葉を聞いた時の久美子の感想は「そんな理由で吹く人がいるとは思わなかった」だった。希美の「みぞれのオーボエが好き」という言葉でみぞれは希美を受け入れ一応事は収まり、次の曲が始まるのです…という展開に初見で首を傾げた人は多いのではないだろうか。事実、リズと青い鳥ではあのやり取りを経ても二人の間に容易には埋まらない大きな溝がなおも残されていたことが明らかになる。

・つまり、基本的に久美子は希美とみぞれの関係をほとんど理解していない。何ならパートも違うので彼女らについてさほど興味もない。部員が43人いるような大所帯ではそういったモザイク状の認識になるのもやむを得ないだろう。筆者としてはそう解釈しているので、久美子視点で語られるユーフォ本編でのぞみぞれの登場頻度が少ないのも仕方ないのかな、と理解はできる。だが二人にとって大きな「別れ」を意味しただろうコンクール結果発表後のシーンでせめて一言、いや1カット表情のアップでもあったならもう少し晴れ晴れと劇場を出てこられたかもしれないとも思う。

リズと青い鳥で起きた事件が、希美・みぞれ以外の部員たちにどう映っていたのかはとても興味があったし、のぞみぞれ2人の世界の外側からみた周辺のドラマには正直期待していた。もう少し客観的に考えてみても、明らかに重要な立ち位置にいる希美とみぞれというキャラクターがセリフのひとつもないというのは徹底しすぎていて、不自然に見えても仕方ないのではないか。楽曲「リズと青い鳥」の核心部分を担う2人に新しい物語が何も用意されていないのでは、クライマックスの演奏シーンが盛り上がらないのも当然ともいえる。

・これは余談だが、筆者は久美子と希美は本質的には似通った人物だと思っている。敵を作らず立ち回る器用さとほどほどの頑固さ、そして「特別」でありたいという思い。久美子が2期序盤で部に復帰したい希美を助けようとするのは希美に自身や姉の面影を見るからだと思っている。しかしみぞれという人物については全く想像の埒外なのだろう。ゆえにユーフォ本編のみぞれは基本的にいつも無表情である。久美子≒希美だとすると、この二人に「特別」なあり方を教えたのはそれぞれ麗奈とみぞれということになる。だからリズと青い鳥で久美子と麗奈が希美とみぞれのパートを勝手に吹いて夏紀にペアとして対比されるシーンは改めて味わい深い。味わい深くありません?そしてみぞれに希美を手放すよう促したのが麗奈だったことの意味とは?傘木も鎧塚のような湿度の高い女と絡まずせめて高坂のようなカラッとした女とつるんでいればあんなに悩む必要はなく気楽にEDで「tutti!」とかを歌えていたかもしれないわけじゃないですか(?)。鎧塚さんの悪口ではないんですけども。筆者にとってリズと青い鳥という作品がいかに衝撃的でいかに多くの文脈を書き換えてしまったかというのを改めて自覚したというのはある。

 

touseiryu.hatenablog.com

 ↑ 以前書いたリズと青い鳥についてのレビューもありますので併せてどうぞ。

リズと青い鳥 part 4/4 ラストシーンとdisjoint→joint

映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)です。最終回の今回は終盤のシーンの意味について考えます。ここに書いたのはあくまでも私自身の視点の話ですが、観終わってモヤモヤしている人のヒントになるような内容になっていればいいなと思います。

 part3 ↓ 

touseiryu.hatenablog.com

 

 

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理科室のシーンで何が描かれたか

 最後の演奏シーンでみぞれがその実力を解き放ったあと、希美とみぞれは理科室に二人きりになる。力量差を見せつけられて意気消沈する希美を励まそうと、みぞれは必死に言葉を尽くして自らの愛を告げる。だが希美は一切表情を変えずに「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」。最後はみぞれが押し切るような形で「大好きのハグ[1]」をして、「希美の全てが好き」と言うみぞれに対して希美が言ったのは「みぞれのオーボエが好き」だった。

 これ以上ない最大限の言葉で希美を引き留めようとするみぞれ。対して劣等感も手伝い「みぞれのオーボエ」の部分だけしか受け入れられない希美。このシーンは最後の山場、クライマックスと言うべき重要な位置付けのシーンだが、実はあまり新しい発見が見当たらないシーンである。二人の人格とお互いに対する思いについて筆者の考えはこれまで述べてきた通りだが、それを推測するための材料は概ねこれより前のシーンで出揃っているといっていい。みぞれの愛情の告白というべき情熱的な言葉を受けても希美が特に驚きもしなかったように、彼女たちの間でもある程度察しがついていた結果だったのではないか。

 だが、それはこのやり取りが無意味だったということではない。これより前までは、二人のお互いの気持ちは中学以来の長いつきあいのなかで「察する」ことができたのみで、確実にこうだとする保証はなかった。しかし、このシーンで遂にみぞれが希美への思いをそのままに伝える勇気を手にし、希美が完全な形でそれを受け入れることを拒む勇気を手にしたことで、お互いの思いは言葉になってはっきりと伝わってしまった。不確定だった二人の間にある溝は、今後揺るぎない事実として横たわることになったのである。これをある種の別れだとするなら、童話で描かれたリズと青い鳥のような別れが彼女たちの元にも訪れることになったといえる。

 

お互いが欲しかった言葉は

 理科室のシーンの希美はみぞれに対する劣等感から自虐的な言葉ばかり選んでしまっている。そこにいつもの快活な姿はない。少なくともこのシーンでの彼女は自分の吹奏楽についての能力や努力についてみぞれに承認してもらいたかったはずだ。しかしみぞれが認めたのは希美という存在そのものだった。みぞれの愛情は無条件のものであり、フルートの技量や日々の鍛錬についてはもとより何の問題にもしていない。故にみぞれの言葉は希美を承認するものであっても希美のフルートの価値を証明し得るものではなかった。そういった意味では、「希美のフルートが好き」がこの場面の希美が最も欲しい言葉だったと言えるだろうか。ただしそれもほんの気休めに過ぎず、希美が能力主義に立つ限り根本的には言葉で問題が解決されることはない。

 一方のみぞれの不器用だがストレートな愛情表現は、自分から希美が離れてゆくことを恐れて彼女を繋ぎ止めるための言葉だった。みぞれの望みはただ希美がこれからも自分の側に居続けることであり、その確証が得られさえすればよかったのだろう。「みぞれの全部」でなくても、「好き」が期限付きのものでさえなければよかった。そう考えると希美の「みぞれのオーボエが好き」は残酷な言葉だ。希美が認めるのがみぞれのオーボエ、即ち吹奏楽に関する部分だけなのだとしたら、吹奏楽による結びつきは間もなく最後のコンクールと卒業という終わりが見えているため、その先の関係の保障は無いことを意味しているからである。

 「大好きのハグ」で好きなところを言い合った後で突然希美が笑いだすところが実に彼女たちらしい。希美がここで笑い、みぞれがそれを受けいれたことで、二人の関係は一応この場では取り繕われた。体面上はハッピーエンドが保たれた。一見みぞれの言葉で希美がいつもの明るさを取り戻したようではあるが、しかしはじめて本音をさらけ出したことで、この時二人は埋めようのない溝をお互いに自覚していたはずだ。実際には二人の間にある問題は改めて表面化しただけで何も解決に向かっていないにもかかわらず、それを再び曖昧さのなかに閉じ込めてしまう。もはや根本的に問題と向き合うことを二人は諦め、二人で過ごせる(過ごさざるを得ない)残りの時間をできるだけ楽しい思い出にする道を二人は選択した。それがこの瞬間だったように思われる。

 

disjoint→joint二人が失うものの儚さ

 本作には冒頭に「disjoint」の文字のカットインが挿入され、エンディングに入る前のカットインで「disjoint」の「dis」の上に横線が引かれ「joint」の文字が残るという演出がある。これについては筆者もネットで様々な人の感想・考察を目にしたが、disjointとは数学用語の「互いに素」を意味し、すれ違いを続ける二人の姿を象徴するものだという。本作では数字に特別な意味を込めたというのは山田監督も語っていることであり、この解釈に異論はない。しかし、最後にそれが「joint」へ変わることについて納得のいく説明がなされているものは見当たらなかったので、これについて筆者の考えを述べたい。

 「joint」…単語としては「継ぎ目」あるいは「接続すること」といった意味があるが、いずれにせよ「別れ」というよりは「繋がり」を想起させる言葉だ。ここにイメージ上の矛盾がある。本作中で二人は何らかの形での別れを迎え、関係が書き換わっているように思える。

 ただし、この映画に描かれているのは二人の一生の中から切り取ったほんの一部分であることに注意しなければならない。少なくとも吹奏楽部の活動が続く限り希美とみぞれは本当の意味で別れることはないのだから。本来ならば大きな節目となる最後のコンクール本番の顛末まで描かれていてもおかしくないはずだが、本作ではここで区切りとされている。ではここで描かれている希美とみぞれの「別れ」とは何かと考えてみると、正確には少女めいた関係性が終わり、大人びた関係性にシフトしていくことを示しているのではないかと考えると納得できるように思える。

 ここでいう少女めいた関係性とはすなわち憧れ、嫉妬、思慕などを伴う固有でアンバランスなものであり、以前までの二人の関係がそれにあたる。対して大人びた関係性とはバランスはとれているが時に平板でドライな、ある種の類型化された関係性である。二人は作中のすれ違いを経て、お互いについて過剰に期待し依存することを諦めてゆくだろう。みぞれは希美以外に剣崎後輩とも仲良くなれたことをきっかけに交友関係を広め、徐々に希美の存在は「友達の一人」に近づいてゆくかもしれないし、希美は吹奏楽以外にも没頭できる何かを見つけ、みぞれのオーボエに劣等感を覚えることもなくなるのかもしれない。

 つまり「disjoint」→「joint」は、互いに素でバランスの悪い少女めいた関係性が終わり、調和がとれていてより低いハードルで「繋がる」ことができる大人びた関係性へと再構築されてゆくことの比喩表現ではないかと思う。

 

少女性の終焉

 だが、そうして関係が造り替えられてゆくことで、かつての二人が抱いていた少女的感覚は確実に失われてしまうだろう。もしかするとそれはとても残酷なことなのかもしれない。本作は希美とみぞれが登校するシーンから始まり、そこから視点が一切学校を出ることなく、二人が下校するシーンで終わる。あがた祭りやプールに行ったことすら話に出るだけで一場面としては描かず、徹底して学校のみでの彼女たちの様子を描いている。

 山田監督のインタビュー記事に頻繁に登場する言葉として「少女性[2]」がある。例えばTV版から大幅にキャラクターデザインを変更したのもこの少女性の美しさを引き立たせるためだったという。大人と子供の間で揺れる思春期の彼女たち特有の、脆さと強さを併せ持った有様とその葛藤、大人になりきる前の一瞬の輝きをそのまま映し出そうとする姿勢がこの作品の根底にあるといえるだろう。

 希美とみぞれに関していえば、彼女たちの関係は果たして学校ないし吹奏楽部という鳥籠[3]を出たところに成り立つものだっただろうか。学校で日常的に顔を合わせるからこそかろうじて続いてきた関係性だったようにも思える。高3の彼女たちが学校を出れば、確実にその関係は大きく変わるだろう。だからこそ、彼女たちが学校で過ごす時間はかくも美しく、そして切なく儚げに我々の目に映るのである。

 

ラストシーンの不確実性

 ラストシーンでは夕焼け空のなか、オープニングとは逆に希美がみぞれがやって来るのを校門で待っている。希美とみぞれの関係は間違いなく変わった。噛み合わないまま会話を続ける彼女たちからはお互いについての諦めの姿勢が感じられる。恐らくこの時点での彼女たちは「少女」としてのお互いの別れを受け入れはじめている。終わってゆく関係をすっきりと締め括ろうとするからこそ、この場面の夕焼けは滅びを待つ前の美しさを放つ。奇跡的に二人の声が重なる「本番、がんばろう」は、まさに二人のそうした気持ちが表れた言葉だといえるだろう。

 だが、それでもまだ二人にはいくばくの高校生活とその先の長い人生が残されている。少女としての関係は終わるのかもしれないが、別の形で二人の関係は続いてゆくのかもしれない。希美とみぞれ、これから不確実な未来が待ち受ける二人にとってこの刹那的な心の重なりが、あらゆる可能性を信じられそうなこの一瞬が、たとえ幻想だとしてもどれほど心地よいものだっただろうか。失われゆくものを惜しみつつも、彼女たちに時間が残される限り別の可能性が残されているということ、それがこのシーンの意味であるように思える。

 

 

[1] 作中に登場する、ハグをしてお互いの好きなところを言い合う遊び。比喩表現ではない

[2] 念のため言及しておくと、これは「少年性」と言い換えても同じことだろう。脚本の吉田玲子のインタビュー中の発言として「このお話って感情の根源を描いているような作品なので、例えばみぞれと希美が男の子で(中略)も成立するだろう」がある。(パンフレットp.7)

[3] 吉田「鳥かごのような作品にしたいという共通の認識があったと思います」(パンフレットp.5)