脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

リズと青い鳥 part 3/4 傘木希美という女

映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)です。今回はpart3で希美の内面について書いています。

 part2 ↓ 特に併せて読んでもらいたいですね。

touseiryu.hatenablog.com

 

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希美の内面について

 「物語はハッピーエンドがいいよ[1]」そう言った希美は、自分の人生という物語をどこまで真剣に見つめていたのだろう。卒業という終わりが見えてくるなかで、茫漠たる将来への不安を根拠のない明るい予感でもって必死に呑みこもうとしていたからこその言葉だったように思える。一応は音大を目指すと宣言してみたはいいものの、みぞれとの差を見せつけられた希美はあっさりとその目標を手放してしまう。彼女の吹奏楽に対する真摯さは本物だとしても、そのゴールとして音大を設定する必要は必ずしもなかったはずだ。希美を音大志望に駆り立てたものは何か、そしてなぜそれを彼女は簡単に諦めるのか。改めて考えてみたい。

 山田監督は希美というキャラクターについてインタビュー[2]で以下のように語っている。「たとえばフルートの希美は、口のはじを上げて目をほそめることで相手には笑っていると認識される。というようなことを考えている子なのですが、裏を返せば「わらう」ことをして、相手と自分の間にある距離を取り繕っているわけで。」みぞれとは対照的に、希美が会話するシーンというのはかなり多い。みぞれや優子、夏紀以外にもフルートパートの後輩などほぼ常に人に囲まれている。人前で実に陽気に快活に振る舞ってみせる人気者の希美。しかし山田監督いわく、彼女の見せる笑顔はあくまでも他人との関係を取り繕うためのもので、本当に笑っているわけではないのだという。

 劇中では希美の笑い方について一切言及されていないわけだが、映画を観た人ならそれとなく納得できるコメントなのではないかと思う。例えばフルートパートの後輩たちと会話するシーンで「希美先輩はデートしたことあるんですか」と聞かれたときの希美の反応。えーっとおどけてみせた彼女の困り笑いは、急に自分が話題の中心に据えられたことへの困惑を表していたように感じられる[3]。彼女は後輩に囲まれて言葉を交わしながらも、どこかそれを自分とは遠いものとして捉えていたからこそのあの反応だったのではないか。希美が人前で見せる明るさの裏にさまざまな暗い思いを抱え込んでいたことが中盤以降明らかになっていったことからしても、彼女は本音と建前を使い分けることのできる器用さを持った人物なのである。

 

対照におかれたもの

 少し話題が逸れるが、ひとり理科室にいたみぞれに、偶然向かいの校舎で練習していた希美のフルートに反射した光が当たるシーン[4]があった。お互いに気付いた二人は離れたところから窓辺に向かい合ってしばらく一緒に微笑む。しかしふとみぞれが気付くと希美は誰かに呼ばれたのか窓辺から去っている。希美とみぞれそれぞれのいる世界や価値観のギャップのようなものが象徴的に描かれたシーンだった。

 仮にこのような、希美とみぞれが持つ各々の「世界」ないし「価値観」のようなものが想定できるとしよう。その中でも明確にお互いが共有していない部分に注目したい。希美にとってのそれは華やかでいかにも女子高生らしいフルートパートの後輩とのやりとりであり、みぞれにとってのそれは理科室で一人ハコフグに餌をやる時間や、やや地味で一風変わったダブルリードの後輩とのやりとりである。ある種の対比がここにはあるといえるだろう。

 基本的に本作はそうした何らかの対立について善悪を決めつけることはしていない、というようなことを先に書いたが、実は一度だけ一方を「下げ」ているのではないかと思える箇所がある。後半二人のすれ違いが始まるあたり、嵐のなか窓の外は暗く、雷や雨の音が響く不穏な雰囲気のなかフルートパートの後輩たちがひそひそと話をする。ここより前のシーンで水族館デートの約束をしたと話していた後輩のうちの一人が、デートに行った際その相手に「フグに似ている」と言われて傷心しているのだという。つまり希美が劣等感に苛まれてゆくと同時に、希美の世界も醜さを露呈し危機に陥ることになる。そしてフグといえばみぞれが餌をやっているハコフグが思い出される。才能あるみぞれから見れば希美の側に属するフルートの子たちは水槽の中でただ鑑賞される程度の存在に過ぎないのだという強烈な皮肉の意味合いが、プロット上の小道具選びの段階で仕込まれているといえるだろう。

 さて、一般に「高校生として」好ましい生活、態度、あり方―そんな風にいえるのは、希美とみぞれどちらの世界だろうか。他人を寄せ付けないみぞれよりは、社交的で明るい希美のほうがよりそう呼ぶに相応しいように思える。しかし、本作では世間一般である程度共有されているであろうこうした価値観の方にバツ印を描いてみせた。より正確には究極の個人主義ともいうべきみぞれ的な価値観と並べて両者を平等に天秤にかけてみせた。

 高校生の彼女たちは、集団生活や家庭との距離、「進路」の問題などにさらされるなかである一定の立ち居振る舞いを要求される。それは必ずしも自分で好きで選び取るものとは限らない。大人にもなりきれないが子供でもない彼女たちが、そこへ多少なりとも反発を感じるのは自然なことだろう。二人の世界の間にあるギャップとは、そんな自立性を求めてもがく思春期に、誰もが行き当たるある種の反抗と服従を象徴するものだと言えるのかもしれない。やや単純化が過ぎるが、つまりみぞれの側が反抗の態度であり、希美の側が服従の態度であると考えると作中に描かれた対比を説明できるように思える。

 

「物語はハッピーエンドがいいよ」

 以上のような点を踏まえると、希美は「快活な女子高生」や「面倒見のよい先輩」を人前で演じながら、それを飼い慣らされた態度からくるものと自覚して後ろめたさを感じている…そんな分析もできる。彼女の周囲の人間関係全てが嘘だとは思わない。そうして外面を取り繕うのも決して悪いことではないし、むしろ日常的に我々がコミュニケーションのなかで行っている処世術ともいえる。しかし、最後の理科室のシーンで希美がみぞれに言い放つ「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」の自罰的感情の中にはそうした意味合いの懺悔が込められているように思える。

 「物語はハッピーエンドがいいよ」にもう一度戻ってみよう。困難があったとしても、最後には誰もが報われ幸せを迎えられるハッピーエンド。ひとつの理想ではあるが現実には、どうあがいても報われない局面は存在するし、一様に全員が幸せになれることもあり得ない。高校生に過ぎない希美には、人生において何らかの形で訪れるだろう絶望を受け容れるほどの覚悟はないし、他人に痛みを負わせる覚悟もない。ゆえに、最善手ともいうべき「自らの一定の有用性を示しつつ、他者を傷付けない」方法を意識せずともとってきたのではなかったか。

 これは対人関係についての姿勢の話ではあるが、希美の生き方そのものに関わる問題でもある。恐らく希美は、自分のあり方が必ずしも自身のエゴイスティックな欲求からくるものではないと気付いていたし、一方で人生にはそうした強くて特別な思い、執着ともいうべきものが必要であることにも気づいていたはずだ。ハッピーエンドで全てを救うということは、同時に何も捨てないということである。つまり物事に優先順位をつけないということだ。しかし高3の希美にはこれまで築いてきた何かを捨て、新たに何かを選び取るという選択が課せられている。彼女は捨てられず、迷い続け、そして進路希望調査を白紙で出すことになる。「物語はハッピーエンドがいいよ」は、そうした状況に対する消極的な反抗心の表れといえるのかもしれない。

 だからこそ、これまで希美は吹奏楽に対して十分本物といえるだけの情熱を注いできた。ハードな吹奏楽部の練習に生活を捧げる彼女の熱意は並大抵のものではない。ただし、希美は高1の時に一度吹奏楽部を辞めており、二年時にひと騒動の末に部に復帰している[5]。退部した当時の彼女にとって吹奏楽は何を犠牲にしてでも続けたいものではなかったのかもしれない。事実だけを見ればそう言えるだろう。そして再び入部した時に彼女は何を思ったのか。もし彼女がこだわりをもって没頭できる「何か」が必要だと気付いていて、吹奏楽こそが自分にとってその「何か」にあたるものである、というところまで対象化して捉えていたとしたら、それはとても不幸なことである。何故なら夢中になれるものさえあればそれは「吹奏楽でなくても良かった」とも言えるからだ。それ故に、彼女は吹奏楽への情熱が本物であると自らに証明してみせる必要性に駆られていたのではないか。つまり彼女に音大受験を宣言させたものは、みぞれに対する対抗心のみでなく、自分は心から吹奏楽が好きで、かつ妥協的な進路選択をしていないことを形として示したい、そんな思いだったのではないかと推測することができる。

 

希美からみた「みぞれ」

 そんな希美の目にみぞれという存在はどのように映っていたのか。迷いがちな自分に対して、いつも真っ直ぐに自分の背中を追いかけてくるみぞれ。人にどう思われるかを気にしてしまう自分に対して、そんなものは歯牙にもかけないといった風のみぞれ。そしてソロパートを任せられるほどに磨いた自分のフルートが霞むような、みぞれの雄弁なオーボエ。みぞれのことを剣崎後輩の前で「変わってるところあるからなぁ」と評し、部の人気者としてやってきた自信と誇りをにじませながらも、みぞれに対しては尊敬に近い念を抱いていたのではないかと思われる。人間同士の機微に敏感な希美ならみぞれから向けられる好意にも当然気付いていたはずだが、少なくともそれを不快には思っていなかっただろう。むしろ積極的にみぞれと話をしてみぞれの好意に応えようとしていたように見える。

 しかし、希美とみぞれでは生き方が違い過ぎる。希美にとってみぞれが尊敬し得る人物だとしても、みぞれと接することで彼女が自分とみぞれを比較してしまえば、自分自身の嫌いな側面を常に意識させられることにもなる。希美にとってみぞれは、一緒にいて心安らぐ相手では必ずしもなかったのではないか。そんな相手に毎日つきまとわれるのは(というと言い方が悪いが)、鬱陶しく思えたこともあっただろう。無邪気に自分の不純さを突き付けてくるみぞれという存在は希美にとって一種の呪縛でもある。

 それでも希美がみぞれのことを突き放そうとしないのは、単にみぞれのことを傷つける勇気がないからではない。「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」からも窺えるように希美の自己肯定感はそれほど高くはない。人前で明るく振る舞いながらも、常に自分のあり方について不安を感じている。そんな彼女にとって、自分と違って毅然と生きているみぞれが唯一自分だけを特別な存在として扱ってくれること、それ自体が何よりの救いなのである。実は希美のほうも無条件に自分を認めてくれるみぞれという存在を心から必要としているのだ

 

与えるものと受け取るもの

 だが、そのようにみぞれから恩恵を受ける一方で、希美はみぞれからの愛情に応える術を持たない。みぞれが自分を思うほどには自分がみぞれのことを思うことはできないのである。つまり、一方的に施しを受け取るだけ受け取って満足なものを相手に返せていない、そんな不均衡な関係だと希美は考えており、そのことに罪悪感すら抱いているように思える。もちろんみぞれの方は自分の愛情に対する見返りがあろうとなかろうと希美への思いは不変であり、むしろ自分のほうが多くのものを希美から受け取っているとさえ考えているだろう。

 お互いにお互いの関係がアンバランスなものであることを自覚しながら、みぞれはギャップがあったとしてもそのままの関係が続くことを願っている。対する希美は、どこかでそのギャップが是正されなければならないと考えていたのではないだろうか。それが窺えるのが、音大受験をみぞれに相談せずに取りやめるという行動である。もともと乗り気ではなかったみぞれに音大受験を決意させたのは、希美が一緒に受験するという要因が大きく、それを相談なしに諦めるのはみぞれへの裏切り行為といっていい。奏者としてみぞれに劣っていることをはっきり認めたくない気持ちはあったかもしれない。だが筆者には、ここには別の意図があるように思われる。すなわち、希美はあえてみぞれに嫌われようとしていたのではないか、ということである。

 優子から音大受験をやめることをみぞれに言ったのか、と詰問された希美の返答は「言ってないよ。なんで?」だった。言い訳をするわけでもなく、見え透いた鈍感なふりをして軽薄に返してみせた。希美は本当はみぞれの自分へ向ける思いにも気づいているし、音大受験をやめれば彼女が傷つくことも分かっている。その上で、謝罪して許してもらうのではなく、みぞれのことを気にもかけていないとアピールすることで、みぞれの自分に対する評価を下げる道をとったのだ。つまり、みぞれから自己評価に釣り合わないほどの愛情を受けてそれに報いる手段を知らない希美は、みぞれの自分に対する評価を下げさせることでアンバランスな二人の関係を調整しようとしたのではないか。これは希美なりにみぞれに対して真摯に向き合った末の選択であるといえるし、あまりに自罰的な姿勢にある種の誠実さすら感じる。だが誰一人幸せにならない悲しい選択だ。

 同じようなことはみぞれについても言える。彼女は自分の感情があまりにも一方通行であることにも気づいているし、そのまま希美に受け入れられるとは考えていない。ゆえに、希美を窮屈にさせてしまわないように常に距離を取り計らっている。そんな慎重さが表れたのが、プールに行くのに他の誰かを誘ったほうがいいか、と希美に尋ねるシーンだろう。これは希美を不安にさせる結果しか生んでいない。彼女たちはどちらもお互いのことを必要としながらも、本当にお互いが欲しいものを相手に与えることができない。ここに二人の決定的なすれ違いがあるように思われる。

 

最後のpart4ではラストシーンとdisjoint→jointの意味について考えます。

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[1] 山田監督のインタビューでの発言として「(中略)希美のいう『ハッピーエンド』という言葉にすがろうと思いました。」(劇場パンフレットp.10)といったものもあり、希美というキャラクターを描く上で特に重要なセリフだったと考えている。

[2]リズと青い鳥』公式サイト|山田尚子監督インタビュー http://liz-bluebird.com/interview/

[3] ややデリケートな話題なので戸惑って当然ではあるのだが、そこからくる恥じらい以外のものを感じさせる演技がされていたように感じられた。こうした言外の細かいニュアンスを伝えられるのは本当に声優の仕事だと思う。ちなみに後輩のこの質問自体の湿っぽい意図を指摘する識者の人もいてなるほどなあと思った

[4] 識者の皆さんが「反射光愛撫」と呼んでいた作中屈指の名シーン。

[5] このあたりはTV版第二期の内容なので是非チェックされたし。