脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

浅倉透GRADには何が書いてあったのか 読解・感想・考察

 昨年書いた浅倉透WINGに引き続き、シャニマスの浅倉透GRADシナリオについて筆者なりの読解や感想を文章にまとめておきたいと思います。基本的に透のコミュは他のキャラクターと比べても難解なものが多いですが、恐らくGRADは透のキャラクターを理解するのに必須であるにも関わらず、WINGよりもさらに難解だと感じました。必ずしもこの読みが正解であるとは思っていないので、ご指摘・ご感想などあればぜひコメント等いただけると幸いです。

 

touseiryu.hatenablog.com

↑浅倉透WINGの記事。これをベースに議論している部分もあります

 

OP「鼓動」

 透の「湿地」に関する発表のナレーションと並行して事務所でのPとの会話が描かれる、透らしい印象的なコミュ。透が学校で「偉い人」と語る学年2位のクラス委員長から300円のギャラでナレーションの依頼を引き受けてきたという。言葉足らずな透の話を聞いたPは最初アイドルの立場として受けてきた「仕事」なのだと早合点し、「直接打診を受けた時はまず相談してほしくって――」と彼女を窘めかけるが、学校の授業の一環と聞いて「それならいいんだ」と態度を改める。それに対する透の反応は「仕事でしょ ギャラもらってるから」だった。オーディションイベント「G.R.A.D.のことも忘れないでほしいとPは注意する。「――うん」と肯定してみせた透の態度はやや不満げだ。唐突に「ミジンコってさ あるのかな、血」「ある?心臓」と問いかける。そして1人で事務所からの帰りに川へ寄った透は「もし、あるんだったら―― どきどき、してるか ミジンコ」と謎のコメントを残してコミュは終わる。

 

 OPとはいえ改めてあらすじを追ってみるとなかなか難解だが、ナレーションの内容とPとの会話で示された透自身の内面はリンクしていると考えられるのでそれを手掛かりとしたい。さまざまな生物が生息し、豊かな生物多様性の揺り籠としての湿地。そこにはミジンコのような微生物も一個の生命として存在しており、生態系の一部をなしているはずだが、人間社会からすればその膨大な体系を物理的に見ることも困難で、興味の対象となることも稀だろう。しかし透はそんなミジンコに「どきどき、してるか」と共感し語りかけてみせるのである。いつもの浮世離れした宇宙人的発言と突き放すことはできるが、ここには一貫した透独自の姿勢が表れている。すなわち「個」への分け隔てない視線だ。WINGシナリオでは社会通念とは距離を置く透の生き様が描かれたが、彼女の興味の対象もまた人間社会の常識に縛られることはなく、ただそこにある生命をフラットに見つめているといえよう。なお同様のテーマは比較的初期のコミュだと「天塵」で缶のコーンスープを飲んだ際に底に残った粒を気にするシーンや、「10個、光」でバスから見た個々の家の明かりに感動するシーンなどで繰り返し描写されている。

 

 透の不満げな様子は、Pが学校の発表のナレーションをアイドルとしての「仕事」ではないと判断したこと、あるいは「G.R.A.D.」について「期間中は、ずっとアピールタイムみたいなものだからさ」と言っておきながら学校生活のことを区別して、透の関心が発表の方に移るのではと気にしていることが原因だと考えられる。

 

 おそらく透はナレーションの「仕事」を含めた学校生活とアイドル活動をあまり区別していない。アイドルとしての浅倉透と「24組、浅倉透」の間には何の垣根もなく、ただ自然体の浅倉透という「個」が存在しているだけなのだろう。社会は「芸能人」「女子高生」「(職業の)プロデューサー」といった属性の集合によって普遍的に個人を把握し、それぞれの属性に沿った立ち居振舞いを要求する。個人はそれに応じて場面ごとに様々な「顔」を使い分ける。しかし透は、人間社会に見放されたミジンコの視点から、いかにも社会人らしく「プロデューサー」の顔の範疇で彼女と向き合おうとしたPの態度に違和感を覚えたのではないか。そして「どきどき、してるか」とは透自身の今後の展開への期待と不安の表れでもあるのだろう。

 

シーズン1「携帯が鳴ってる」

 偶然透が写り込んだ写真がSNSで拡散され、にわかに注目を集めることになった透とPの会話と、ナレーションを依頼してきたクラス委員長との会話の回想という2つの場面がここでも交差するように描かれる。写真に写り込んだ透は「奇跡の赤ジャー」などとルックスを賞賛されているらしい。SNSの投稿の「♡」もフォローも無秩序に増加していき、通知が止まらなくなって携帯は鳴り続ける。Pは「めちゃくちゃ話題になってるぞ、透……!」「注目されるってこと自体は、ポジティブなことだから」と炎上を気にしつつも状況を前向きに捉えている。しかし当の透はそもそもSNSに関心を持っておらず、「うん……やばい アイドルみたい」とどこか他人事のようだ。一方回想では、「ごめんねいきなりで、びっくりするよね」と畏まる委員長に対して、透も「偉い人きたーって思った」と驚きを口にする。透はクラス委員会のことを緊張すると言ったり、委員長の成績を褒めたりする。委員長が、自分ごときでは到底届かない高みに透はいるはずだ、という恐縮の意味で「だって、どうやってなるの? その、アイドルって」と尋ねると、透は何故かそれに真正面から答える。「……なんか、なった ていうか―― なってないかも?」の後に暗転して「息 してるだけで」というセリフで唐突に締める印象的な演出がなされている。

 

 SNSの「♡」はOPで出てきたミジンコの心臓の話とかかっているし、携帯の通知を伝えるバイブレーションは「鼓動」に似ているとも考えられる。しかし明らかに透は「♡」にも携帯の通知にも、それほど関心や前向きなイメージを持っていない。これは前回示されたミジンコへの興味とは対照的だ。あえて言えば、ひとつの生命の宿す血の通った「鼓動」と、ネットと電子機器が作り出したバーチャルな「鼓動」とがあり、透は後者にはリアリティを感じていないのである。さらに後者によって描き出されるだろう自身の「アイドル」像についても、「アイドルみたい」という発言から窺うに、実のところ透は確信を得ていなかったことがわかる。

 

 一方で委員長との会話でも、委員長と透の差異が対照的に描かれている。両者とも世辞のつもりで言っているとは読みにくいので、お互いに相手に対するリスペクトと近寄りがたさの混じった畏敬の念があると考えてよいだろう。一般的な価値観では「学年2位」がクラスにいることはあっても本物のアイドルがクラスにいることは稀であり、委員長のような態度のほうが自然に思え、透がクラス委員会ごときで緊張したり、委員長の「どうやってなるの?」という質問を反語だと受け取らなかったりする方が奇妙に思える。しかしOPコミュで見たようにアイドルとしての仕事と学校生活との間に区別と優先順位をつけることを拒み、自分がアイドルであるという実感が希薄な透には、やはり委員長の方が「偉い人」ということになるのかもしれない。

 ここにある透自身の自己評価の低さと委員長に対する評価の高さをどう解釈すべきだろうか。「途方もない午後」では本コミュとかなり近いテーマを扱っている。多くの業界関係者から持ち前のルックス(あるいは雰囲気、オーラ)について「いいね!」と褒められるが、透は独り「よくなーい」と呟く。そこでPが言及したのが「のぼる」ことだった。「のぼる」とはWINGシナリオのキーワードであり、以前筆者の書いた記事から引用して「常識に縛られず、「成長」して「何者か」になるというある種の観念にも馴染まず、何かその先のビジョンが見えているわけでもないが、ただ純粋なまま、既に手元にあるもの(例えば過去)を肯定するためにもがくこと」であると一旦定義したい。透は少なくともWINGでは確かに「のぼる」ことをしたはずだが、それでも自分を肯定するまでには至っていないということなのだろうか。「息してるだけ」でアイドルになれてしまう今の透は、社会による評価と自己評価が釣り合わないことに不満がある。例えば市川雛菜であればこうした水平的な思考にはならず、「自分は自分以外にはなれないから気にしても仕方ない」と割り切るところだろう*1社会通念に染まらず飄々とした印象の透だが、実は社会と周囲の人間の姿を彼女なりに見て応えようとはしていて、その中で個々の生命(例えばミジンコも含め)が公平に扱われるべきだ、というような信念をもっていることが見て取れそうだ。

 

 そして透はなぜ委員長のことを高く評価するのか。これもやや不自然で、朝コミュで「補講にならないように気を付ける」という趣旨のコメントがあるように学習面に関しては全くやる気がないわけではないものの、真剣に取り組んでいるとは言い難い。委員長と成績で張り合おうという気はないはずだ。恐らく透たちの高校は少なくともバリバリの進学校という感じではないだろう*2、決して全員が同じ目標に向かっているのではなく、高校生ともなれば勉強、部活、その他の活動と人それぞれ様々に打ち込むものがあり、各々である程度バラバラな評価軸を持っているはずだ。

 

 WINGPと出会う以前の透は、恐らくその「打ち込むもの」が何もないことにコンプレックスを抱いていた。だからこそ元から憧れがあったわけでもなく偶然にPとの出会いによって始まったアイドル活動を、「のぼる」ことであると再定義して進むことを決意するのがWINGシナリオのヤマである。しかし先に述べたように「のぼる」とは何かその先に展望があるわけではない、言わば自己の救済のための独善的な運動であることには違いない。「のぼる」ことをあえてアイドルで行わなければならない決定的な理由を、Pとの関係くらいしか透は持っていないのである。これは他者あるいは社会と極めて密接にかつ複雑に関係してゆくアイドル活動においてはいつか向きわなければならなかった問題だともいえる。そして案の定、透は自分がアイドルであるとの実感を持てないままここまで来てしまったのだ。

 

シーズン2「息してるだけ」

 SNSで話題になったことで仕事が増える透。出演したラジオ番組ではめちゃくちゃなボケを連発して大暴れするが、業界人からは「いいキャラだなあ」「面白いじゃないですか」などと好感触を得る。収録の帰りの車内で透とPが会話する。Pは急に多忙になった透のことを心配している。仕事を「無理に、請けなくてもいいからさ」というPに対して透は「いいってこと? 請けない方が」とその心配を全く意に介さない。「やってなくない? そんな心配されるほど」「――しんどいって言ってた。めっちゃ めっちゃしんどいんだって。2番になるの」「ないじゃん、そういうの めっちゃ、なんか――楽勝だから

 

 ラジオ収録のシーンはこれぞ浅倉透の真骨頂という感じでかなり笑えるが、P目線だと大ボケをかます透にハラハラさせられた場面だっただろう。その後車のシートに透が食べ物か何かを落として汚しかけるように、どこか危うさを抱えた存在なのだろう。致命的な失敗をビニール袋一枚の差で辛うじて躱して何とか笑えているのが現状なのかもしれない。だからこそPは「透の気持ちが大事になる、ってこと」と改めて透の決意を確認しようとする。一方の透は、むしろ自分が何故か失敗しないでここまで来れていることに不満があるように見える。どれだけ現場でミスをしても芸能界ではそれは「キャラ」「持ち味」として好意的に受け取られる。何かそんな有様を公平*3ではない、と感じているのかもしれない。

 

 透が比較対象として出したのはやはり委員長だった。委員長は2番になるために「めっちゃしんどい」思いをして勉強している、対して自分はアイドルの仕事をしているとはいえいつも「楽勝」、だから委員長は偉く、自分は大したことをやっていないと自虐的に語る。換言すれば努力や必死さが自分には足りず、それを持っている委員長の方が高く評価されるべきだと考えていることが明確になる。その方が公平だと考えているのかもしれない。ではアイドル活動に必死になって自分で努力すればよいのでは、という話になるわけだが、筆者には何か最後の透のセリフに諦念のようなものが混じっているように思える。つまり自分にはそんな努力は不可能である、というような諦めと、どうにもならない投げやりな気持ち。

 ここは筆者個人の解釈が強くなるが、「のぼる」ことはいわゆる「成長」のためのプロセスを意味しないと感じる。「成長」とは他者あるいは社会が定義する姿に自分を適応させることであり、その前後の変化は必ずしも絶対的に肯定できるものではないし、そうした普遍的な価値観を鵜呑みにしないからこそ浅倉透という人格が作られたと考えているからだ。だが思えば、ここまで「のぼる」運動を行ってきたとはいえ、透が本質的に自分の意思で自分を変えようとしてきたかといえば否だろう。努力とは自己変革である。痛みを覚悟で過去の自分を否定し、自らの意思で自分を作り変える。透のいつもの姿勢はそれとは程遠い。学校生活でもアイドルでも透は常に自然体を保ってきたし、ラジオの収録で何度もミスをしても透は謝罪しない。それが透らしさでもあるのだが、例えば努力することを当たり前だと考えている福丸小糸であれば平謝りして失敗を取り繕おうとした場面だっただろう*4

 

 「努力できるのも才能」とはいうが、なぜ透が自分は努力できないと考えているのかは判然としない。透が努力せずにアイドル世界で成功できてしまうように、元から賢い人間は凡人から見れば大した努力もせず勉学で成功してしまうこともあるし、努力して永遠に失われてしまうものだってある。そんな言葉をかけたくもなるが、高校生で同年代の他者が痛みを負って努力しているなか、自分だけが安穏としていることが許せない気持ちは理解できる。だからここで透は自分を変えようとしてしまうのだ。「のぼる」こと、すなわちこれまでのアイドルに対する向き合い方に変化が生じてくるのが今後の展開であるといえる。それを象徴するように、鼓動のようなSEが多用されたり、舞台監督の「つかむ子はつかむんじゃないですか」という予言めいたコメントが挿入されたりしている。

 

GRAD予選

 予選前後のコミュでは、透がPに「勝ったらさ、すごい?」「じゃなくて、偉い?」と質問を繰り返す。Pが「すごい」「偉い」と言葉を返しても透の反応は鈍い。敗退時にはPの力強い言葉に「つられる」と言って微笑みかける。良くも悪くもここまでアイドルをやってきたモチベーション、すなわち「のぼる」ことの中心にはPがいたわけだが、今ではPの言葉を信じ切れず、自分は唆されているに過ぎないのではないか?という疑念が生じかけていることが窺える。

 

シーズン3「どうしたいのかとか、聞かれても」

 透と委員長の会話と、透とPそれぞれのダンス講師との会話が平行して語られ、さらに後半にはPの視点になり、各所にランニングをする透の痛ましいほどに荒い息遣いが挿入されるという、かなり複雑な構成で感情を揺さぶる本シナリオのヤマ場。透は委員長と連絡先を交換する。委員長が「浅倉さん、その……クールな感じだから クラスのことに協力してくれるんだ、って」と本音らしきものをつい口にすると、透の反応は「言われる ちゃんとやれーって」だった。しかし「ちゃんとやるから、これ」「ふふ、やれるかな 委員長みたいに、めっちゃ頑張るの」と決意を述べる。その後にダンス講師とのレッスンがあった。委員長との約束の方に気をとられた透は、着信を気にしてレッスンを中断させてしまい、そのような態度を「全体的に適当というか、何を考えているかもわからない」とダンス講師に判断され、気持ちを引き締めるために「河原コース100周してから出直しなさい」と言い渡されてしまう。それを真に受けた透は、「100周したら わかりますか」と本当に河原コース100周のランニングを始める。しかしそれは到底無謀な挑戦であり、Pが駆けつけるまで息も絶え絶えになりながら走り続け、5周したところで倒れてしまった。

 

 委員長から「浅倉さんに引き受けてもらえたの、ほんとに、すごく嬉しいの」と言われて透は素直に照れた態度を見せる。これはGRAD予選でPから「すごい」と言われた時とは対照的な反応である。そんな信頼を寄せる委員長から協力してくれなさそうなイメージを持たれていたことは透なりに応えたのではないか。ダンス講師の「そういうキャラだって、ちやほやされてるんでしょう?」も含めて、透が頻繁に「常に無気力で何に対してもやる気がないくせに、顔が良いので周りから注目されてそれに慢心している」ように周囲から思われていることは想像に難くない。基本的には他者から愛されることの方が多いのだろうが、先天的な素質の上に胡坐をかいていてずるいと毛嫌いする人もいるだろう。もちろん透は自分勝手な人間ではないし、危ういながらも彼女なりに軸を持って生きていることはわかる。ただ自己表現があまりにも拙いために周囲に誤解を与え続けているに過ぎない。現にWINGでは他ならぬPが透の真意をはかりかねていた。たびたび透が、心臓があるかどうかさえ人間に知られていないミジンコに自分を重ねているのは、周囲から一向に理解されない透自身の疎外感の表れなのかもしれない。

 

 ただし透が同年代と比較して明確に欠けていると思われるものがある。すなわち目的意識である。Pと出会う以前にはもちろんその目的意識が持てなかったことから退屈で閉塞感のあるジャングルジムの夢を見ていたのだろうが、WINGでの成功体験でそれを克服したはずだった。だがアイドルの道でも、「のぼる」まではできてもゴールがあまりにも不明瞭であるがゆえに、目的意識をもって努力し、主体的に自分を変えていくほどのモチベーションは見いだせなかったのだろう。まさにタイトルのように自分を「どうしたいのか」が分からない。だからこそ、自分には努力して主体的に人生を歩むことなど無理だと半ば諦めているのではないか。

 

 自分にはできない努力をしている委員長から頼られたことは、本当に嬉しかったのだろう。それは透が自分自身に欠けたものをもう一度見つめ直す機会になった。委員長を手伝うという心からの目的意識が、確かに自分の内に宿ったことを確認した透は「ちゃんとやるから」と努力を誓うのである。しかしここで、透がこれまで維持してきた、学校生活でもアイドル活動でも区別せずに自然体で向き合うというバランス感覚は崩れることになる。それは何事に対しても「目的意識を持たない」ことではじめて可能となるスタンスだったからだ。一度目的意識をもってしまえば、それに基づいて自分の行動・思考が新たに定義づけられ評価される。それはもはや人造物としての自己であり、自然体とは呼べないだろう。バランスにさえ気を遣ってそれらしい目的意識を場面ごとに使い分けられれば、目的意識の数だけ違った顔を演じ分ける(おそらく透の嫌いな)立派な社会人になれる。だが高校生の透にはまだそれができず、ダンス講師との関係に破綻をきたす結果につながった。

 透がやっとの思いで抱きかけた目的意識には、これによって冷や水が浴びせられる形となった。それでもなぜ透はダンス講師の言葉通りに、おそらく意味のない河原100周に挑んだのか。透は相手の言葉をあまりにも率直に受け取りがちなため、本当に講師の真意が分からなかった可能性はあるものの、別の要因を考えたい。

 第一に、社会への当てつけであるという説。自分に過大評価を与えたり、逆にずるいと非難したりする人が多い中で、彼女を彼女としてそのまま認めてくれる人間が家族や幼馴染たちの他にどれほどいるのか。いや母親ですら透の直面する事態をつかめていないし、真に自分を分かってくれる他者などこの世にいないのかもしれない。このダンス講師にもまた透の本質は理解されず、人格を否定するような厳しい言葉も受けたのかもしれない。そんな自分を理解しない社会に対するフラストレーションがこの時爆発したのではないか。

 第二に、透の中で何らかの公平さを維持しようとした説。恐らく透は、委員長との大事な約束があったとはいえ、レッスンを台無しにしたのは紛れもなく自分であるという自覚はあるだろう。それを罪とするなら罰を受けなければ彼女の中で公平さが保てない。あるいはダンス講師の「そういうキャラだって、ちやほやされてる(のでずるい)」という批判を受けて、その「ずるさ」に対する責め苦を自分が受けることで公平であろうとしたとも考えられる。先述してきた通り透は公平さに妙にこだわっている節があるし、最後の「分割払いで」というセリフからもランニングが何らかの「負債」であると考えていそうなことが窺える。

 第三に、自傷行為であるという説。委員長との比較の中で目的意識のない自分の惨めさを自覚し、それでも辛うじて芽吹きかけた目的意識は一瞬で吹き飛ばされてしまった。自己の尊厳をかなり失っている状況であることは間違いない。であれば、自己を破壊したい衝動や、自己を追い込んで自らの生を確認したい衝動に駆られても不思議ではない。だからこそこの時「ミジンコの心臓」の話が出てくる。とにかく向こう見ずに走り続ければ透の心臓は早鐘を打つように鳴り、確かに彼女の心臓がそこに存在し、彼女が生きていることを知らせたことだろう*5。そして透は周回中に「わっかんない」と吐きすてる。自分を限界まで追い詰め、破壊しきった先に何か自分の求める答え、すなわち自分は自分を「どうしたいのか」がわかるかもしれないと一縷の望みにすがろうとしたのではないか。

 第四に、分かりやすく形式的に「努力」っぽかったから。ランニングで体を鍛えるのは単純に生存に役立つし何をするにしても無意味ではないが、一度に100周もする必要性は全くない。目的意識が曖昧なままではそれは努力とすら呼べず、ただの悪あがきだと思う。

 

 筆者はこれら4つの要因全てが関係して透を自暴自棄な行動に走らせたのだと考えているが、やや想像の部分が多い。いずれにせよ、これほどまでに追い詰められた透を見るのは誰もが初めてだっただろう。ここには努力によって得られる青春の爽やかさなどはない。ただ透の束の間の喜びと、無念さと、もがき苦しむ様が痛々しく描かれているだけである。それは描き方としてはきわめて真摯であるように筆者は感じた。

 

シーズン4「息したいだけ」

 透のアイドルとしての仕事は引き続き順調で、業界人たちは口々に透を賞賛する。しかし透の表情は曇ったままだ。それを見てPも、「上々だよ……けど――合ってるのかな、俺」と違和感に気づき始める。透と委員長の会話では、透の朗読を委員長が聞いている。透は原稿の意味がわからないが、「ぴったりだよ 浅倉さんの読んでくれる雰囲気で」と委員長に褒められる。「『川の水、海の水、あたたかい泥 そこに沈めば、きっと こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に』――なりたいの?そういう感じに」透は問いかける。「食べて食べられて、どんどん太陽の命がつながって湿地を営んでるの……もちろん、世界中がそう そのくらい、命ってシンプルなんだなって……そういうことに、感動しながら書いてたかもしれない」委員長はそう答えた。Pと透は、偶然出会ったバス停まできて話をする。透は「座ろ」と言ったり「乗ろ」と言ったり、迷う様子を見せる。Pは「大丈夫か」と透を気遣うが、透は「『大丈夫だ』って言ってよ」とそれを遮る。そんな中で冗談のように透が言った「湿地に行く」というアイデアを、Pはその場で実行に移すことにし、透を連れ出す。干潟に着いた透は、改めて心情を吐露する。「ウケるじゃん、走らなくても――べつに、踊れなくても 大変じゃなくて……全然 してるだけだから、息」「のぼってる……って思ってたけど わかんないや、最近」「いいよね、ここ――息してるだけで、命になる ミジンコとかも でかい鳥とかも」それを聞いたPは、透が確かに「命である」と認めた上で、「頑張りたいんだな、透――頑張れてるのかどうかってこと 透が決めていいんだ」と語りかける。「大丈夫だ、合ってる――ちゃんと……立派に、命に見えるよ

 

 業界関係者からのいつもの過大評価が続いた後で、自分が何を読んでいるのかをよく分かっていない透を依頼主の委員長が褒める。ここには含意があるだろう。すなわち、「努力している人」として努力していない透の価値を正しく測れるはずの委員長が、実は業界人たちと大差ないのではないか、という可能性である。そして「こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に」が来る。委員長が真摯な気持ちでこれを書いたことの意味は重い。大きな生態系のなかで考えると、個々の人間が何を考え、どう行動するかといった問題はあらゆる意味で全く取るに足らない小さな行為であると言い切れてしまう。中でも努力とは自分の意思で自分を再定義するために行うものだ。生命がいずれこなごなになって名前をなくし、ただ食物連鎖の一部になる運命なのだとすれば、努力して自分を高めたところで、いつか唐突に全くの無意味となって忘れ去られれてしまうことになる。だが、本来それは穏やかな滅びであると同時に祝福でもある。複雑な人間社会の営みが矮小に思えるほどのダイナミズムと、本来的な生命のシンプルさに委員長は感動したのだ。思えば、委員長は自分の努力について「しんどい」としか言っていない。つまり、実のところ委員長は努力を必ずしも肯定してはおらず、努力する自分を生命として不自然だと疑問さえ抱いていたのだ。努力しているという点で委員長を勝手に「偉い人」だとみなしていた透も、本当は委員長のことを何も分かっていなかったのである。

 

 現代的な、各人の意思によって各人の人生がつくられると考える社会では、人々が死の運命にあり、当然のように人生にかけた望みが絶たれうる事実は隠匿される。そして一般的には、思春期にある人間は発達とともに自分の可能性を拡張し、最も死と縁遠いところで自己を形成し、今後の生き方を決めるものだとされる。だから死の運命と生命の循環という自己形成そのものを無意味化しかねない概念は、特に思春期には似つかわしくなく、努力を賛美する価値観とは正反対に位置するものだ。しかし、その努力を自分の意思でやっているつもりが、どこかでそれを何者か(あるいは社会)に強いられている、何かがおかしい、本当に自分の主体性はここにあるのか?と悩む気持ちは筆者もよく理解できる気がする。努力しない人間は社会から承認されないのだ。だからこそ人間社会のあらゆる理念を無力化しかねない、社会の外部にあってあらゆる個を承認する生命の連環に、委員長は救われたのである*6。透のナレーションを聞いた委員長が「ぴったりだよ」と言うが、恐らくナレーションを委員長が透に託したのは、透の社会通念に縛られない自然体の生き方が、人間社会を超越する「湿地」のテーマと通底すると考えたからだろう。

 一方の透は戸惑いを深めてゆく。努力によって人を評価する価値観の源泉であった委員長もまた、自分と同じように生き方に迷いを抱える等身大の女子高生であると分かったからだ。だからそこで目的意識に疑いが生じ、残りの50周を走る理由も失ってしまった。前コミュで自然体としての飄々とした自己さえ失い、迷った透がたどり着いたのはWINGシナリオでPと出会った思い出のバス停であった。無色透明だった透をアイドルの道へ誘ったのはPである。だから透はもう一度、「大丈夫だ」と自分を導いてくれることを期待するのだが、Pにも答えは見えておらず「大丈夫か」と気遣うことしかできない。そこでPは、WINGの時のように社会的な役割関係を放棄し、対等な自然体でのコミュニケーションに活路を見出そうと、透を連れ出したのだろう。このあと「のぼる」というキーワードが再登場することからも、ここはWINGシナリオを下敷きにしたディレクションであるとみて間違いない。

 

 Pの言うとおりにアイドルをやることがWING以来の透にとっての「のぼる」ことだった。しかしアイドルを続ける中でいつからか自分の主体性の在りかに疑問を抱いてしまった。恐らくそれがGRADでの透の葛藤の原点だ。そして他人はもっと内発的な動機で、しかもずっと痛みを背負いながら努力しているのだと気づき、委員長から認めてもらえたことをきっかけに自分の人生に目的意識が欠けていたと自覚する。自分でも諦めかけていた努力をやってみることで、ずっと以前から抱いていた周囲に対するコンプレックスと疎外感を解消できると考えた。しかし委員長の葛藤を感じ取り、実際には努力そのものが正しいわけではないのかもしれないと気づく。そうして思い悩むうちに何も考えていなかった頃の自然体の自分を見失った。ここまでの透の葛藤の経過をまとめると以上のようになるだろうが、ここで単純化のために現時点で透自身の抱える問題を3つに大別しよう。

 ①人生全体に主体性がないこと 

 ②周囲からの疎外感があること 

 ③前2項目を意識した結果、自然体の自己を肯定できなくなったこと

 これをもとにPのかけた言葉の意味を考えたい。「頑張りたいんだな」とは一見努力のことを言っているようだが、直前に努力の価値は打ち消されているし、「何かを行って成したいのだろうが、痛みを負うことも自分を変えることもしなくてよく、それを他人に認められなくてもいい」くらいのことを指しているのだとしよう。例えば「途方もない午後」では、透は自分の良さを信じられないかもしれないが、自分を良いと言うPのことは信じてほしい、という形で一通りの決着がつけられている。だがここでは何をもって良しとするかもPを介さずに自分で決めていいと言うのである。より進んで透の主体性を促しているので、つまり①のケアを意識していることがわかる。

 そして「立派に、命に見えるよ」とは、自分を人間社会とは異質なミジンコに重ねるほど孤立感を深めてしまった透を、確かに他と同じように生きていてよい生命であると認めているのである。つまり②への回答である。ここで注意すべきは、人間社会の一員ではなく、もっと広い生命の一員だと考えている点だが、これはまた後のコミュでまた触れたい。

 さらに「大丈夫だ、合ってる」というセリフ。これはもちろんバス停で透が欲しがった言葉で、透が迷いを克服できるとPが確信したからこその発言であろう。つまり自信をつけさせて③を解消するための最後の一押しだったように思われる。

 

GRAD決勝

 透は干潟に行った時に聞いた音と、ランニング時の自分の呼吸音や、バックステージで聞く客の歓声とが似ているという。干潟に生きる豊穣な生命の鼓動を感じたことで、自分も確かにひとつの生命であり、また他の人間たちもまた同じ生命であるという感覚を、何か本能的に会得したということなのだろう。以前の透の「海」は、まるで原初の海のごとく静かであった。つまり、人間社会から疎外感を覚える透は、無意識に耳を塞いで他者との関わりを避けてきたということでもあろう。しかし生命の豊饒な営みを知った今の透の「海」には、そこにある様々な生命を丸ごと生かすだけの度量がある。

 

 序盤のコミュの「息してるだけで」は、明らかに透にとってネガティブな意味で使われていた。息をするだけなら努力は必要ないからだ。しかし、このコミュでの「いっぱい、息してきてくれ」というPの励ましでは、今度は「息」がポジティブな意味で用いられている。この「息」の意味が反転していることは思いのほか重要だ。シーズン4では透が2回「息」という言葉を使う。1回目の「してるだけだから、息」は自虐的発言だが、2回目の「いいよね、ここ――息してるだけで、命になる」では前向きな意味合いがある。どんな生命であっても生きてさえいれば、その大きな干潟の体系のなかでひとつの命として受容される。今までは生きているだけでは人間社会に受け入れてもらえないため、努力などによって認めてもらう必要があると考えていて、それができない透は孤独を深めていった。しかし干潟に行ってから透の価値観は全く変わった。人間社会も結局は干潟のような生命の織り成す連環の中にあると捉えれば、自己変革を行うまでもなく当然どこかに自分の居場所はある。そう信じられるようになったことが窺える。

 

 勝利後のコミュでは、透がいきなりこれから河原を10周すると言いだしてPを困惑させる。「頑張る」が単純に努力のことでないとすると河原100周を完走することに意味はないはずなので解釈がやや難しくなるが、シーズン4の選択肢では、残りを完走するなかでたくさん息をすればもうそれは明らかに命である、という趣旨の発言をPがしている。「わかるよ、たぶん あと10周で」とも言っているように、透たちが完走することにダンス講師も思いつかなかったような独自の意味を見出している可能性は高い。

 

ED「泥の中」

 SNS効果で増えていた仕事も落ち着いたある日、透とPは事務所で安物の顕微鏡を使ってミジンコの観察を試みている。ついにミジンコを見つけ、確かに心臓があって鼓動しているのを見た透は、静かに興奮しながらまるで子供のように呟く。「どきどきしてる すごい……めっちゃ」「どきどきする」「生きてる」場面は変わり、撮影で映像ディレクターが透を褒めて言う。「浅倉くんがカメラを向くと、カメラが息をし始めるんですよ……忘れてたみたいにね」「そういう存在がいるんです 全部のんじゃう、全部のんで輝く――捕食者が」再び場面は変わり、学校で透のクラスが発表で金賞を取ったときの回想。ハイテンションに喜ぶクラスメイトの輪の中心に透はいなかったが、委員長が「ありがとう、読んでくれて」と声をかけると透は笑顔で応えた。また事務所に戻ってきてミジンコを観察した後の透のコメントは名言揃いだ。「……いいや私 どんな形したのが私って思われても」「どきどきしたい ミジンコみたいに」「嬉しい そうやって、命のひとつになって――いつか誰かが、食べてくれたら」「そういうところにいたい 泥の中に

 

 ミジンコを観察して心臓の鼓動を確認した透は、まさにそこに生命の輝きをみたのだろう。それはミジンコに自己を投影する透自身の輝きでもある。しかしそんな生ぬるいところではこの話は終わらない。映像ディレクターいわく、透は「捕食者」なのだという。委員長が言う通りミジンコとは湿地で最初の動物、つまり他の生命を食らって生きる最も単純な生物である。巨大化したミジンコが人間を取って食う存在しないB級怪獣映画みたいな画を想像してしまうが、このコミュで描かれているのは透の「怪物性*7だ。ひとたび彼女がその魅力を解放すれば雰囲気だけで場を呑みこみ、そこにいる全員を支配してしまう。それが先天的な素質なのか後天的に獲得した能力なのか、つまりずるいかどうかはもはや透にとって些細な問題となった。凡人の理解の及ばないまさに天才、いや怪物だ。河原100周というのは、この怪物が殻を破って出てくるまでのカウントダウンに過ぎなかったのだ。

 

 最後の透のコメントはさらにすごい。「どんな形したのが私って思われても」とは、他者が自分をどう評価し理解しようがもはやそれを気にしないということで、ほとんど市川雛菜イズムに近い。自分はもしかしたら「人間」としてはとても歪んだ、理解から遠い存在なのかもしれないが、だとしても自分が生命体であることには変わりないので、人間社会の上位概念である生態系の枠組みのなかで確実に自分の存在は受容されうる、とまで透は考えているはずだ。だから彼女は、他者に束縛されることもなく、社会の中で顔と目的意識を使い分けるまでもなく、どこまでも自然体の自分のまま微笑んでいることができる。

 そして彼女が得た人生の目的意識はといえば、「どきどき」することと、命のひとつとして食べられることである。どちらもかなり尖っていてしかも独善的だ。「どきどき」とは多くの人々がしのぎを削るような鼓動の近くにあって、自らの生の実感をひしひしと感じられる状態、とでも言い換えられるだろう。

 

 食べられること。こちらはセリフのところにライブステージの背景が重なる演出があるため、現実的にはアイドルとして観客に自分を見せて、自分を通して何かを感じ取ってもらうことを言っているのだろうが、本当にただそれだけならもっと穏当な表現を選ぶはずだろう。食べられて自分自身の存在は粉々に破壊され、どこへともなく拡散されていくというある意味グロテスクなイメージがここにはある。恐らく透は、他者からの評価をどうでもいいと思っているのと同じくらい、自分自身の内面についてもどうでもいいと思っているに違いない。自己の意思や、他者からの評価が自分という人格をつくってゆくのではなく、自分がただそこに「ある」事実が横たわっているだけなのだ。それが真に自然体であるということでもある。だからその運命が来た時には自分が壊れるのは仕方のないことで、自分を食べた他の生命にバトンを繋いでいける、そんなダイナミックな営みの一部となれれば満足だというのである。

 

 もしかすると、アイドルとして自分をコンテンツ化して切り売りするうちに、自然体の自分が拡散してゆく感覚を踏まえての表現とも考えられる。委員長の「こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に」にもどきりとさせられるが、自分の人生が自分の意思を通じて主体的に回っていく実感が希薄な、これが現代の若者のリアルなのだと言われれば納得できる気もする。こうした目的はアイドル活動の中で達成を目指すことができるからこそ、透はPに頼らずアイドルをやれるだけの主体的な理由をようやくここで手にする。まさにPからのGRAD=graduation(卒業)である。一番最後にPと出会ったバス停の風景にブラウン管テレビのようなエフェクトが入る演出があるが、まさにPと出会ってアイドルを始めた頃の自分がようやく「過去」になり、「湿地」概念をインストールして自信を取り戻した新たな浅倉透としての人生が始まるということだろう。

 

 きらびやかなイメージのアイドル世界を「泥の中」と言っているのもなかなかひどい。泥といえばナレーション原稿では生命が「こなごなの命に戻る」場所を指しているが、どこまでも綺麗事で済ますつもりはないというライターの信念を感じた。透の中ではファンの歓声轟くライブ会場は、すなわち生き物の鼓動が共鳴する干潟であり、ただ泥の中で無数の名前のない生命が混ざり合い、蠢き合う場なのだ。虚飾も何もない、どこまでも平等で公平で自然な、透らしい捉え方だと思う。少し話が逸れるが、恐らく透はファンのことも公平に考えるので、できる限り全員に彼女なりに心を尽くしてファンサービスするだろう。しかしそれはミジンコやカニや鳥類に向ける眼差しと全く同質の温もりであると知ったら、ファンはどう思うだろうか、というのは少し気になる。

 

 アイドルをするということは、常に不特定多数の見知らぬ人々の群れと向き合うことでもある。多かれ少なかれその群れ、ないし社会の承認なしではアイドルはステージに上がることはできない。群れの一人一人を個として扱い、理解し合うためのコミュニケーションを行うことは実質的に不可能で、巨大に見える社会の潮流をアイドル一人で覆すのは困難だ。だからそこでそれらしい目的意識を用意してきて、社会の承認を得られやすいように自分を作り変え、適応させる。既存のアイドルの物語は、「努力することの美しさ」などと誤魔化してそのグロテスクな構造に蓋をしてきた側面はあるだろう。このシナリオも途中までそうした流れが見えつつあった。だが結末は全く違っていて、筆者の期待を裏切らないものだった*8

 

 そもそも、社会と自己との間で迷うキャラクターの葛藤を真正面から描くシナリオで、その社会の上位構造を持ち出すことで葛藤自体を矮小化させて解決するというのは、ほとんど禁じ手に近い技だと思う。だが、それでも浅倉透という人物の葛藤を解決させるのだとしたらこれしかない、という凄味のようなものを感じさせてくれるコミュだった。彼女の、どこでも所かまわず自然体で行ってきては華麗に大ボケをかましてくる飄々とした生き様、社会による分断をものともせずひとつひとつの「個」を公平に扱おうとする姿勢。そして彼女の湛えるまさに怪物めいた可能性と、それと表裏一体の今にも壊れそうな危うさ。それが浅倉透の本質であるとまでは言わないが、総括としては浅倉透らしさに真摯に向き合ったシナリオだったと思う。

 最後に透とクラスメイトとの関係について触れておきたい。恐らく透がナレーションを引き受けたのは、委員長の提案だったからというのもあるが、それを通じてクラスメイトとの相互理解を深めたいという期待はあったと思う。委員長から非協力的な印象を持たれていたことからも分かるように、透の人間関係は幼馴染の輪の中でほぼ完結していて、クラスメイトからすると嫌ってはいなくとも近寄りがたい存在ではあったと想像される。一般的に、思春期とは努力などによって自らの意思で自分を作り変えてゆく時期であることは既に述べた。高校生ともなれば、ある程度「選んで」人間関係をやるようになるだろう。だからこそ、この辺りから「選ばれない」ことの重大さが増してくる。高校生の社会がさも当然のように要求してくる目的意識を分かち合うことができず、疎外感を覚える透が(その素質のわりに)自己肯定感を持てず、幼馴染との関係に閉じこもっている理由はそのようにも説明できるだろう。

 

 クラスで金賞を取ったとき、クラスメイトは口々に「イエーイ!」と声を上げる。これはもちろん透の決め台詞の1つである「イエーイ」または「イエー」に近い。初見の時は、作中世界でも「イエーイ」が透の持ちネタとして世間中に、もしくは少なくともクラス中には既に知れ渡っていて、今回は透が一緒だからという理由でみんなが「イエーイ!」と叫んでいるのだと思ったが、よく考えるとそれなら透がもっと輪の中心でみんなと喜んだり称え合ったりしているのが自然である。実際には透のセリフは一言もなく、意を決した委員長にようやく話しかけられたという雰囲気だ。つまり発表への協力そして成功をもってしても、委員長を除いてクラスメイトとの距離はさほど縮まらなかったという描写に思える。だから「イエーイ」は意図せず偶然に重なったものなのか(これならわざわざ作劇上被せる必要がない)、あるいはもともとクラス内の流行語か何かだったのを透が聞いて、嬉しい時には「イエーイ」と発声するものなのだと思い、Pなどクラスの外との関係において使うようになったと解釈すべきかもしれない。

 

 「湿地」概念をインストールすれば、他者や社会との関係がどうなろうとも孤独感を覚えることもなく、極限までピュアな自分自身を保つことができるかもしれない。だが思い通りに自分をコントロールし、意思と選択によってできなかったことをできるようになったり、分かり合えなかった人物と心を通じ合わせたりする喜びには鈍感になるはずだ。失望もしない代わりに無常観と諦めの選択肢が人生につきまとうようになるだろう。言い換えるなら、透は10代にしては成功体験を得る前にあまりにも悟りすぎた。「イエーイ!」と伝播する共感の輪でつながれたクラスメイトの「青春」のノリを、委員長に話しかけられる前の透はどんな心持ちで眺めていたのだろう。

*1:あるいは「天塵」で本番で歌うのを放棄してスタッフに抗議したり、ライブを見ようとしない観客に「こっち見ろー」と声を上げていた頃の透とも違うかもしれない

*2:例えば

https://twitter.com/E231Touseiryu/status/1433845358690373633

*3:あまり関係ないかもしれないが社会心理学に「公平世界仮説」という用語がある 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

*4:余談だが、透は「偉いね小糸ちゃん」というが委員長と同じ理由で小糸を評価している可能性は大いにある。透→小糸の関係性についての考察の材料になれば

*5:筆者の考えでは、「健全」とされるものであっても自己鍛錬のための運動・トレーニングは全て多かれ少なかれ広義の自傷行為だと思う

*6:概ねここの問題意識と近い記事 

https://toyokeizai.net/articles/-/404722

*7:透をある種の「生き物」だと捉えるコミュとしては他に「おかえり、ギター」がある

*8:社会に屈服する浅倉透は見たくない。でもその結果がこんな化け物を生み出してしまったのかと思うと筆者にもその責任の一端がある(?)