脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

『秒速5センチメートル』―人生における喪失そして再生

※この文章は一年くらい前に「書評」のつもりで書いたものに加筆訂正したものです。

※長いので観たことあるならⅢから

新海誠秒速5センチメートル

 

Ⅰ、はじめに

 『君の名は。』で近年一躍有名となった新海誠が監督した本作は、2007年に劇場アニメーション作品として公開され、新海自身の手で後に小説化された。劇場版と小説版は相互補完の関係になっており、ストーリーは同じであるが劇場版ではっきりと言及されていなかった部分が小説版で明らかになる、あるいは劇場版であった描写が小説版では別の形で登場する、といった形になっている。本稿ではこの劇場版、小説版の両方について扱ってゆきたい。連作短編の構成をとっており、第一話「桜花抄」、第二話「コスモナウト」、第三話「秒速5センチメートル」が時系列としてはそれぞれ主人公・遠野貴樹の少年期・思春期・青年期にあたり連続的に展開される。副題に「A chain of short stories about their distance」とある通り、新海監督の得意とするところの男女の別離、いわゆる遠距離恋愛を扱った一作である。

 

 遠距離恋愛を描いた作品は決して目新しいものではない。だが、本作はひどく筆者の心を揺さぶるものであった。いくつかの映画祭で受賞を果たし、特にラストシーンの解釈は視聴者の間で大きな議論となった。何故これほどまでに本作は多くの人々の共感を喚起しえたのだろうか。全編通してみた時、貴樹と明里の幼い恋心は実を結ぶことなく終わり、貴樹は明里との思い出を引き摺ったまま破滅に至る、そんな物語にも見える。いわゆるバッド・エンドの作品として、ハッピーエンドで終わる『君の名は。』と対比的に語られることもある。しかしそれは表面的な終結の違いに過ぎない。より深くこの物語を読み解いてゆくことは、現代人の心の有様を解釈するうえでひとつの視座を与えてくれるように思われる。

 

 

Ⅱ、あらすじ

 第一話「桜花抄」は中学一年の遠野貴樹の一人称視点で語られる物語である。貴樹は両親の都合で引っ越しと転校を繰り返しており、東京の小学校でもどことなく居場所の見いだせないままに生活していた。そこに同じく転校を繰り返していた篠原明里が転校してきたことで、「似たもの同士」の二人は惹かれあう。その後二人は同じ中学に進学する予定だったが、その直前に明里の栃木への引っ越しが決まってしまう。唯一の理解者を失った貴樹は中学では孤独感を振り払うように部活へ打ち込むようになっていた。だが中学に入って半年後、突然明里から手紙が届いたことで二人は文通するようになり、貴樹は彼女のことを考えている間だけは満たされるのだった。冬になると今度は貴樹が種子島に引っ越すことになり、明里ともう会えなくなると感じた彼は、彼女に会いに行く約束をする。約束の日は大雪であった。貴樹は明里への思いを打ち明ける決心をしていたが、雪のために彼の乗る電車は大幅に遅延することになる。孤独の中を彼はかつてない不安と焦燥の中で過ごすしかなかった。彼が目的の駅に着いた時には夜11時を回っていた。どうか帰っていてほしい、とさえ願っていた貴樹だったが、明里はそこでずっと待っていてくれたのだった。二人は大いに再会を喜び、駅を出て雪の降りしきる田舎道を並んで歩いて、ついに桜の大木の下でキスをする。その瞬間「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした」と同時に「僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできない」という不安が頭をよぎる。二人は夜通し話をして満ち足りた時間を過ごして、翌朝貴樹は明里に見送られながら帰りの電車に乗る。だが、ついに彼女への思いを言葉にすることはできずじまいだった。

 

 第二話「コスモナウト」では種子島の女子高生・澄田花苗の視点から語られる。高3で進路に悩む彼女は姉から教わったサーフィンをしに毎日海へ通う生活をしていた。種子島の豊かな自然と一体となれるサーフィンは花苗にとってかけがえのないものである。また、どこか大人びていて優しい同級生・遠野貴樹に5年も片思いを続けていた。花苗は時々放課後に貴樹を待ち伏せ、偶然を装って一緒にカブで帰るのだった。しかし、時折彼の「ここじゃない」という心の叫びをどことなく感じ取ってもいた。ある日、久しぶりに波の上に立てた彼女はついに貴樹に告白する決心をする。進路の問題に結論は出ないが、貴樹が東京の大学に行くことを聞いて、目の前のことにひとつずつ向き合ってゆくしかないと吹っ切れたのである。貴樹と共に帰る放課後、花苗は意を決し彼のシャツの裾を引く。だが「どうしたの」という彼の言葉に込められた冷たさと拒絶を感じ取り、何も言えなくなってしまうのだった。黙って歩く帰り道、二人は宇宙ロケットの打ち上げを目撃する。しばしその迫力に圧倒されるが、並んでその光景を眺めても彼が見ているものと自分の見る景色とは決定的に異なっていることを彼女は悟る。

 

 第三話「秒速5センチメートル」は28歳となった貴樹が再び主人公となり、過去を回想する形で物語は紡がれる。種子島を出た貴樹は東京の大学に進学し、卒業後は三鷹の会社でシステムエンジニアとして働くことになった。職業人としての生活は孤独であり、人付き合いと呼べるものはほぼ無くなったが、プログラミングの仕事は世界の深淵に触れることのように思え、彼の真面目に取り組む姿勢は周囲の評価を高めていった。彼は取引先で水野という女性と知り合うことになり、交際を重ねる。理知的な彼女との時間は心地よいものであり、彼はいかに自分がこれまで孤独に暮らしてきたかを自覚する。あるとき彼は会社で厄介な仕事の後始末をさせられることになってしまう。無意味に思える仕事の連続に、日々心が弾力を失っていくのを辛く感じながら生きる目的を見失ってゆく。水野とは会えないまますれ違い続け、彼女から別れを切り出される。ついに彼は五年勤めた会社を辞めるのだった。雪の降る日、立ち寄ったコンビニで彼が耳にしたのは山崎まさよしの「One more time, One more chance」。その時ふと甦ったのは、忘れかけていた13歳の冬の日の記憶であった。一方そのころ、28歳の明里は結婚を間近に控えている。引っ越しの荷物を整理しながら、15年前彼に渡すはずだったラブレターを見つける。彼女もまた、あの日の幸せな思い出を静かに回想するのだった。劇場版では「One more time, One more chance」に乗せて断片的な映像として貴樹・明里の回想が描かれる。

 

Ⅲ、本作についての解説・考察

1 第一話と貴樹の少年期について

  貴樹は幼いころから転校を繰り返すなかで、すこし早熟な感性を持つようになった。自分の意図しないままに、次々入れ替わる人間関係のなかで彼は居場所を見つけられずに育ったのである。そこへやってきた似た者同士の明里の存在が彼に居場所を与えてくれた。タイトルの「秒速5センチメートル」とは、読書好きな二人が本で読んだ知識を互いに教え合う遊びのなかで、明里が貴樹に教えた「桜の花びらが落ちる速度」である。作中の表現を使えば「世界の秘密に触れる」営みであったと思われる。「世界に散らばっている様々な断片をためこんでいた。そういう知識がこれからの自分たちの人生には必要だと、なぜか真剣に考えていた。」つまり、早熟で自分たちを取り巻く現実との距離を感じている彼らのコミュニケーションは知的な、現実に即したものというよりは本の中にあるような容易に手の届かない本質的なものを目指していた。それは、教室でのマイノリティである彼らが見つけ出した自分たちだけの特別なあり方である。小学生くらいの時分、誰もがあるがままに自分を表現し生きてゆけるわけではない。自己表現が得意な人と、そうでない人との分化があるということは誰しも少なからず覚えがあるのではないか。貴樹たちは後者の側であり、ゆえに自分の身近な世界には重きを置かず、さらに遠くのものへと闇雲に手を伸ばしていたのだった。しかし同時に、それは幼いために将来への責任を感じずに済んでいる有様でもある。小説版で28歳の貴樹はこうも振り返る。「今となってはただ、かつて知っていたという事実を覚えているだけだけれど。」どんな知識も大切だと思える。だが将来に責任を負わざるを得なくなったとき、世界の全てを知ることはできないと気付くし、何等かの目的のもとに時間の使い方を選ばなければならなくなる。先にあるのは空虚であるかもしれない、その恐れと格闘し続けなければならない。ここにひとつの人生の悲哀があるともいえよう。

 

 明里という大切な存在と理不尽に離れ離れになったことは、貴樹にとって自身の無力さを思い知らされる出来事であった。そうして彼はひとつ大人になるのである。自分が馴染めない現実を「そういうものだ」と仕方なく受け入れる姿勢、ある種の諦念のもとに日々をこなすようになっている。「たくさんの友人ができたけれど、その度に明里がどれほど特別であったかを思い知らされるばかりだった。」彼は表面上では孤独というわけでもなく、中学でもサッカーを始めて忙しく暮らすのだが、それでも本質的には満たされない思いを抱えている。こうした貴樹の姿勢は彼が大人になるまでずっと続けられているように思える。ただしそれでも、彼の生活は小学校の時よりは積極的で活動的なものになっている。第一話の終結、明里に見送られて朝のホームで別れた後、貴樹は「僕は彼女を守れるだけの力が欲しい」と感じる。彼が日々の生活を「頑張る」のは、人間としての強さを手に入れて明里を理不尽から守るためである。しかもそれは「世界の秘密に触れる」ことともオーバーラップしているのだろう。だが、所詮彼らは中学生でしかない。「僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が横たわっていた。」どうあっても子供に過ぎない彼らの恋心には終着点が見いだせないのである。そこに貴樹は一抹の不安を覚えたのだ。

 

 キスの後、「永遠とか心とか(中略)分かった気がした」というのは、貴樹が自分自身の全てを承認してもらえたのだと感じたということだろう。その瞬間に初めて明里という居場所を得たことが彼の中で確定したのである。だからこそ、理知的な彼らにはもはや自分の思いをあえて言葉にする必要がなくなったと思えたのだ。

 

2、第二話について

 第二話の主人公である澄田花苗は、かなりの部分で貴樹や明里とは対照的に描かれている女性だといえるだろう。彼女は種子島の雄大な自然の中で生まれ育ち、明確な居場所を持っている。サーフィンを通じて海と触れ合うことを何よりも楽しんでいる。どちらかといえば直情的に行動する人物だといえよう。進路については大いに悩むのであるが、それは彼女が現在の自分の生活に執着しており、妥協したくないと感じているからだ。花苗と貴樹が売店で飲み物を買うシーンがあるが、貴樹がすぐにいつもと同じコーヒーを選ぶのに対し、花苗はしばらく考え込んでしまう。常に「割り切って」生き、それが人間として強いありかただとさえ思っている貴樹と、現在の生活を大事にして、片思いの相手に嫌われまいとする花苗とは根本的なすれ違いがある。また彼女が貴樹に惹かれるのは、人生の一歩先を行く姉という存在がいて悩んでばかりの自分に劣等感を覚えるからこそ、大人びた貴樹を羨ましく思ったからだろう。小説版では、花苗が東京へ出発する貴樹との別れ際に思いを伝えるシーンもある。彼女には最初から自らの拠り所があり、不器用ながらもまっすぐに自分の人生を生きることができているのである。

 

 貴樹が花苗に優しく接するのは、おそらくそのように敵を作らず誰も傷付けない振舞いをすることが人間としての「正解」であると信じているからだと読める。高校生の貴樹は既に明里との連続したつながりを失っているのだが、夢の中で彼の傍らに現れるのは彼女であった。この時に「明里を守れるようになる」という決意がどこまで彼の中に残っていたのかは分からないが、少なくとも深層心理において、そのストイックな生き方は明里へとつながるものであったのではないか。だがそうした優しさは花苗という存在そのものに直接向けられたものではない。そのことが彼女を傷付ける結果になる。

 

 宇宙ロケットを眺めるシーンでそこに二人が見ていたものとは何か。おそらく花苗ははじめ、壮大な光景を片思いの相手と並んで見られたことを喜んだはずだ。だが一方、貴樹にとって宇宙ロケットはそれ自体が技術の粋を集めた偉大なものであると同時に、宇宙空間を孤独に旅して世界の秘密を探求しようとする、ある意味で自らの理想を具現化した存在でもある。力強いロケットの姿に自分のあるべき姿を重ねたのではないか。あえて言えばその視線は間接的に遥か遠くの明里へと向けられたものであり、傍らの花苗には向けられていない。この新海監督の宇宙へのイメージは初監督作品である『ほしのこえ』でも同様のものがみられる。

 

 こうした二人の間の距離は「都市と地方」という文脈でも捉えられるかもしれない。拠り所を持たず、ある種の欺瞞と諦観のもとに日々を送る貴樹は都会的な人間といえる。そんな彼の漂わせる都市的な雰囲気に花苗は惹かれることになる。一方種子島の自然や家族との交流に拠り所を見出し、素直な生き方ができる花苗の性格はおおらかな種子島の環境が生んだものだともいえるだろう。

 

3、第三話について

 大人になった貴樹は、もはや明里との思い出を意識してはいない。ただ「偉大なものへと近づきたい、強くなりたい」という観念のみが日々繰り返す日常のなかで本来の目的を見失ったまま、彼をひたすら突き動かしている。そしてある日、「かつてあれほどまで真剣で切実だった思いが、きれいさっぱり失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。」大事に思っていたはずの水野をも失い、彼は半生を振り返って後悔の念に駆られる。小説版では、自分がこれまで出会った人々を誰一人幸せにできなかったと嘆き、彼は慟哭する。そこではじめて13歳の冬の日の思い出がよみがえるのである。

 本作のラストシーンは以下のようなものである。貴樹が仕事を辞めてから初めての春、秒速5センチメートルで桜の花弁の舞い落ちるなか、踏切を渡る貴樹は向かいから歩いてくる女性とすれ違う。踏切を渡り切った彼は不意にある予感がして、遮断機の向こうの女性を振り返る。するとその女性が振り向きかけたところで、彼の視界は小田急線の列車に阻まれる。遮断機が上がった時にはもう女性の姿はない。貴樹はそれをゆっくりと見てから、踵を返して彼女とは反対方向に歩んでゆく。もしかすると、もう少しのところで貴樹と明里は再会できたのかもしれないという含みを残す終わり方になっている。確かに彼らはお互いを求めあっていながら、結局は13歳の冬を最後に二度と再会は叶わなかった。彼らの幼い恋心の終着点としてはあまりにも残酷であり、その意味ではバッド・エンドに違いない。しかし、貴樹は仕事を辞め、人生を考え直す機会を得たことで、引き摺った過去に区切りをつけて自分だけの人生を歩みだせるのだというハッピーエンド的な解釈もできる。これはファンの間でもしばしば意見の食い違うところである。

 主題歌である山崎まさよしOne more time, One more chance」にも触れておきたい。この曲は新海監督が学生時代繰り返し聞いていたものでもあるそうだが、曲中に歌われるひたすらに切ない失恋の後悔と喪失感は本作のテーマに合致しており、ラストシーンでは直接的に感情に迫ってくる。1996年のヒットソングであるこの曲は、もちろん本作より10年前に世に出たものである。映画において過去の楽曲を主題歌として採用する例はそう多くないはずだが、これは広く知られていて、歌詞に感情移入した人も多いであろうこの曲をあえて採用することで、この物語が普遍性を得て多くの人々の共感を喚起するための選択だったのではないかと思われる。

 

4、全編を通して

 まず本作の特徴として、第一に非常に精緻な描き込みがなされた背景の美しさがある。光に満ち足りた桜舞う春の日、雪明かりに照らされた静かな冬の夜、夕陽の差す夏の海岸、薄暗いアパートの一室。それはアニメーションでありながら確かな手触りを感じさせるほどにリアリティを感じさせるものである。一方であまりにも美しすぎ、このような景色が実際に存在することを疑わせもする。小説版においては冒頭で28歳の貴樹が明里と出会った頃からの記憶を振り返る形で物語が展開するのだが、彼の半生における唯一の理解者ともいうべき明里との幸せな時間は、彼にとって美しい思い出として刻まれている。われわれは自らにとって大切な記憶をしばしば美しく彩ってしまいがちだ。つまり、本作のあまりに美しい背景は日々の生活における記憶の喪失と再構成の表現だといえるのではないか。このある種の交差する現実感と非現実感が、受け手にかつてないほどの共感を呼び起こすように機能するのだ。

 

 貴樹と明里の恋心は結局成就しないのであるが、これはすでに第一話、キスの後で貴樹の頭をよぎった「僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできない」という不安から予感される結末であるともいえる。彼が満たされない生活を送るようになった理由も、それに至る要素は彼の小学校時代に散りばめられている。つまり、本作は第一話で話の大筋がほとんど決まって、第二話・第三話ではそれが覆されることなく淡々と物語が進んでいくようにも見える。しかしそれは、あくまで貴樹と明里の遠距離恋愛についてのみ考えた場合の話だ。あえて先に私見を述べるならば、本作のもう一つのテーマは現代人の人生そのものの悲哀ではないだろうか。例えば、13歳の冬の日にピークを迎えた彼らの関係はその後ずっとすれ違いを続けたまま物語は終わるのだが、もしあの時彼らが素直に思いを言葉にして伝えられていたら、その後の関係は変わっただろうか。これは「One more time, One more chance」に「言えなかった好きという言葉を」という歌詞があるために取り上げられがちな論点なのだが、これはまず変わらなかっただろうという気がする。二人の間を隔てたのは種子島と栃木という圧倒的な物理的距離であると同時に、先に述べたように「巨大すぎる人生」であった。無力な子供でしかなく、これからの人生に責任など持てない13歳の彼らでは遠距離恋愛を続けることは不可能だった。ゆえに初恋は実らないのである。

 

 では、小説版で花苗の告白が貴樹の心に爪痕を残したように、言葉にしていればその後の展開に多少でも変化をきたすことできただろうか。だが、そもそも貴樹と明里は素直な生き方はできない側の人間だ。1で述べたカテゴリー分けが許されるのであれば、花苗はあくまでも貴樹・明里とは反対側の人間なのである。教室はある意味で残酷であり、全員があるがままに生きて行けるわけではない。われわれはそこで得た自尊心なり、羞恥心なり、素直さなり、思慮深さなりと一生向き合いながら暮らしていかなければならない。貴樹が強く生きていこうとして最後は疲れ果ててしまったように、生き方は簡単には変えられないし、変えようとしても時にそこには大きな代償を伴う。

 

 第三話で会社を辞める前の貴樹は、彼にとって唯一本当に大切だったはずの明里との記憶はいつの間にか隅へと追いやられ、彼女に近づこうとする燃えかすのような意志だけが彼を動かしている。28歳の貴樹には、もはや明里との思い出は生きていくうえで大切なものではなくなったのだ。幼いころの彼は唯一の理解者たる明里に自分を承認していてもらえさえすれば生きてゆけたのだが、大人になり将来の自分に自ら責任を持たねばならない彼には、一人で生きて独力で問題を解決する人間的な強さが当然のものとして求められている。この現代社会に生きるうえで、誰しもがライフステージごとに一定の決まった立ち居振る舞いをしなければならない。貴樹は明里と離れ離れになって以来、そうした一種の形式からおおよそ逸脱することなく過ごしてきたはずだった。だが一方で、社会に自分を順応させてゆくだけでは人間は生きられないのである。自分を構成している本質的なものを守れなければ存在意義を見失ってしまう。彼が会社を辞めたのはそうした歪みが耐え難いほどに広がってしまったからではないか。そうして貴樹と明里はそれぞれ人生の岐路にあって、ふと自分自身の成り立ちを、15年前の記憶を思い返す。しかしわれわれという存在の自己同一性を保障するはずの記憶は、とても曖昧なものだ。時間が経つにつれどんなに大事な記憶でさえも変成し失われていくことは止められない。装置にデータを保存するような完全さで記憶を留めて置くことはできないのだ。ここに自分という存在の、人生というものの儚さがあるように思われる。それゆえに冒頭の小学生の貴樹と明里が満開の桜の下を走るシーンはあれほどに美しいし、それを観るわれわれの心にも刺さるのである。失った時間は二度と取り戻せない。生きる以上こうした喪失と後悔を繰り返しながら前に進むしかないことを誰もが分かっているからこそ、どこまでもこの作品は切なく、多くの人々の胸をうつのではないか。

 

Ⅳ、まとめ

 以上でみてきたように、本作にはわれわれの共感を喚起するような仕掛けが散りばめられており、また切ないストーリーは現代に生きるわれわれだからこそ共感できるものであるといえる。例えば新海作品には首都近郊の電車が登場することが多いが、これは繰り返す日常のルーティンを象徴しているのだという。これまでの新海作品とは毛色が異なるといわれがちな『君の名は。』でも、注意深く見れば根底にあるテーマは本作と共通するものだ。都市的な生活をするようになった現代人にとって、自らの拠り所を見出すことは難しくなっているように思われる。忙殺される日々にあっても時にふと立ち止まって自分の成り立ちや過去について目を向ける時間も必要なのではないか。そこで自分の有様を相対化する視点を与えてくれるのがこの作品なのである。

 

Ⅴ、おわりに

 本作のテーマを一言でいうならば、「人生」がふさわしいだろう。本作を考えるにあたって本稿で挙げたような論点は、恐らく筆者自身の人生への問題意識に立脚したものであるに違いない。各々の人生観、これまでの経験、ライフステージ毎にこの作品が「刺さる」点は異なるはずだ。だが、筆者がひどくこの作品に惹きつけられたのは、バッド・エンドのような物語としての構造ではなく、筆者自身の「簡単に分かってもらえるはずがない、いや分かってたまるか」と思っていた人生観をこの物語と分かち合えた、という感覚があったためだろう。ありていに言えば、登場人物に大変共感を覚えてしまった。筆者も学生の身分ではあるが、これまでの人生で様々なものを失い、その喪失感が今の自分を作り上げていると思っている。筆者だけでなく、誰しもがこれまで取り返しのつかない何かを失い続けて、それでも前に進んでいかなければならない、そんな葛藤を抱えながら日々を生きているはずだ。この物語は失ったものを振り返り嘆くためにあるのではない。喪失の悲しみを抱えた我々が、過去を顧みながらこの物語と悲しみを分かち合い、再び力強く自分の人生を歩みだすためにあるはずだ。筆者にとっても、誰にとっても本作との出会いがそういった意味のものであると信じたい。