脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

リズと青い鳥 part 4/4 ラストシーンとdisjoint→joint

映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)です。最終回の今回は終盤のシーンの意味について考えます。ここに書いたのはあくまでも私自身の視点の話ですが、観終わってモヤモヤしている人のヒントになるような内容になっていればいいなと思います。

 part3 ↓ 

touseiryu.hatenablog.com

 

 

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理科室のシーンで何が描かれたか

 最後の演奏シーンでみぞれがその実力を解き放ったあと、希美とみぞれは理科室に二人きりになる。力量差を見せつけられて意気消沈する希美を励まそうと、みぞれは必死に言葉を尽くして自らの愛を告げる。だが希美は一切表情を変えずに「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」。最後はみぞれが押し切るような形で「大好きのハグ[1]」をして、「希美の全てが好き」と言うみぞれに対して希美が言ったのは「みぞれのオーボエが好き」だった。

 これ以上ない最大限の言葉で希美を引き留めようとするみぞれ。対して劣等感も手伝い「みぞれのオーボエ」の部分だけしか受け入れられない希美。このシーンは最後の山場、クライマックスと言うべき重要な位置付けのシーンだが、実はあまり新しい発見が見当たらないシーンである。二人の人格とお互いに対する思いについて筆者の考えはこれまで述べてきた通りだが、それを推測するための材料は概ねこれより前のシーンで出揃っているといっていい。みぞれの愛情の告白というべき情熱的な言葉を受けても希美が特に驚きもしなかったように、彼女たちの間でもある程度察しがついていた結果だったのではないか。

 だが、それはこのやり取りが無意味だったということではない。これより前までは、二人のお互いの気持ちは中学以来の長いつきあいのなかで「察する」ことができたのみで、確実にこうだとする保証はなかった。しかし、このシーンで遂にみぞれが希美への思いをそのままに伝える勇気を手にし、希美が完全な形でそれを受け入れることを拒む勇気を手にしたことで、お互いの思いは言葉になってはっきりと伝わってしまった。不確定だった二人の間にある溝は、今後揺るぎない事実として横たわることになったのである。これをある種の別れだとするなら、童話で描かれたリズと青い鳥のような別れが彼女たちの元にも訪れることになったといえる。

 

お互いが欲しかった言葉は

 理科室のシーンの希美はみぞれに対する劣等感から自虐的な言葉ばかり選んでしまっている。そこにいつもの快活な姿はない。少なくともこのシーンでの彼女は自分の吹奏楽についての能力や努力についてみぞれに承認してもらいたかったはずだ。しかしみぞれが認めたのは希美という存在そのものだった。みぞれの愛情は無条件のものであり、フルートの技量や日々の鍛錬についてはもとより何の問題にもしていない。故にみぞれの言葉は希美を承認するものであっても希美のフルートの価値を証明し得るものではなかった。そういった意味では、「希美のフルートが好き」がこの場面の希美が最も欲しい言葉だったと言えるだろうか。ただしそれもほんの気休めに過ぎず、希美が能力主義に立つ限り根本的には言葉で問題が解決されることはない。

 一方のみぞれの不器用だがストレートな愛情表現は、自分から希美が離れてゆくことを恐れて彼女を繋ぎ止めるための言葉だった。みぞれの望みはただ希美がこれからも自分の側に居続けることであり、その確証が得られさえすればよかったのだろう。「みぞれの全部」でなくても、「好き」が期限付きのものでさえなければよかった。そう考えると希美の「みぞれのオーボエが好き」は残酷な言葉だ。希美が認めるのがみぞれのオーボエ、即ち吹奏楽に関する部分だけなのだとしたら、吹奏楽による結びつきは間もなく最後のコンクールと卒業という終わりが見えているため、その先の関係の保障は無いことを意味しているからである。

 「大好きのハグ」で好きなところを言い合った後で突然希美が笑いだすところが実に彼女たちらしい。希美がここで笑い、みぞれがそれを受けいれたことで、二人の関係は一応この場では取り繕われた。体面上はハッピーエンドが保たれた。一見みぞれの言葉で希美がいつもの明るさを取り戻したようではあるが、しかしはじめて本音をさらけ出したことで、この時二人は埋めようのない溝をお互いに自覚していたはずだ。実際には二人の間にある問題は改めて表面化しただけで何も解決に向かっていないにもかかわらず、それを再び曖昧さのなかに閉じ込めてしまう。もはや根本的に問題と向き合うことを二人は諦め、二人で過ごせる(過ごさざるを得ない)残りの時間をできるだけ楽しい思い出にする道を二人は選択した。それがこの瞬間だったように思われる。

 

disjoint→joint二人が失うものの儚さ

 本作には冒頭に「disjoint」の文字のカットインが挿入され、エンディングに入る前のカットインで「disjoint」の「dis」の上に横線が引かれ「joint」の文字が残るという演出がある。これについては筆者もネットで様々な人の感想・考察を目にしたが、disjointとは数学用語の「互いに素」を意味し、すれ違いを続ける二人の姿を象徴するものだという。本作では数字に特別な意味を込めたというのは山田監督も語っていることであり、この解釈に異論はない。しかし、最後にそれが「joint」へ変わることについて納得のいく説明がなされているものは見当たらなかったので、これについて筆者の考えを述べたい。

 「joint」…単語としては「継ぎ目」あるいは「接続すること」といった意味があるが、いずれにせよ「別れ」というよりは「繋がり」を想起させる言葉だ。ここにイメージ上の矛盾がある。本作中で二人は何らかの形での別れを迎え、関係が書き換わっているように思える。

 ただし、この映画に描かれているのは二人の一生の中から切り取ったほんの一部分であることに注意しなければならない。少なくとも吹奏楽部の活動が続く限り希美とみぞれは本当の意味で別れることはないのだから。本来ならば大きな節目となる最後のコンクール本番の顛末まで描かれていてもおかしくないはずだが、本作ではここで区切りとされている。ではここで描かれている希美とみぞれの「別れ」とは何かと考えてみると、正確には少女めいた関係性が終わり、大人びた関係性にシフトしていくことを示しているのではないかと考えると納得できるように思える。

 ここでいう少女めいた関係性とはすなわち憧れ、嫉妬、思慕などを伴う固有でアンバランスなものであり、以前までの二人の関係がそれにあたる。対して大人びた関係性とはバランスはとれているが時に平板でドライな、ある種の類型化された関係性である。二人は作中のすれ違いを経て、お互いについて過剰に期待し依存することを諦めてゆくだろう。みぞれは希美以外に剣崎後輩とも仲良くなれたことをきっかけに交友関係を広め、徐々に希美の存在は「友達の一人」に近づいてゆくかもしれないし、希美は吹奏楽以外にも没頭できる何かを見つけ、みぞれのオーボエに劣等感を覚えることもなくなるのかもしれない。

 つまり「disjoint」→「joint」は、互いに素でバランスの悪い少女めいた関係性が終わり、調和がとれていてより低いハードルで「繋がる」ことができる大人びた関係性へと再構築されてゆくことの比喩表現ではないかと思う。

 

少女性の終焉

 だが、そうして関係が造り替えられてゆくことで、かつての二人が抱いていた少女的感覚は確実に失われてしまうだろう。もしかするとそれはとても残酷なことなのかもしれない。本作は希美とみぞれが登校するシーンから始まり、そこから視点が一切学校を出ることなく、二人が下校するシーンで終わる。あがた祭りやプールに行ったことすら話に出るだけで一場面としては描かず、徹底して学校のみでの彼女たちの様子を描いている。

 山田監督のインタビュー記事に頻繁に登場する言葉として「少女性[2]」がある。例えばTV版から大幅にキャラクターデザインを変更したのもこの少女性の美しさを引き立たせるためだったという。大人と子供の間で揺れる思春期の彼女たち特有の、脆さと強さを併せ持った有様とその葛藤、大人になりきる前の一瞬の輝きをそのまま映し出そうとする姿勢がこの作品の根底にあるといえるだろう。

 希美とみぞれに関していえば、彼女たちの関係は果たして学校ないし吹奏楽部という鳥籠[3]を出たところに成り立つものだっただろうか。学校で日常的に顔を合わせるからこそかろうじて続いてきた関係性だったようにも思える。高3の彼女たちが学校を出れば、確実にその関係は大きく変わるだろう。だからこそ、彼女たちが学校で過ごす時間はかくも美しく、そして切なく儚げに我々の目に映るのである。

 

ラストシーンの不確実性

 ラストシーンでは夕焼け空のなか、オープニングとは逆に希美がみぞれがやって来るのを校門で待っている。希美とみぞれの関係は間違いなく変わった。噛み合わないまま会話を続ける彼女たちからはお互いについての諦めの姿勢が感じられる。恐らくこの時点での彼女たちは「少女」としてのお互いの別れを受け入れはじめている。終わってゆく関係をすっきりと締め括ろうとするからこそ、この場面の夕焼けは滅びを待つ前の美しさを放つ。奇跡的に二人の声が重なる「本番、がんばろう」は、まさに二人のそうした気持ちが表れた言葉だといえるだろう。

 だが、それでもまだ二人にはいくばくの高校生活とその先の長い人生が残されている。少女としての関係は終わるのかもしれないが、別の形で二人の関係は続いてゆくのかもしれない。希美とみぞれ、これから不確実な未来が待ち受ける二人にとってこの刹那的な心の重なりが、あらゆる可能性を信じられそうなこの一瞬が、たとえ幻想だとしてもどれほど心地よいものだっただろうか。失われゆくものを惜しみつつも、彼女たちに時間が残される限り別の可能性が残されているということ、それがこのシーンの意味であるように思える。

 

 

[1] 作中に登場する、ハグをしてお互いの好きなところを言い合う遊び。比喩表現ではない

[2] 念のため言及しておくと、これは「少年性」と言い換えても同じことだろう。脚本の吉田玲子のインタビュー中の発言として「このお話って感情の根源を描いているような作品なので、例えばみぞれと希美が男の子で(中略)も成立するだろう」がある。(パンフレットp.7)

[3] 吉田「鳥かごのような作品にしたいという共通の認識があったと思います」(パンフレットp.5)