脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

新海誠『君の名は。』感想・考察―現代人の孤独に寄り添う物語

 ※この文章ではネタバレについての配慮はしていません。ご了承ください

 

 

プロローグ:『君の名は。』初鑑賞の記

 新海誠監督の新作『君の名は。』は予告の段階から何かが違う作品だった。私が初めて本作を映画館に見に行ったのは公開からしばらく経った頃である。NHKのニュースで、二十代半ばくらいのいかにも遊んでそうな男がインタビューで「三回観た」と話しているのを見て衝撃だった。お前に新海作品の世界観が理解(わか)るのか?・・・若干不安を覚えつつも*1、ともかく新海ファンを自認する私としては当然観に行かなければならない。黒髪の乙女と連れ立って観られれば何も言うことはないが、スクリーンを前にして傍らに座ったのはいつもの信頼できるオタクであるチラホラとカップルの姿も見受けられたが、支障はない。支障は。ない・・・

 映画が始まり、何度か笑い、何度か息を呑む間に隣のオタクのことは最早気にならなくなった。「なんでもないや」が鳴り響くエンドロールの中、私は心地よい感覚に映画館の座席に深々と身をうずめながら「本当に大事なものはここにあった…」と一人呟いていた。数時間後には冷たくなって死体として発見された。その後オタクとお好み焼きを食べて体力を回復した私は、ひとしきり感想やら考察やらを一方的に聞かせてオタクを閉口させたのであった。夜風に吹かれながら満足気に私は思うのだった、「こいつと来て良かった」 ここからはそういう話をしていこうと思います(?)。

 

はじめに

 昨年夏に公開され日本国内における興行収入歴代4位の金字塔を打ち立てた本作は、公開後間もなくして多くのメディアで社会現象として取り上げられ、一度ならず何度も劇場へ通う人が続出した。「泣いた」「感動した」と称賛する声もあれば、「騒ぐほどでもない」「売れそうな要素の詰め合わせ」と批判的なコメントも多く見られた。いずれにせよ、本作についてなされた言及の多さはこの物語がいかに現代人の心を揺さぶるものであったかを示すものだといえるだろう。本稿では、作品の根底にあって明文化されていない文脈を解き明かすことを試みながら、なぜこれほど本作が多くの人々の共感を得たのかを考えてゆきたい。ネットで検索すれば本作についての感想・考察・解説の類はいくらでも出てくるし、今更語るべきものは無いようにも感じるのだが、筆者なりの問題意識と興味関心に基づいて話を進めていこうと思う。なお、作中最大の謎である主人公二人の「入れ替わり」のギミックであるとか彗星落下とタイムパラドクスについては、ストーリーとしての整合性や科学的な正確性に欠けるのではないかという指摘をされることもしばしばだが、筆者としてはそれらが大変些末なことに思えるのでここでは全く考える気にならない舞台装置の出来に執心して物語の読解に集中できないのは愚の骨頂であり、より重要なのはそれらが表象するものであるはずだからだ。

 

「距離」―新海作品の中の位置付け

 もちろん本作はいわゆる「遠距離恋愛」のお話だが、これは新海監督の十八番であるといえる。過去の作品では離れ離れになる男女の悲哀を鮮やかに描いて見せてきた。ゆえに新海の作家性を語るとき、「距離」という言葉が頻繁に使われてきた。作品ごとに「距離」は異なる意味合いを持ち、『ほしのこえ』では時間の「距離」が、『言の葉の庭』ではライフステージの「距離」が描かれてきた。なおかつ作中で二人が結ばれるという展開がまず無く、分かり易いハッピーエンドにはならないことが新海作品の大きな特徴といえる。切なさと寂寥感を湛えたストーリーは多くの人の共感を呼び、ある一定層にカルト的な支持を受けてきた一方、いまひとつ一般性を獲得するには至ってこなかったというのが『君の名は。』以前の新海への評価だったといえるだろう。そんな中で『君の名は。』は確かに過去の新海作品とはやや毛色の異なる作品だともいえよう。ラストシーンで主人公二人が再会して終わる明確なハッピーエンドの本作は、公開直後に既存の一部新海ファンからは「真の新海作品ではない」などという批判が上がったこともあり、現在でも割合そういった評価が散見されるのは確かだ。一種悲観的な「恋愛」観がこれまでの新海作品にはあったといえるが、肯定的なメッセージで終わる本作は果たして本当に新海らしからぬ作品だろうか。

 

瀧と三葉のキャラクターについて

これまでの新海作品の主人公といえば、例えば『秒速5センチメートル』の遠野貴樹のような、クールで理知的、感情表現が下手なタイプがほとんどであり、一人称視点で心の葛藤が描かれるのが常であった。一方本作の主人公の一人、東京の男子高校生・瀧くんはかなりガサツな男だと言わざるを得ない。ケンカっ早く、はじめから三葉に対して「お前」呼ばわり、「入れ替わり」が起こるやたちまち胸を揉んで「これってなんというか…女の体ってすげえな…」と感想を漏らす(小説版)、等身大の男子高校生である。これは過去の新海作品の大人びた主人公像とは大きく異なるキャラクターだといえよう。またもう一人の主人公・三葉も家族関係に複雑な事情を抱えてはいるが、自分の住む町に嫌気がさして「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶ、どちらかといえば素直な性格のこれまた等身大の女子高生であるといえる。そして恐らく、気難しい過去作の主人公たちよりは、瀧・三葉のほうが誰にとっても共感し易い主人公なのではないかと思う。物語終盤、「カタワレ時」のシーンの会話を見てほしい。奇跡によってはじめて面と向かい合った彼らのやりとりにロマンチックな台詞も直接的な愛情表現もなかったが、不器用ながらも出会えた喜びを隠しきれないような、いかにも初恋らしい微笑ましいシーンに仕上がっている。

 

物語を動かす二人の「素直さ」

 例えば先に述べた、『君の名は。』以前の代表作と呼ぶべき『秒速5センチメートル』のラストシーンとは、道を歩いていた主人公の貴樹が、向こうからやって来るヒロインらしき女性と踏切ですれ違うというものである。彼は予感がして振り向くものの、彼女の姿は踏切に入ってくる電車に遮られてしまう。彼では探し求めるものを自らの手に繋ぎ止めることはできなかったのだ。一方本作のラストシーンでは、ついにお互いを発見した彼らが一旦ぎこちなく通り過ぎようとするものの、瀧が意を決して振り返り、三葉に声をかけたことから二人が再会を果たすという感動的な結末になっている。このことが既存の新海ファンには大きな衝撃をもって受け止められた。二作品の全く対照的な終結の違いをもたらしたのは何だろうか。それは、主人公のキャラクターの違いであるというべきだろう。新海は「監督が瀧の立場なら、みんなを救うことができると思うか」という質問に対して「旅館あたりで『全部、俺の妄想…』で納得しちゃったんじゃないかと思います(笑)」と答えている。瀧が少年漫画の主人公のような素直さと熱意を持っているからこそ、おぼろげな記憶を信じ、彼女を探しに岐阜へ旅に出るような行動をとれたのだ。また最後に三葉が消えゆく瀧との記憶を信じて父親のもとへと走り続けられたのも、彼女の素直さゆえのものであろう。これは二人の一直線なひたむきさこそが時空を超えた奇跡を呼び寄せた、そんな情熱的なストーリーなのだと言うこともできる。この二人だからこそ、ラストシーンの階段で瀧は声をかけることができるのである。この二人だからこそ、明確なハッピーエンドを迎えることが必然のものだと納得できるのである。さて、皆さんは彼らのあり方に心から共感できるだろうか。それとも彼らのあり方は眩しすぎると感じるだろうか。ぶっちゃけ筆者は後者の側かなあと思うのだが(?)、本作をありがちな青春物語と断じ、新海誠は死んだと罵るのはもう少し待ってほしい。

 

貫徹されている「喪失感」「孤独感」

 本作は大まかに①ギャグ中心・二人の「入れ替わり」の話②二人が彗星から町を救う話③エピローグ の三部に分けられる。ここで筆者が特に考えたいのは、10分足らずのエピローグと冒頭の数秒間の、大人になった二人が登場するシーンで何が語られたのかということである。就職活動中の瀧は、正体不明の喪失感のなかで日々を過ごしている。かつてあれほど切実だった三葉への思いはその記憶とともに失われてしまったのだ。「よく覚えていない昔の出来事より、俺が考えるべきは来年の就職だ。」(小説版)そう取り繕ったところで、何か大事なことを忘れている、大切なものを失っているという不満は拭い切れない。筆者はこのあたりの瀧が独りで電車に乗っているシーンや、寝起きに過ぎ去った夢を惜しんでいるようなシーンにひどく共感を覚えてしまう。そこにあるのは簡単に言えば「喪失感」「孤独感」などではないかと思う。決して瀧と三葉のような「運命の人」でなくともよい。我々はこれまでの人生で多くの大切なものを失ってきてはいないか。そして大人になるにつれて、生活のなかで失ったこととすら忘れているのではないか。さらにはその喪失感を孤独に抱えたまま生きていく必要に動かされているのではないか。筆者は現代において新海のアニメーションが多くの人に「刺さる」のは、こうした現代人の悲しみに満ちた喪失と孤独にゆるやかに寄り添う姿勢が貫かれているためだと思っている。そして新海のその姿勢は、本作でも踏襲されていると考えるのである。

 

「距離」―都市と地方

さて、新海作品をつなぐキーワードは「距離」であると先に述べた。では本作における「距離」とは何だろうか。筆者の考えでは、これは紛れもなく「都市と地方」の距離である。三葉は神社の娘として生まれ、生まれつき巫女としての将来を背負わされた女性である。しかし彼女はその人生を窮屈に感じるからこそ、「東京のイケメン男子」に憧れを抱く。三葉が瀧と初めて入れ替わって新宿の街を歩くシーンを見てほしい。筆者も何度も東京に行っているが、彼女の目に映るキラキラとした街の風景は外の人間が都市に抱く憧れそのものだ。田舎にないものが都会にはあふれている。都市と地方の生活様式の差、文脈、住む人々の思いなどが「入れ替わり」のシーンに大いに対比されている。ただし新海は、瀧の住む東京と三葉の住む糸守町の風景を意識的に同じくらい美しく描いた、それは二つの異なる生活の優劣をつけたくなかったからであると語っている。例えば両者の朝のシーンを振り返ると、三葉には必ず妹の四葉が起こしにやって来る。一方瀧は寝坊をしても父親は起こしに来てはくれない。ここに田舎らしいウェットな人間関係と都会らしいドライなそれの対比を見ることができる。また主人公二人が高校生の時には、東京の街のほうが魅力的に描かれることが多いが、二人が大人になり東京での生活をしているシーンになるとそこに寂しげなイメージが加わってくる。地方と都市いずれかを貶めたり持ち上げたりするのではなく、新海の視線は現代を生きる我々のリアルな生活とそこにある差異に向けられているのだ。主人公たちがお互いのどこに、いつ惹かれたのかというのははっきりとは描かれていないし特に決めつける必要を感じないが、強いて言えばこの都市と地方との対照的な精神性に、互いの持っていない部分に惹かれていったものだと思う。

 

近現代史に寄せて

 農村から都市に人口が移動する。人々は生まれた土地から切り離される。物質的に豊かになる一方、人々のアイデンティティは曖昧になる。自分の将来を選ぶ自由が与えられた反面、どのようなあり方を選び取るかで大いに悩むことになる。都市では人々はどこか孤独で、地方では人が居なくなり、都市では人口集中で問題が起こり、地方では共同体とともに文化が失われてゆく。それは日本に限らず、近代化と都市化によって起こった様々な社会構造の変化の一端だといえよう。*2巫女として生きる将来に疑問を覚える三葉、土建屋を継がせようとする父親に反感を抱きながらも「一生ここで生きていくと思う」と強がる勅使河原。エピローグで三葉の友人である勅使河原とサヤカが登場することはご存知だろうが、他にも三葉をからかっていたクラスメートや高校生となった四葉が出てくるカットがあることもお気付きだろうか。主人公二人の奮闘で糸守町の人々は救われたが、町自体は消え去ってしまった。町の人々は土地の文脈から切り離され、三葉たちは自由になった。だが町を出て行けば悩まずに済むかといえば、瀧が就活で苦しんだように、都市生活者には都市生活者なりの将来への葛藤がある。三葉たちにとっての巫女舞組紐は、彼らが自分自身を規定するための要素でもある。ローカルな共同体の人間関係も、生まれつき彼らに居場所を与えてくれるものだともいえる。その点で瀧の生活は、岐阜旅行についてきてくれる司のような友人はいるものの、三葉に比べれば自らが依拠するものは希薄だったといえる。封建制から自由主義社会への移行が、絶対的に人々を幸せにしたとは言い難い面がある。そのような視点で本作を見ると、ますます各場面に込められたリアリティを感じとることができる。

 

都市に寄せて

 本作中で好きな場面はいくつも挙げられるが、筆者が特に気に入っているのは三葉が中学生だった瀧を駅のホームで見つけるシーンと、ラストの階段で二人がお互いを発見するシーンである。三葉は混み合った車内で瀧に近づくも、すぐに話しかけることはできない。一駅分の沈黙が続いて、彼女が失望して無言で電車を降りようとしたところで初めて組紐を手渡す重要な1シーンになる。あるいは、大人の二人が必死になってお互いを探そうとし、階段の上下で向かい合うも、しばらく伏し目がちに歩いたまま一度は通り過ぎてしまう。この一種奇妙なもどかしさがとてもリアルだと感じられるのだ。都市において電車のような公の空間では、個を殺し他人に干渉しないような振舞いが当然のものとして求められる。そうした流儀に反発してもおかしくない、開放的なキャラクター付けがされているこの二人でさえそれを受け入れている。物語を動かすファンタジーとしての強さを持っていたはずの二人でさえも、仕事や就活や日常のルーティンに呑まれて都市を生きる「普通の人間」になってしまうこういったところに寄る辺のない都市生活者の孤独が象徴的に描かれているとも思うし、リアルを追求する新海の手腕と誠実さが現れているとも思うのである。

 

地方に寄せて

 作中で「組紐」が象徴しているのは、瀧と三葉の間の不思議な縁であるとともに、過去から連綿と受け継がれてきた伝統ないし文化といったものである。三葉の宮水家の人々は代々「入れ替わり」を体験してきており、口嚙み酒を供えた洞窟に彗星の壁画があったことから推測すると、「入れ替わり」とは巫女となる女性が未来を予見することで、過去にも彗星が落ちている糸守を災害から守るためのシステムである。三葉の父親がおぼろげながらもそのことを認識していたとするなら、作中で語られなかった「なぜ最後に三葉は父親を説得できたのか」という当然の疑問に対するある程度の回答はできる*3津波とかならともかく隕石ってそういうもんじゃなくね、というツッコミはとりあえず捨て置こう。冒頭でも述べた通りそれらは些末なことである。しかし、設定資料を見ればわかるが、実は三葉の持つ組紐は隕石による災害を予兆するデザインになっているし、三葉たちが踊った巫女舞もそれを意識した振付になっている。だが三葉たち宮水家の人々はその意味を認識していなかった。そうなった原因と考えられるのが作中何度か名前が出た「繭五郎の大火」だ。史料が焼けてしまったことで、伝統は一部不完全な形で伝えられることになってしまったのである。ここで思い出されるのが、他でも指摘されているとおり東日本大震災津波災害だ。過去の大津波の教訓は活用されないままに多くの人命が失われた。しかし、これは決して特殊な事象ではなく、何百年と継承されてきた伝統が失われてしまうことは恐らく日本中いたるところで起こっている現象ではないだろうか。農村から都市へ人口が大きく移動することで、地方では過疎の問題が生じてくる。人が減って共同体が維持できなくなり、担い手が消滅すれば、地域が継承してきた伝統・文化は永遠に失われることになる。町の人々の命は救われたが、宮水神社は消えてしまい三葉の一家が東京へ移ってしまった後、巫女舞組紐の文化はどうなったのだろうか。都市と地方の不均衡が現実に引き起こす問題がここには描かれているのである。

 

感情を揺さぶるもの:背景

 新海作品の大きな特徴として、非常に緻密な背景美術の美しさが挙げられる。夜空に彗星が流れる壮大な光景、神社の鳥居にかかる夏の夕陽、ネオンを反射する雨に濡れた街路、それらは実物と見紛うほどのリアリティをもって眼前に迫って来る。現代アニメーションにおける背景美術のひとつの到達点とさえいってよいだろう。そうして美しく描かれた背景が作品世界そのものの美しさ・価値となり、観客を物語へ没入せしめるのに一役買っていることには違いない。ただ、筆者は本作に関してはもう一つの意味を考えることができると思っている。本作で描かれた風景はリアリティを感じさせる一方で、同じ光景を普通に写真で撮ってもこれほど美しいものにはならないような気がするのだ。つまり、ある意味で映像が現実を越えてしまっているようにも感じる。筆者には、これが夢の中の光景あるいは理想化された過去の記憶を意味しているように思えてならないなぜなら、一つはエピローグの前までのストーリーが、冒頭に出てくる大人の瀧と三葉による回想であるという解釈が可能であるためである。もう一つは、本作には「記憶」「夢」といった概念が多く登場し、主人公たちにとって大切であったはずの互いについての思い出が変質し失われることへの悲しみ、切なさこそ新海の表現したいものだと考えるためだ。我々の記憶というのは本質的に自分自身を形作るもののはずだが、時間が経つにつれ記憶は消失し、時に都合のいいように改変される。ここに人生というもののひとつの悲哀があるようにも思われる。我々がこの美しすぎる背景を目にするとき、それは主人公たちにとっての惜しむべき原風景であると同時に、我々自身にとっての在りし日の美しい思い出がオーバーラップする。よく新海作品の背景について「死にたくなる」とかいった感想を目にするが、それは忘れかけていた記憶が無意識下で喪失感をひきおこし、感情の深いレベルで世界観へ共感してしまう、そんな状態なのではないだろうか。

 

君の名は。』は恋愛賛美映画か?

 もちろん本作はボーイ・ミーツ・ガール、主人公二人によるラブストーリーであることは間違いない。だがここで語られているものは、世間一般で言うところの「恋愛」とはややずれている、言ってしまえばカップルで観に行く映画では必ずしもなかったのではないかと筆者は考えている。ここは筆者には活かすべき経験が不足している部分なので雑な議論になるかもしれない*4。皆さんは奥寺先輩の物語上の役割をいかにお考えだろうか。垢ぬけた美人の奥寺は年相応に素朴な三葉とはかなりの部分で対照的に描かれたキャラクターだといえる。奥寺もまた、瀧と入れ替わった三葉の素朴な優しさに好感を持つようになる。旅館で瀧と奥寺が会話するシーンというのは、瀧にとって三葉を選ぶか奥寺を選ぶかという分岐点となっていたとも思える。しかし結局瀧は三葉の方を選び、エピローグでは奥寺は結婚していて、瀧に「君も、いつかちゃんと、幸せになりなさい」と言い残して去ってゆく。ありがちなラブコメ的解釈をすれば、奥寺は「負けヒロイン」だということになる。しかし、奥寺が「負け」たのには含意があるように思えるのだ。オープニングなど本作の随所に登場する「半月」について、新海は瀧にとっての三葉、三葉にとっての瀧というお互いにとっての半身が欠けているさまを表現したイメージであると語っている。つまり、二人の関係は単なる恋愛感情による結びつきではなく、「半身」「運命の人」とでもいうべき分かち難く宿命的な関係だと考えるべきである。従って、どうあっても奥寺が「勝つ」ことは起こりえなかったのだ。一方、ここで恋愛映画のつもりで劇場に『君の名は。』を観に来たカップルを想像してもらいたい。彼らの関係は瀧―三葉のような宿命的な関係だろうか。それともバイトの先輩後輩という瀧―奥寺のような意味ありふれた関係だろうか。何の根拠もない憶測だが、皆さんの多くは後者を思い浮かべるものと信じている。世間一般で言われる恋愛とは、きわめてドライな言い方をすれば性欲や何らかの目的に基づいて、偶発的に営まれる関係といったほうが近いのではないか。だから、本作はありふれた意味での恋愛が敗北する物語だ、という解釈が場合によっては可能だと考えるわけである。公開直後、作家の石田衣良が「新海は幸せな恋愛の経験が無いのではないか」とコメントし物議を醸したが、筆者にはこれは全く「わかってる」指摘に思えるのだ*5

 

現代人に向けられたメッセージ

 ただし、奥寺は一人の自立したキャラクターとして描かれており、「幸せになりなさい」という言葉は自分なりの観客に対するメッセージであると新海は述べている。奥寺の物語上の役割が単に三葉の当て馬という理解でよいかといえばそれは明らかに誤りだ。筆者は新海が前向きなメッセージを代弁させたのが奥寺だったという点に意味があると思っている。瀧―三葉の関係は非常に特殊で、だからこそ強固な結びつきだと言えるのだが、もちろんそんなベスト・パートナーの関係を誰もが取り結べるわけではない。*6ベストという確証が持てなくとも、ベターな選択をしようと努める。満足とまではいえなくともより良い生活を求め続ける。一見自由な現代人の日々の営みとは、何かを失った悲しみや、他に最良の生き方・在り方があったのではないかという葛藤を抱えながらも、目の前の出来事をひとつずつこなしてゆくものではないだろうか。彼女が瀧に「幸せになりなさい」と言ったのは、自らの選択が最良のものではないのではないかと不安になったり、失ったものを悔いたりしてその先の人生を諦めてしまうのではなく、よりよい人生を追い求め続けることが幸せにつながるのだというメッセージである。だが瀧は「俺は別に、ふしあわせじゃない。(中略)でも、しあわせがなにかも、まだよく分からない」(小説版)と感じる。「もう少しだけ――、と俺はまた思う。」彼はそれでも、妥協することをよしとしなかった。結果として奇跡のような三葉との再会に至るのである。よりよく生きることは、必ずしも妥協を意味するわけではない。最も大切だった記憶さえ失われてしまうこの世界は残酷には違いない。だが失ってきたもの、自分にとって本質的なものにも目を向け、前進してゆくための糧とすればよい。筆者はエピローグに込められたメッセージを以上のように解釈している。

 

おわりに

 以上みてきたように、本作には現代人ならではの感覚や問題意識が鋭く表現されており、共感を得るための仕掛けが散りばめられている。他にも劇中の節目ごとに効果的に使われているRADWIMPSの楽曲は大いに観客の心を揺さぶるほか、キャッチーな歌詞で世界観を補強するように機能している。新海もむしろこの楽曲によって作品世界が広がっていったこと、作中で大きな役割を果たしたことを語っている。だがこの魅力について言葉で説明するのは難しく思えたので本稿では取り上げなかった。*7もし観ていない方がおられるようならぜひこの魅力を肌で感じてもらいたい。この物語と出会い、そこに込められた意味を読み解く経験が誰にとっても次の一歩を踏み出す力となってほしいと思うし、十分その価値がある作品であると信じたい。

 

 

 

 前に書いたの

touseiryu.hatenablog.com

*1:ベタな青春映画などは新海に求めていないので

*2:参考文献として:佐伯啓志『20世紀とは何だったのか―現代文明論下「西欧近代」の帰結』(2004、PHP研究所)。

*3:詳しくは小説の『君の名は。Another side: Earthbound』を参照されたし

*4:事例研究が不足しているのでどなたかご教授願いたい、できれば理知的な黒髪の乙女がいい

*5:筆者が新海監督を大変”信頼”している理由はこういうところにもある。

*6:奥寺が妥協的な結婚をした、とまでは言わない

*7:「入れ替わってる!?」を二人で被せてから「前前前世」のイントロにつながるところが最高にカッコよくて好き