脱成長の電脳1

長文を放流する電脳の墓場 アニメの感想とか 

リズと青い鳥 part 3/4 傘木希美という女

映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)です。今回はpart3で希美の内面について書いています。

 part2 ↓ 特に併せて読んでもらいたいですね。

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希美の内面について

 「物語はハッピーエンドがいいよ[1]」そう言った希美は、自分の人生という物語をどこまで真剣に見つめていたのだろう。卒業という終わりが見えてくるなかで、茫漠たる将来への不安を根拠のない明るい予感でもって必死に呑みこもうとしていたからこその言葉だったように思える。一応は音大を目指すと宣言してみたはいいものの、みぞれとの差を見せつけられた希美はあっさりとその目標を手放してしまう。彼女の吹奏楽に対する真摯さは本物だとしても、そのゴールとして音大を設定する必要は必ずしもなかったはずだ。希美を音大志望に駆り立てたものは何か、そしてなぜそれを彼女は簡単に諦めるのか。改めて考えてみたい。

 山田監督は希美というキャラクターについてインタビュー[2]で以下のように語っている。「たとえばフルートの希美は、口のはじを上げて目をほそめることで相手には笑っていると認識される。というようなことを考えている子なのですが、裏を返せば「わらう」ことをして、相手と自分の間にある距離を取り繕っているわけで。」みぞれとは対照的に、希美が会話するシーンというのはかなり多い。みぞれや優子、夏紀以外にもフルートパートの後輩などほぼ常に人に囲まれている。人前で実に陽気に快活に振る舞ってみせる人気者の希美。しかし山田監督いわく、彼女の見せる笑顔はあくまでも他人との関係を取り繕うためのもので、本当に笑っているわけではないのだという。

 劇中では希美の笑い方について一切言及されていないわけだが、映画を観た人ならそれとなく納得できるコメントなのではないかと思う。例えばフルートパートの後輩たちと会話するシーンで「希美先輩はデートしたことあるんですか」と聞かれたときの希美の反応。えーっとおどけてみせた彼女の困り笑いは、急に自分が話題の中心に据えられたことへの困惑を表していたように感じられる[3]。彼女は後輩に囲まれて言葉を交わしながらも、どこかそれを自分とは遠いものとして捉えていたからこそのあの反応だったのではないか。希美が人前で見せる明るさの裏にさまざまな暗い思いを抱え込んでいたことが中盤以降明らかになっていったことからしても、彼女は本音と建前を使い分けることのできる器用さを持った人物なのである。

 

対照におかれたもの

 少し話題が逸れるが、ひとり理科室にいたみぞれに、偶然向かいの校舎で練習していた希美のフルートに反射した光が当たるシーン[4]があった。お互いに気付いた二人は離れたところから窓辺に向かい合ってしばらく一緒に微笑む。しかしふとみぞれが気付くと希美は誰かに呼ばれたのか窓辺から去っている。希美とみぞれそれぞれのいる世界や価値観のギャップのようなものが象徴的に描かれたシーンだった。

 仮にこのような、希美とみぞれが持つ各々の「世界」ないし「価値観」のようなものが想定できるとしよう。その中でも明確にお互いが共有していない部分に注目したい。希美にとってのそれは華やかでいかにも女子高生らしいフルートパートの後輩とのやりとりであり、みぞれにとってのそれは理科室で一人ハコフグに餌をやる時間や、やや地味で一風変わったダブルリードの後輩とのやりとりである。ある種の対比がここにはあるといえるだろう。

 基本的に本作はそうした何らかの対立について善悪を決めつけることはしていない、というようなことを先に書いたが、実は一度だけ一方を「下げ」ているのではないかと思える箇所がある。後半二人のすれ違いが始まるあたり、嵐のなか窓の外は暗く、雷や雨の音が響く不穏な雰囲気のなかフルートパートの後輩たちがひそひそと話をする。ここより前のシーンで水族館デートの約束をしたと話していた後輩のうちの一人が、デートに行った際その相手に「フグに似ている」と言われて傷心しているのだという。つまり希美が劣等感に苛まれてゆくと同時に、希美の世界も醜さを露呈し危機に陥ることになる。そしてフグといえばみぞれが餌をやっているハコフグが思い出される。才能あるみぞれから見れば希美の側に属するフルートの子たちは水槽の中でただ鑑賞される程度の存在に過ぎないのだという強烈な皮肉の意味合いが、プロット上の小道具選びの段階で仕込まれているといえるだろう。

 さて、一般に「高校生として」好ましい生活、態度、あり方―そんな風にいえるのは、希美とみぞれどちらの世界だろうか。他人を寄せ付けないみぞれよりは、社交的で明るい希美のほうがよりそう呼ぶに相応しいように思える。しかし、本作では世間一般である程度共有されているであろうこうした価値観の方にバツ印を描いてみせた。より正確には究極の個人主義ともいうべきみぞれ的な価値観と並べて両者を平等に天秤にかけてみせた。

 高校生の彼女たちは、集団生活や家庭との距離、「進路」の問題などにさらされるなかである一定の立ち居振る舞いを要求される。それは必ずしも自分で好きで選び取るものとは限らない。大人にもなりきれないが子供でもない彼女たちが、そこへ多少なりとも反発を感じるのは自然なことだろう。二人の世界の間にあるギャップとは、そんな自立性を求めてもがく思春期に、誰もが行き当たるある種の反抗と服従を象徴するものだと言えるのかもしれない。やや単純化が過ぎるが、つまりみぞれの側が反抗の態度であり、希美の側が服従の態度であると考えると作中に描かれた対比を説明できるように思える。

 

「物語はハッピーエンドがいいよ」

 以上のような点を踏まえると、希美は「快活な女子高生」や「面倒見のよい先輩」を人前で演じながら、それを飼い慣らされた態度からくるものと自覚して後ろめたさを感じている…そんな分析もできる。彼女の周囲の人間関係全てが嘘だとは思わない。そうして外面を取り繕うのも決して悪いことではないし、むしろ日常的に我々がコミュニケーションのなかで行っている処世術ともいえる。しかし、最後の理科室のシーンで希美がみぞれに言い放つ「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」の自罰的感情の中にはそうした意味合いの懺悔が込められているように思える。

 「物語はハッピーエンドがいいよ」にもう一度戻ってみよう。困難があったとしても、最後には誰もが報われ幸せを迎えられるハッピーエンド。ひとつの理想ではあるが現実には、どうあがいても報われない局面は存在するし、一様に全員が幸せになれることもあり得ない。高校生に過ぎない希美には、人生において何らかの形で訪れるだろう絶望を受け容れるほどの覚悟はないし、他人に痛みを負わせる覚悟もない。ゆえに、最善手ともいうべき「自らの一定の有用性を示しつつ、他者を傷付けない」方法を意識せずともとってきたのではなかったか。

 これは対人関係についての姿勢の話ではあるが、希美の生き方そのものに関わる問題でもある。恐らく希美は、自分のあり方が必ずしも自身のエゴイスティックな欲求からくるものではないと気付いていたし、一方で人生にはそうした強くて特別な思い、執着ともいうべきものが必要であることにも気づいていたはずだ。ハッピーエンドで全てを救うということは、同時に何も捨てないということである。つまり物事に優先順位をつけないということだ。しかし高3の希美にはこれまで築いてきた何かを捨て、新たに何かを選び取るという選択が課せられている。彼女は捨てられず、迷い続け、そして進路希望調査を白紙で出すことになる。「物語はハッピーエンドがいいよ」は、そうした状況に対する消極的な反抗心の表れといえるのかもしれない。

 だからこそ、これまで希美は吹奏楽に対して十分本物といえるだけの情熱を注いできた。ハードな吹奏楽部の練習に生活を捧げる彼女の熱意は並大抵のものではない。ただし、希美は高1の時に一度吹奏楽部を辞めており、二年時にひと騒動の末に部に復帰している[5]。退部した当時の彼女にとって吹奏楽は何を犠牲にしてでも続けたいものではなかったのかもしれない。事実だけを見ればそう言えるだろう。そして再び入部した時に彼女は何を思ったのか。もし彼女がこだわりをもって没頭できる「何か」が必要だと気付いていて、吹奏楽こそが自分にとってその「何か」にあたるものである、というところまで対象化して捉えていたとしたら、それはとても不幸なことである。何故なら夢中になれるものさえあればそれは「吹奏楽でなくても良かった」とも言えるからだ。それ故に、彼女は吹奏楽への情熱が本物であると自らに証明してみせる必要性に駆られていたのではないか。つまり彼女に音大受験を宣言させたものは、みぞれに対する対抗心のみでなく、自分は心から吹奏楽が好きで、かつ妥協的な進路選択をしていないことを形として示したい、そんな思いだったのではないかと推測することができる。

 

希美からみた「みぞれ」

 そんな希美の目にみぞれという存在はどのように映っていたのか。迷いがちな自分に対して、いつも真っ直ぐに自分の背中を追いかけてくるみぞれ。人にどう思われるかを気にしてしまう自分に対して、そんなものは歯牙にもかけないといった風のみぞれ。そしてソロパートを任せられるほどに磨いた自分のフルートが霞むような、みぞれの雄弁なオーボエ。みぞれのことを剣崎後輩の前で「変わってるところあるからなぁ」と評し、部の人気者としてやってきた自信と誇りをにじませながらも、みぞれに対しては尊敬に近い念を抱いていたのではないかと思われる。人間同士の機微に敏感な希美ならみぞれから向けられる好意にも当然気付いていたはずだが、少なくともそれを不快には思っていなかっただろう。むしろ積極的にみぞれと話をしてみぞれの好意に応えようとしていたように見える。

 しかし、希美とみぞれでは生き方が違い過ぎる。希美にとってみぞれが尊敬し得る人物だとしても、みぞれと接することで彼女が自分とみぞれを比較してしまえば、自分自身の嫌いな側面を常に意識させられることにもなる。希美にとってみぞれは、一緒にいて心安らぐ相手では必ずしもなかったのではないか。そんな相手に毎日つきまとわれるのは(というと言い方が悪いが)、鬱陶しく思えたこともあっただろう。無邪気に自分の不純さを突き付けてくるみぞれという存在は希美にとって一種の呪縛でもある。

 それでも希美がみぞれのことを突き放そうとしないのは、単にみぞれのことを傷つける勇気がないからではない。「私、みぞれが思ってるような子じゃないよ」からも窺えるように希美の自己肯定感はそれほど高くはない。人前で明るく振る舞いながらも、常に自分のあり方について不安を感じている。そんな彼女にとって、自分と違って毅然と生きているみぞれが唯一自分だけを特別な存在として扱ってくれること、それ自体が何よりの救いなのである。実は希美のほうも無条件に自分を認めてくれるみぞれという存在を心から必要としているのだ

 

与えるものと受け取るもの

 だが、そのようにみぞれから恩恵を受ける一方で、希美はみぞれからの愛情に応える術を持たない。みぞれが自分を思うほどには自分がみぞれのことを思うことはできないのである。つまり、一方的に施しを受け取るだけ受け取って満足なものを相手に返せていない、そんな不均衡な関係だと希美は考えており、そのことに罪悪感すら抱いているように思える。もちろんみぞれの方は自分の愛情に対する見返りがあろうとなかろうと希美への思いは不変であり、むしろ自分のほうが多くのものを希美から受け取っているとさえ考えているだろう。

 お互いにお互いの関係がアンバランスなものであることを自覚しながら、みぞれはギャップがあったとしてもそのままの関係が続くことを願っている。対する希美は、どこかでそのギャップが是正されなければならないと考えていたのではないだろうか。それが窺えるのが、音大受験をみぞれに相談せずに取りやめるという行動である。もともと乗り気ではなかったみぞれに音大受験を決意させたのは、希美が一緒に受験するという要因が大きく、それを相談なしに諦めるのはみぞれへの裏切り行為といっていい。奏者としてみぞれに劣っていることをはっきり認めたくない気持ちはあったかもしれない。だが筆者には、ここには別の意図があるように思われる。すなわち、希美はあえてみぞれに嫌われようとしていたのではないか、ということである。

 優子から音大受験をやめることをみぞれに言ったのか、と詰問された希美の返答は「言ってないよ。なんで?」だった。言い訳をするわけでもなく、見え透いた鈍感なふりをして軽薄に返してみせた。希美は本当はみぞれの自分へ向ける思いにも気づいているし、音大受験をやめれば彼女が傷つくことも分かっている。その上で、謝罪して許してもらうのではなく、みぞれのことを気にもかけていないとアピールすることで、みぞれの自分に対する評価を下げる道をとったのだ。つまり、みぞれから自己評価に釣り合わないほどの愛情を受けてそれに報いる手段を知らない希美は、みぞれの自分に対する評価を下げさせることでアンバランスな二人の関係を調整しようとしたのではないか。これは希美なりにみぞれに対して真摯に向き合った末の選択であるといえるし、あまりに自罰的な姿勢にある種の誠実さすら感じる。だが誰一人幸せにならない悲しい選択だ。

 同じようなことはみぞれについても言える。彼女は自分の感情があまりにも一方通行であることにも気づいているし、そのまま希美に受け入れられるとは考えていない。ゆえに、希美を窮屈にさせてしまわないように常に距離を取り計らっている。そんな慎重さが表れたのが、プールに行くのに他の誰かを誘ったほうがいいか、と希美に尋ねるシーンだろう。これは希美を不安にさせる結果しか生んでいない。彼女たちはどちらもお互いのことを必要としながらも、本当にお互いが欲しいものを相手に与えることができない。ここに二人の決定的なすれ違いがあるように思われる。

 

最後のpart4ではラストシーンとdisjoint→jointの意味について考えます。

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[1] 山田監督のインタビューでの発言として「(中略)希美のいう『ハッピーエンド』という言葉にすがろうと思いました。」(劇場パンフレットp.10)といったものもあり、希美というキャラクターを描く上で特に重要なセリフだったと考えている。

[2]リズと青い鳥』公式サイト|山田尚子監督インタビュー http://liz-bluebird.com/interview/

[3] ややデリケートな話題なので戸惑って当然ではあるのだが、そこからくる恥じらい以外のものを感じさせる演技がされていたように感じられた。こうした言外の細かいニュアンスを伝えられるのは本当に声優の仕事だと思う。ちなみに後輩のこの質問自体の湿っぽい意図を指摘する識者の人もいてなるほどなあと思った

[4] 識者の皆さんが「反射光愛撫」と呼んでいた作中屈指の名シーン。

[5] このあたりはTV版第二期の内容なので是非チェックされたし。

リズと青い鳥 part 2/4 鎧塚みぞれの寡黙なる激情

映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)のpart2です。みぞれの内面についての内容です。

part1 ↓

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みぞれの内面について

 高坂後輩[1]が「先輩、希美先輩と相性悪いですよね」とみぞれに言い放つシーン。みぞれの返答は「そんなことない。私なら青い鳥を一生閉じ込めておく」だった。この時点で自分がリズの役だと意識しているみぞれは、選べるなら青い鳥=希美を手放すことは絶対にしないと言い切ったのである。寡黙なみぞれにしては非常に強い意志が表れた言葉だといえる。

 こうした言葉に表れたみぞれの心情をどう解釈すべきだろう。以下は山田尚子監督のインタビュー[2]からの抜粋である。「(中略)希美が好きで希美しか見ていないみぞれにとって、希美の一言がどれだけいつも「最終回」なのかが伝わればと思います。みぞれは「次がない」と思って毎日生きているので…。」つまり、みぞれは常に希美との関係が終わることを予感し恐怖しながら日々を過ごしているのである。希美との関係にしがみつこうと常に必死になっている。故に、できることなら希美を籠のなかに閉じ込めてその関係を永遠のものにしたい、というのはみぞれにとって切実な願いなのである。

 しかし、当然のことながらここに希美自身がそれをどう思うか、という視点は欠落している。必死であるがゆえにみぞれには希美がどう思っているかを考える余裕がない。みぞれのこの台詞は直接希美に対してのものではないが、しかし「友人」と考えている相手から常にそんな態度でいられたら、普通はどう思うだろうか。一言でいうとみぞれの愛は重すぎる。場合によっては傍迷惑に思われても仕方がない。そして逆に言えば、希美がどうあろうともみぞれの愛情は一切揺らぐことはないということでもある。何の見返りも望まない手放しの承認。なんと絶対的で盲目的で、アンバランスな感情だろう。

 

不器用さと強さ

 これほどまでのみぞれの希美に対する切実さというのは、果たしてどこからくるのだろう。ひとつには、彼女は自己肯定感が低いのではないか、という仮説を立てることができる。みぞれの人付き合いの貧しさをみれば、彼女が他人を介して自分自身を見つめ、肯定するための機会が限られていることは明らかだ。そのために自分を価値あるものだと認識できず、希美にひたすら依存しようとしてしまう。そう考えることもできるかもしれない。

 しかし、「一生閉じ込めておく」という言葉に表れた力強さというのは、そういうものとは全く別のものに思える。自分を矮小なものだとしか思えない人間が、自分の願いのために他人を縛りつけることができるだろうか。恐らくできないし、しようとも考えないはずである。本稿でもはじめの方で「与えるもの―受け取るもの」という関係で二人を捉えようとしたが、必ずしもこれは弱々しい服従や依存ではない。むしろ、積極性をもって自分の願いを押し通そうとする芯の強さを持つ人物、それがこの台詞から読み取れる鎧塚みぞれというキャラクターなのではないか。

 実際に画面に映るみぞれの姿は「積極性」からはかけ離れているように見える。だが、それは彼女が会話や身体表現を通して自分を表現することが極めて不得手なためではないだろうか。彼女は胸中に様々な激情を渦巻かせながらも、自分からは何も語ることのできないまま希美の後ろをついて歩くしかない。みぞれのオーボエ奏者としての才能もこの辺りに由来を探すことができるのかもしれない。希美に出会った後の彼女にとってオーボエこそがうまく言葉にできない感情を代わりに表現する方法であり、唯一の自己表現のための手段となったのだとしたら。彼女は一意専心に音楽に取り組むだろうし、自分を音楽の道へと導いてくれた希美により一層感謝するに違いない[3]

 また、自己肯定感という観点を再び取り上げると、みぞれのそれは決して低くはないことが窺える。ラストシーンの理科室で弱気になった希美を励まそうとして使ったロジックは「私が好き→あなたは素晴らしい」だった。担任に進路のことで注意されたり剣崎後輩の誘いを断ったりした時にも、他人に対して気後れしてもよさそうなものだが、怯えや戸惑いの表情はなく無表情なだけだった[4]。山田監督の言うように「希美が好きで希美しか見ていない」ために、本当に希美以外の他人に興味がないのだろう。自己肯定感の供給源を最初から他人には求めていないのである。他者に認められることをそもそも期待していないから、他者に失望することも影響されることもない。

 決して他人に流されることなく、不器用ではあるが真っ直ぐに自分の大切なものを追い求めようとする。総括するとみぞれのキャラクターをそのようにまとめることができる。では、そんなみぞれの姿は希美の眼にはどのように映っていたのだろうか。

 

part3では傘木希美さんの内面について掘り下げます。

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[1] 高坂麗奈。トランペットのエースで妥協しない女。筆者としてはこれが本作中で一番好きなセリフ。

[2] 劇場パンフレットp.6

[3] 中学時代のみぞれの吹奏楽との出会いについてはほとんど作中で描写されていないので根拠のない推察ではある。

[4]みぞれはポーカーフェイスではないということは映画を観ればわかる。

リズと青い鳥 part 1/4 視点と配役の逆転+初鑑賞記

以前書いた映画『リズと青い鳥』についての文章(感想・考察)です。長いので4分割して載せます。

 

はじめに:『リズと青い鳥』鑑賞記

 本作『リズと青い鳥』を映画館に観に行ったときは友人(以下オタクと呼称)と一緒だった。興味ないと言っていたのを無理やり引っ張ってきたせいかオタクは途中で寝ていたが、筆者のほうは何度か息を呑み、涙し、濃厚な感情表現にすっかり心をかき乱されて劇場のシートに沈んでいた。帰り道、駅から自転車で帰るつもりだったが、オタクは歩いて帰るというので自転車を押して二人で歩いた。歩きながら一方的に映画の感想を浴びせかけていたその瞬間、筆者の脳内に電撃的に閃きが舞い降りる―これって”のぞみぞれ[1]”じゃね? 何故オタクとの下世話なやりとりを、先ほどまであれほど感動して見ていた美少女どうしの関係性でなぞらえなくてはならないのか。とても気持ち悪くて口に出せたものではない。しかし、これこそがこの作品の持つ普遍性そのものであるのだった―と気づいた時には何もかも置き去りにして夜の街をチャリンコで疾走していた……というような話を今からしていきます(?)。

 

 本稿で目指すのは映画『リズと青い鳥』における非言語化された文脈を自分なりに解釈して言語化し、作品の根底に流れるテーマを余さず解き明かすことです。ただし、筆者も劇場で何度か観ただけなので大して網羅的な、系統的な議論はできないと思います。自分用に考えを整理するためのメモに毛が生えた程度の文章と考えてもらいたいです。あと、まだ観ていない方もこれを読んで本作に興味を持ってもらえたら嬉しく思います[2]。なおネタバレについては配慮していません。

 

作品紹介

 『リズと青い鳥』は今年の4月に公開された劇場アニメーション作品である。高校の吹奏楽部を舞台とした原作の小説『響け!ユーフォニアム』は既にTVシリーズとして2度アニメ化されているが、本作はTV版と同じ京都アニメーションの制作によるスピンオフ作品となる。ただし、タイトルも含め宣伝などで『響け!ユーフォニアム』の名前はほとんど使われておらず、キャラクターデザインも一新され、設定のみを受け継いだ新作のような位置づけがなされていることが特徴といえる。TV版の主人公・黄前久美子の一つ先輩でオーボエの「鎧塚みぞれ」とフルートの「傘木希美」の二人を主人公とした物語である。

 

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冒頭シーンから

 まず冒頭、みぞれと希美が二人で朝練をするシーンから既に圧巻だった。何かを待っている物憂げなみぞれ。そこに小気味よい足取りで希美が歩いてくる。みぞれが希美の姿を認めた瞬間に周囲の世界は彩度を増し、鳥たちの奏でる旋律が美しく響きはじめる。いくつか言葉を交わしながらみぞれはのぞみの後ろをついて歩いてゆく。みぞれの視線は惑いながらもポニーテールの揺れるのぞみの後ろ姿に注がれている・・・台詞としては何の説明もなかったが、希美とみぞれ二人の間の微妙な関係性、特にみぞれが希美に向ける感情がこの1シーンではっきりと説明されている。

 ここで驚かされた点が2つある。ひとつはカットの変化の多さと動きの細やかさだ。希美を前にしたみぞれの揺れ動く感情が、細かい動きのひとつひとつによって繊細に表現されている。アニメーションでは画面を動かせば動かすほど制作上の手間が増える。このシーンでは、普通そこまで動かすか?というようなところまで細かく画を動かしていて、彼女たちの感情の動きにリアリティを与えようとする非常なこだわりが伝わってきた。もう一つは音楽について。彼女たちの髪やスカートの裾が揺れるその動きと質感がリズムの中で繊細に表現される。我々の日々の生活は常に音楽に囲まれていて、意識の外に消えていく音もあれば本来ないはずでも聞こえてくる音もあるだろう。だから本作の音楽は単なるSEやBGMと呼ぶだけに留まらない独特のリアリティを生み出すように機能していて、まるで息遣いさえも聞こえてきそうなほどに彼女らの実在性を感じてしまうような演出がされている。この開始数分でこれはすごい作品だと、そう思わせてくれるようなシーンだった。ここまで繊細に美しく、非言語的な表現のみでキャラクターの感情を徹底的に描写できる作品はそうはないと思う。この後も全編に渡ってこのような姿勢が貫かれていることが本作の大きな特徴であり魅力といえるだろう。

 

作中童話「リズと青い鳥」と二人の受け止め方

 希美とみぞれは童話をもとに作られた楽曲「リズと青い鳥」をコンクールの自由曲として演奏することになる。童話の「リズと青い鳥」の内容は以下のようなものである。パン屋で働くリズは、街のはずれの家で一人慎ましく暮らしていた。そんな彼女のもとに青い服の少女が現れる。少女とリズはすぐに友達になり、孤独だったリズは少女と共に過ごす生活に癒される。しかしある時、リズは少女の正体が青い鳥であることを知ってしまう。そして最後は、リズは少女が自由であるべきだと願い、あえて少女を突き放すような形で二人は離れ離れになることになる…

 この物語を二人がそれぞれどう解釈してゆくかが本作最大のポイントになってゆくのだが、それについてはまた後でも述べるとして、まずは序盤の時点で二人がこの童話をどう受け止めたかを確認したい。希美はみぞれに対しこの童話が好きだ、童話中の二人(リズと少女)が私たち(希美とみぞれ)のようだと語る。ただし「物語はハッピーエンドがいい」「少女はリズと別れてもまた会いに来ればよかった」など、童話の結末については否定的に捉えている。一方みぞれは自分たちをリズと少女に結びつける希美の発言に対して複雑な反応をする。そしてそれを受けて「本番なんて一生来なくていい」とも考えている。

 

物語の最後に待つものの意味

 みぞれのいう「本番」とはコンクールの本番のことであるが、これは童話および楽曲の終わりであると同時に、希美の発言によって意識されるようになった希美とみぞれの二人の関係の終わりでもある。三年生である希美とみぞれにとって、コンクールでの演奏が吹奏楽部としての最後の活動になる。曲が終局へと向かってゆけば、その先にはリズと少女が経験したような離別が待っていることをみぞれは予感している。つまり、みぞれは「吹奏楽部での活動の終わり=希美との別れ」と認識しているとも読める。対して希美はどうだろうか。彼女は曲の終結に訪れる別れを、悲劇的なものにはしたくない、あるいは決定的な別れであるべきではないと考えている。童話の結末とそれに重なった部活動の終わりを、より重大なものと捉えていたのはみぞれの側だった。ここに希美とみぞれの関係の非対称な一端が表れている。

 さて童話において、リズは孤独な生活を送り、そこに少女がやってきて幸福をもたらす。この二人の関係は完全な対等というわけではなく、「与えるもの―受け取るもの」という一種の非対称を成している。これを希美とみぞれにあてはめるとすれば、口数が少なく人付き合いにも消極的なみぞれがリズの役であり、みぞれを吹奏楽の道へと誘い彼女のよき理解者となった希美が青い鳥の少女の役である、という構図が浮かぶだろう。故に、受け取る側であるみぞれは希美に対してはやや卑屈に振る舞い、全てを尽くしてでも希美の施しに応えようとする。みぞれの方が弱い立場である(と感じている)からこそ、みぞれは希美との関係を大事に思い、失いたくないと願うのである。対して与える側である希美にはみぞれほどにはっきりとした強い思いがない。序盤での二人の童話に対する受け止め方の差異を説明するならば以上のようになるだろう。敢えて言うならば不均衡な、歪んだ関係だとさえいってよい。ただし、これを簡単に「みぞれの一途さと希美の残酷さ」で片づけるだけでは終わらないのがこの作品である。

 

関係への楔―①剣崎後輩

 みぞれと同じオーボエ担当の一年生・剣崎梨々花後輩は、希美以外の他人にほとんど関心を示さないみぞれに対して積極的にコミュニケーションを図ろうとする人物として登場する。はじめは全く相手にされない剣崎後輩だったが健気にアプローチを続け、最後はみぞれの方からプールに誘ってもらえるまでになる。さて、彼女の物語上の役割とは何だろうか。それは一言でいえば、希美とみぞれという関係性への楔、というほかないだろう。孤独なみぞれと彼女に手を差し伸べる希美、そんな構図が崩れていくのが中盤以降の展開だといえる。

 希美はみぞれをあがた祭りに誘うとき、他に誘いたい人はいるかとみぞれに尋ねるが、みぞれは別にいない、と答える。恐らく彼女らの間でこうしたやりとりはずっと続けられてきたものだったのだろう。しかし、その後のシーンで同じように希美がみぞれをプールに誘うと、みぞれの方から誰か誘ったほうがいいかと尋ねてきて、動揺する希美。みぞれからすれば二人きりになるのを希美が嫌がるだろうと考えたからに過ぎないのかもしれないが、結果的に恐らく初めて、自分から他人を(剣崎を)遊びに誘うことになる。

 常に口数少なく、誰ともコミュニケーションを取ろうとしないみぞれ。希美が剣崎後輩と会話するシーン[3]で、みぞれのことを「変わってるところあるからなぁ」と評していることからも、希美がみぞれのことをそのように理解していると推測できる。これまでずっと、希美はみぞれの唯一の理解者であり、みぞれの拠り所になってやれる存在であるはずだった。希美自身もある程度自分の立場を自覚していたはずである。希美にしてみれば、「みぞれはずっと自分だけを見つめていてくれるはずだ」などと無意識にも感じていたとしても不思議ではない。しかし、そこに現れた剣崎後輩という存在は、休日に遊びに誘える程度にはみぞれが希美以外の他人と関係を築けることを証明してしまった。希美がみぞれにとってオンリーワンな存在ではなくなるという可能性を示してしまった。そうしたみぞれに対する希美の唯一的な立場は剣崎の登場とともに危うくなる。中学以来の、アンバランスだが特別な一対一の関係を築いてきた希美とみぞれの関係性が変化の時を迎えてゆく。

 

関係への楔―②進路

高3のみぞれは進路希望調査を白紙で提出し、担任から注意される。そんな時、新山先生から音大受験を勧められることになる。希美も進路について決めかねていたが、みぞれの音大受験の話を聞いて自分も同じ音大を受けると言い出す。それを聞いて希美も受けるなら私も、と喜ぶみぞれ。しかし希美とみぞれの二人のソロパートはなかなか噛み合わない。希美はそれとなく新山先生に音大受験について相談してみるも、みぞれほどには自分のフルートの技量を評価されていないことに気付き、傷つく。みぞれに対してもぎこちない態度しか取れなくなってしまう。「大好きのハグ」をみぞれから求められても、希美はそれに応じることができない。

 希美とみぞれの関係に穿たれる第二の楔とは、高校卒業が近づくにつれ誰もが人生の選択を迫られる「進路」の問題である。それは二人に卒業という形での別れが訪れる可能性をのみ意味するのではない。自分自身にどんな能力がありこれから何を為したいか、自分とはどんな人間なのかというそれまで曖昧なままでよかったはずの問題に否が応でも向き合わなければならなくなる。それは時に17,8歳が直面するにはあまりにも残酷な現実を見せることもあるだろう。

 最後の演奏シーンで希美はみぞれとの力量差をまざまざと見せつけられ、結局音大受験を諦め受験勉強に取り組む様子が描かれる。希美が音大にどれほど執着していたのかは分からないが、彼女が音楽に向ける情熱は本物だったと見るべきだろう。休日の早朝から登校して自主練するような生活は並大抵でない覚悟がなければ続けられないはずだ。しかし音楽に対してのひたむきさだけでは生きていけないという現実を、希美は徐々に突きつけられてゆくのである。彼女は思うがままに我が道を歩んでゆける人間ではなかった。一方のみぞれはその音楽の才能を羽ばたかせ鳥のようにどこまでも飛んでゆく。それを見上げるばかりの希美に生まれてくるであろう羨望、嫉妬の感情。ありふれた悩みには違いないが、彼女たちの関係を劇的に変えたのはまさにこの「進路」の問題なのである。

 

視点と配役の逆転

 本作では序盤以降基本的にみぞれの視点から物語が進んでゆく。しかしみぞれが剣崎後輩と親しくなり、音大受験の話が表面化してゆく中盤以降、今度は希美視点での心情描写が主になってくる。これは序盤で確認した「リズ」「青い鳥」の配役が逆転してゆくこととリンクしていると考えられる。

 終盤みぞれと新山先生が会話するシーンで、青い鳥の心情について考えてみるよう促されたみぞれは、別れを告げられた青い鳥がリズを思うからこそリズの元を離れていったのだと気付く。一方希美も優子や夏紀[4]との会話の中で、音大受験や一年生の頃の退部騒動でみぞれを振り回してきたことを責められる。そんな中で二人は童話における配役がいつの間にか逆転していたことを悟る。いまや、みぞれの才能に嫉妬しみぞれからの愛情を利用して彼女の才能を縛り付けている希美が「リズ」であり、希美を思うがあまり演奏で全力を出すことができないみぞれが「青い鳥」であると。みぞれは希美に対して遠慮した演奏をすることよりも、奏者として力強く彼女を飛び越えてみせることが本当に自らの愛の証明になると考え、結果として翌日の演奏で完膚なきまでに希美を叩きのめすことになる。

 同時並行で描かれていた童話の「リズと青い鳥」の物語において、観客は孤独なリズの視点から物語を追っていたはずだ。観客が感情移入するのは常に青い鳥の少女ではなくリズである。だからこそみぞれ視点の序盤を、自然とみぞれとリズを重ねながら観ることになる。つまり後半以降視点が希美に移ってゆくのは、今度は観客に希美にリズを重ねさせるための切り口であったといえる。

 みぞれ視点の物語が希美視点に移っていく過程において二人の内面は相対化されてゆく。はじめはみぞれを受け入れない悪役の印象すらあった希美の葛藤が描かれ、みぞれの異様ともいえる執着の強さも浮き彫りになる。二人の間にあるすれ違いの諸相を多面的に描くなかで、希美とみぞれのどちらかのあり方に価値を置いたりせず、二人のキャラクターのありのままを映し出そうとするきわめて誠実な描き方だといえるだろう。ここからは二人の内面についてどのようなことが描かれたか、そしてその本質を改めて詳しく考えたい。

 

part2では鎧塚みぞれさんについて詳しく語っています。

touseiryu.hatenablog.com

 

 

[1] アンバランスな人間関係のことを言いたいらしい。後述する

[2] 12月3日にBlu-ray/DVD版が発売される模様。筆者は予約済み。

[3] 剣崎後輩が抜き身のゆで卵を希美に渡し「味付いてておいしいです」と言い放つ話題になったシーン。例えばこのゆで卵については、もはや将来の可能性(=ヒナ)が殻を破って出てくることはないという、希美の才能がみぞれに追いついていないことの暗喩である、とする解釈も成り立つ。一見ほのぼのとしているが後の展開を知ると、希美のみぞれへの独占欲と剣崎の希美への悪意がどことなく伝わる場面である。

[4] 吉川優子と中川夏紀。希美やみぞれと同じ3年でそれぞれ部長と副部長。なかよし川。

OverwatchエアプがOverwatchリーグを紹介する文

Overwatchリーグを見てみたらめちゃくちゃ面白かったので見たことない人向けに紹介します。ちなみに筆者は1ミリもOverwatchをプレイしたことはありません。なので適当なことを書くかもだけど許してね☆

 

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Overwatch League(オーバーウォッチリーグ)って何?>

OverwatchというPCゲームのめちゃくちゃ大きい大会。Overwatchは6人vs6人のチーム戦で行う対戦型シューティングアクションだが、Overwatch Leagueの参加チームは総勢12チーム。選手は全員プロ。プレシーズンも含めると去年の12月から今年の6月までほぼ毎週12試合ずつが行われるスケジュールになっており、野球のメジャーリーグとかリアルのスポーツのリーグ戦と比べてもあまり遜色ないほどの規模である。賞金総額は500万ドル。「ゲームの大会」と聞いて想像するものの遥か上を行くデカさだということはご理解いただけるのではないだろうか。

 

<なにが面白いのか?>

→以下列挙しよう。

①選手たちの超人的テクニックに震えろ

最近はこういうゲームの大会をe-sportsとかいったりするが、確かにこれはもうスポーツといって差し支えないレベルの競技性を持っているとも思える。マウスとキーボードだけで行われる精密きわまる操作、ディスプレイに映る敵の動きを見切る反応速度、少ない情報だけでマップを俯瞰する空間把握能力…それら超人的なプレイスキルは「技術」と呼ぶしかないほど洗練されていて、並々ならぬ才能と鍛錬があってこそ得られたものだとわからされてしまう感じがある。知らんけど…

②プロvsプロ、真剣勝負のアツさ

自分の人生をゲームに賭ける覚悟をしてきた人間だけがプロになれるのであって、そんな選手たちが技を競い合う真剣勝負は問答無用の見応えがある。チーム戦ならではの連携も見どころ。そんな中でファンサービスを兼ねた、ちょっとしたおちゃらけもまた見どころ。

③工夫されたクソかっこいい演出

チームにはそれぞれイメージカラーがあって、選手たちの操作するキャラクターの色は統一されている。どちらかのチームがゲームを取ると、会場にあるでかいスクリーンが勝った側のチームの色に一気に塗りつぶされるなど「魅せる」演出がとにかくカッコいい。あと合間に選手ごとの〇kill△death、みたいな数字のデータが出て来るなど相当工夫がされている。めちゃくちゃ金かかってるよねこれ。

④配信でも伝わる会場の熱気

常にテンションの高い実況やキャスター陣は場を盛り上げるし、観客は大スクリーンで繰り広げられる戦いを見て歓声を上げる。それに合わせて配信元のtwitchにも正体不明のコメントが流れまくる。会場には謎のボードが乱立する。一体感がすごい。

⑤ゲームは己の能力の拡張なんや

基本的に多くの選手はオタク…という感じの風貌なんだけど、そういう人ほど強豪プレイヤーだったりする(特に韓国出身選手)。従来プロ競技というのは身体的エリートの特権だったわけだが、彼らプロゲーマーはたかがゲームでも一途にここまで極めれば多くの人を感動させられるんだということを教えてくれる気がする。人間の可能性を感じる。

⑥童心にかえろう

誰しも小学生の頃とか、友達の家で大人数でスマブラをしたり、ゲーセンで上手い人のプレイを後ろから覗いたりした経験はあるとは思うのだが、あの頃の気持ちを思い出してみよう。つまり、他人がゲームをしているのを見るのは案外面白いのである。ゲームのプレイスタイルには各々の人格と積み重ねてきたテクニックが表れる。それが世界トップクラスのハイレベルな試合になればなおさらだ。

 

何となく興味は持ってもらえただろうか。では、早速見てみよう!

…とはいっても初見だと何をやっているのか理解するのが難しいかもしれない。筆者もそうだった(?)。なので以下少し細かいけれども見て楽しむためのポイントと予備知識を簡単に書いていこう。

一度まずは見てみて、イメージをつかんでからこの先を読んでもいいかも。リンク一番下に貼っときますね。

 

 

Overwatchってどんなゲーム?>

Overwatchでは総勢26人の「ヒーロー」と呼ばれるキャラクターからめいめいが一人を選んで操作する。勝利条件はざっくり言うとマップのなかの枠で囲われた「拠点」ないし「ペイロード」と呼ばれる車の周りから相手のキャラクターを排除し続けること(と覚えておけばいいと思う…)。相手チームよりも早く拠点を奪ったり長時間相手を押しとどめたりすることでポイントが入り、その数を競う。敵の体力をゼロにしてkillすることは必ずしも目的ではない。ただし敵に倒されると一定時間操作不能になり、スタート地点まで戻される。なので結果的に相手を拠点から追い出すための有効な手段になるというわけだ。

画面の見方としては、右上のほうに時々表示されるのが誰が誰を倒したかが分かるキルログである。どちらが人数が減って不利になったのかがわかるので、それさえ覚えておけば状況はつかめるはず。(たぶん…)

 

<各ヒーローの特性と役割>

ヒーローにはその特性ごとに「オフェンス」「ディフェンス」「タンク」「サポート」の4種類に大別され、基本的には各カテゴリーから状況に合わせてバランスよくヒーローを選んでチームを組む。ヒーローはそれぞれ通常攻撃のほかに一定時間ごとに使えるいくつかの「スキル」と、ゲージが100%のときだけ使える必殺技「ult」を持っている。ちなみにオフェンス/ディフェンスから2人、タンク2人、サポート2人の組み合わせがほぼ全てのチームで採用されている基本編成。ヒーロー全員紹介するのはめんどいのでよく見るやつと個人的に好きなやつだけ取り上げるよ~

 

☆オフェンス/ディフェンスヒーロー

攻撃性能や機動力に長ける。これらのヒーローを担当する人は何故かDPS(Damage Per Second)と呼ばれている。チームの顔であり花形のロール。

 ・トレーサー(Tracer)

二丁拳銃を操るちっこいヒーロー。2つの瞬間移動スキルを持っており機動力がめちゃくちゃ高い。体力は低いがチョロチョロ動く上にちっこいので弾が当てにくいらしい。ultは高威力の爆弾・パルスボム。機動力を生かして一撃離脱で撃ち込むのが常道。敵陣の側面を突いて攪乱したり、体力が削れて逃げる相手を追いかけて仕留めるのが役割。

 ・ゲンジ(Genji)

サイボーグニンジャ。スリケンを投げる。スキルは剣で相手の攻撃を弾き返すものと高速ダッシュ斬りの2つがある。忍者なので二段ジャンプや壁走りができ、機動力が非常に高い。ultは一定時間龍の力を纏った剣で斬りまくる龍撃剣。連続killが狙えるが接近しないと当たらないのでプレイヤーの腕の見せ所らしい。

 ・ソルジャー76(Soldier76)

ブラスターを携えたゴーグルのシブい傭兵。トレーサーやゲンジのようなアクロバットはできないが、移動速度を上げるスキルと味方を少し回復するスキルがあるおかげで単純な撃ち合いに強い。高威力のグレネード・へリックスロケットも撃てる。ultはタクティカルバイザー。一定時間照準が敵を自動追尾するようになり、射線さえ通っていれば弾が必中になる。高所やタンクの陰からブラスターを撃ちまくってダメージを稼ぐのが役割。

 ・ウィドウメイカー(Widowmaker)

華麗なる女スナイパー。通常攻撃の溜め撃ちスナイパーライフルをヘッドショットで当てることで、体力の高いタンク勢以外ならほぼ一撃でkillすることが可能。一度人数差ができると一気に戦線が崩壊しがちなこのゲームにおいて、遠距離狙撃でいきなりファーストキルを狙えるのは大きな利点である。ただし接近されると撃たれ弱いため、味方と連携していかに狙撃ポイントに居座れるかが重要らしい。ultはインフラサイト。味方全員が壁越しでも相手の位置が把握できるようになる。

 

☆タンクヒーロー

体力が高く、いわゆる壁役を担う。前線で戦う主力であり、相手の攻撃を引き付けてDPSの攻撃を通しやすくする。

 ・ウィンストン(Winston)

IQ200のゴリラ。一定範囲の敵すべてにダメージを与える電撃銃がメインウェポン。大きくジャンプするスキルがあり、タンクの中では機動力が高い。これで逃げ足の速い相手を追いかけて当てやすい電撃銃で仕留められるので、ゲンジにとって天敵。攻撃を引き受けつつ、大ジャンプして敵陣に突っ込み、もう一つのスキルでバリアを張ることで味方の突破口を作るのが役割。ultはプライマルレイジ。一時的に体力が2倍になり、野生を解放して暴れまわる。

 ・D.va(D.va)

ずんぐりしたマシンに乗る美少女プロゲーマー。マシンが壊れても本人が中から出てきて抵抗してくる。マシン搭乗時は小型ミサイル、バリア、ジェットブースターと多彩なスキルを使うことができ瞬間火力・防御力・機動力どれも優秀。バリアを張って前線で撃ち合いながら、削れた相手にブースターで急接近しミサイルで仕留める、といった使い方もできる。ultはマシンを自爆させて周囲の敵に大ダメージを与えるというもの。外から拠点に向けマシンを突っ込ませるような形で使うと強いらしい。

 

☆サポートヒーロー

主に回復を担う。ヒーラー。基本的には後方で味方を援護するが、場合によっては前に出てkillを狙っていくプレイヤーもいる。DPSがいきなり落ちてしまってもまだ立て直しは効くが、サポートが最初に落ちると戦線が支えきれず全滅につながりやすい。地味だけど重要なポジション。

 ・ゼニヤッタZenyatta

謎の玉を操るメカ僧侶。浮いているが普通に崖には落ちる。通常攻撃で体の周りに浮いた玉を高速で飛ばして攻撃。付けた味方を回復させる調和のオーブと付けた敵が受けるダメージを増やす不和のオーブの2スキルを持つ。通常攻撃は溜め撃ちもでき、不和のオーブと合わせて他のヒーラーよりもkillを取りやすいのがポイント。ultは心頭滅却。一定時間無敵になり周囲の味方の体力を大きく回復する。強力だが有効に使うためには使いどころの見極めが重要。

 ・ルシオ(Lucio)

音楽を愛するヒップホップな兄ちゃん。音波弾(?)を飛ばして攻撃。自分の周囲に一定範囲のオーラを常時展開し、範囲内の味方を回復したり、移動速度を上げたりすることができる。オーラの効果は自分にもかかり、スピードを上げて機動戦を仕掛けたり、素早く戦線に復帰することもできる。味方の回復と攻撃を同時に行えるのが強み。ultはサウンドバリア。近くにいる味方全員の体力を一時的に大幅に増やすことで実質的な無敵状態にする。

 

<チーム・選手紹介>

使うヒーローは一緒でもプレイスタイルはプレイヤーごと・チームごとで大きくバリエーションがある。選手の個性やチームの雰囲気が分かってくるとネタが理解できるようにもなるし面白い。あとは応援するチームがあると楽しいよ。

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各チームのロゴ。かっこいい

チームは各都市を本拠地として定めてファンの獲得を狙っている。これはリアルスポーツと同じ手法だ。12チーム全部紹介するのはめんどいので、これも個人的な注目チームだけ書くよ~

 

☆ニューヨーク・エクセルシオール(New York Exelcior)

チームカラーは紺と赤。ニューヨークだけど選手は全員韓国出身。韓国はe-sports大国だから仕方ないね。ステージ1の優勝こそ惜しくも逃したものの成績は14勝2敗で現在堂々のランキング1位。

・Saebyeolbe/DPS

ニューヨークのリーダー的存在でトレーサーの使い手。エイム(標的に照準を合わせること)が特に上手い。優秀なサポート陣のバックアップもあいまって彼のトレーサーはなかなか落ちないので、相手はどんどんダメージを蓄積させられてやがて崩壊してしまう。つよい。会場に妻の写真を持参し側に置いてプレイしている。

・Pine/DPS

巨漢で独特な髪型の一度見たら忘れられない男。控えで出場することが多いが、ここぞという場面で出てくる彼のウィドウメイカーは大変強力で、易々と2、3人ブチ抜いていく様には、またPineだ!と叫びたくなる。エイム力が非常に高い。カメラに抜かれたときに見せるお決まりのポーズがありファンサービス精神も旺盛。

clips.twitch.tv

実況「Big Boss Pine!」脅威のエイム力。

・Ark/サポート

先発メンバー紹介の際に一際大きな歓声が上がる目元の涼しい男。ルシオを使うことが多い。彼は韓国で言うところの旧帝大クラスの大学にも合格しているらしく、常に周りを俯瞰したクレバーな立ち回りができる選手である。

 

☆ダラス・フュール(Dallas Fuel)

チームカラーは青。スター選手が多く所属するチームで人気は高い。成績は5勝11敗の10位と低迷しているが、新加入選手を迎えて巻き返しを図る。

・xQc/タンク

世界最高ともいわれるウィンストン使い。しかし中身はクレイジーなゴリラである(褒め言葉)。彼の個人配信では基本ずっと絶叫しているし、Welcome to the jungle!とメッセージが出てくるし、youtubeでxQcと入れて検索すると彼が阿呆なことをやってる動画がいくらでも出て来る。試合に負けた日に相手方を侮辱する発言をやってステージ1の後半は出場停止になっていた。敵陣にどんどん突っ込むアグレッシブなプレイスタイル。

clips.twitch.tv

完全にゴリラと化したxQc。出場停止明けの喜び。

・Mickie/タンク

常に笑顔を絶やさないダラスの元気印。苦戦続きのダラスにおいて常にポジティブな彼の姿勢は周囲の選手たちにとっても癒しになっているらしい。D.vaを扱うのが上手い。スタメン紹介の時に必ず小芝居をやってくれるので必見。

・Effect/DPS

トレーサーを使わせたら世界一と謳われたスタープレイヤー。正確無比なエイムと相手を翻弄する華麗な立ち回りは健在…のはずだったが、今大会の彼はやや安定感に欠けるという。OSU(PCでする音ゲー)のプレイ動画を見ると彼の人外ぶりがよくわかる。常にクールなEffectだが、スタメン紹介の時MickieやxQcが絡んでいってちょっかいを出すのがお約束。

clips.twitch.tv

男xQc、Mickie、Effectらの愉快なスタメン紹介

・aKm/DPS

ステージ2から新規加入したソルジャー76使い。加入以来その超人的なエイムを存分に見せつけており、時間当たりの与ダメージ量ランキングで全選手中1位を記録。彼のブラスターは常時タクティカルバイザーを使ってるのか?と思わせるくらいによく当たる。

・Taimou/DPS

ダラスの精神的支柱、チームを引っ張る穏やかな風貌の男。かわいい。エイム力が高くウィドウメイカーなどのヒーローで活躍してきたが、最近aKmをはじめDPSプレイヤーが増えたのでタンクにも挑戦している。名前は日本語から取ったらしい。

・Harryhook/サポート

陽気なスペイン出身の古参プレイヤー。ある動画でチームメイトから「He is a child」と言われていた。サポートには惜しいほどのエイム力を持ち、ルシオなどを得意とする。Carryhookの異名を持つ(carryは味方をかついで勝利へと導く、みたいな意味のスラング)。

 

☆ヒューストン・アウトローズ(Houston Outlows)

チームカラーは緑。ワールドカップの元アメリカ代表選手が多数所属している(Overwatch Leagueの開催地はアメリカ)。10勝6敗で現在5位。

・Jake/DPS

ラテン系のリーグ屈指のイケメン。トレーサーを中心に様々なヒーローを操ることができる器用さが彼の武器。彼が登場すると配信のコメントに「J 笑 K E」(笑はlolだったり顔のスタンプだったり)みたいなスラングが大量に流れる。何なら登場しなくても流れる。ファンから愛される熱い男。そしてスラングを流行らせたのはNYのPineらしい。

clips.twitch.tv

↑J lol K E  やめたげてよぉ…

・Muma/タンク

タンクの扱いではリーグNo.1に推す声も大きい実力派プレイヤー。ゲイを告白しており、彼が登場すると虹色のKappaPrideのスタンプが連打されるのがお約束。ダラスのxQcとは同じゴリラ使いであるが、xQcが出場停止処分を受けたきっかけの侮辱発言というのは実はMumaについてのものだった。今ではお互いに和解している。

・Rawkus/サポート

アウトロー精神を体現するかのような尖った髪型はリーグ随一。基本的にクールな選手だがスタメン紹介の時にウインクしてくる。ルシオを使うことが多い。

 

フィラデルフィアフュージョンPhiladelphia Fusion)

チームカラーはオレンジ。幅広い国籍の選手が参加している。成績は9勝7敗で6位。

・ShaDowBurn/DPS

世界最高のゲンジ使いとして有名なプレイヤー。彼の操るゲンジは相手に吸いつくように手裏剣を当てるし、龍撃剣を抜けば易々と複数kill、体力を削られても絶妙のタイミングで退いて粘り、とにかく強くて見ていて小気味よい。クール…というか感情の起伏に乏しく、勝っても笑顔をほとんど見せないが、レクリエーションで何匹もの子犬に囲まれた時は流石にほんのわずか口元が緩んでいた。プレイ時にモニターの方へ前のめりになる選手がほとんどの中、彼だけは背もたれに深く寄りかかってプレイする。王者の風格かよ

clips.twitch.tv

一人だけ姿勢が明らかに違ってて笑う。

・Carpe/DPS

ShaDowBurnとDPSコンビを組むことの多いトレーサー使い。エイムでは決して引けをとらない実力者である。ちっこくて丸眼鏡がチャームポイント。ShaDowBurnがチームで生活しているプール付きの豪邸を淡々と紹介する動画があるが、「Carpeの寝床はプールかな」などとコメントされていて笑った。

・fragi/タンク

やせ形の選手が多い中、見るからに強そうで目を引くプレイヤー。主にウィンストンを操るが、タンクというロールは彼に本当に良く似合う。メンバーで激辛ラーメンにチャレンジする動画では、他の選手たちが悶絶するなか堂々と完食し、ギブアップした選手のラーメンを肩代わりして食べる貫禄を見せた。

 

https://overwatchleague.com/ja-jp/

↑公式サイト。日本語対応。順位表や選手リスト、配信や過去の録画もここから閲覧できる。

www.twitch.tv

↑大接戦となったヒューストンvsフィラデルフィア戦の録画(5ラウンド目)。リアルタイムで見たなかで一番アツかった試合。

 

以上、エアプにもかかわらずOverwatchリーグを語ってきたが、エアプでも見ていて楽しめるのでOverwatch神ゲー(白目)。大分適当なことを書いたけど真面目にやってる人も許してくれえ…

Overwatch Leagueは金があるのか、コンテンツとして福祉が充実していてよいので人に勧められる。お気に入りのチームが勝ったとか負けたとか、我々の日常に彩りを与えてくれるのはそういう事々なのだ。リアルタイムで試合配信を見ようとすると時差の都合上割と早起きしなければならないが、筆者の場合これで生活リズムが整えられるなどの恩恵もあった。 

 

2017年アニメ総評part2:夏・秋季編

 

touseiryu.hatenablog.com

 上掲の去年のアニメについて大雑把なレビューをしながら6段階で勝手な"評価"をつけていく」企画の続きです。対象は去年初回から最終話まで全話観たアニメ全タイトルです。"評価"はだいたい以下のような基準、というか気分でつけています。

 

S あぁ^~オタクになる~

A 秀作、人に勧められる

B 良作、十分楽しめた

C 凡作、平均的

D 駄作、見るべきではなかった

E 許せねえ・・・

 

 

夏季(7月~9月)

Fate/Apocrypha D

 Fateシリーズの新作ということでけっこう楽しみにしていたのですが期待外れでした。いくつかダメな点を挙げます。第一に、キャラクター各々の内面に対しての描写が圧倒的に足りない。サーヴァント計14騎+マスター8人それぞれがどういう人物で何のために戦うのか、きちんと描くには2クールでも結果的に不十分で、人が死んでも全然その死を惜しいと思えなかったんですよね。例えばFate/Zeroでは7騎+7人+αの物語を描くのにまるごと1クールを費やしました。悪玉として他の6陣営から排除されたキャスター組でさえ、退場するのが惜しいと感じさせるような描き方がしっかりとされていたと思います。一方黒のキャスターが暴走し、主人公側の全員から集中攻撃されて討たれた時はどうだったか。その回の冒頭にほんの僅か回想シーンが入りましたが、彼についての物語はそれきりで、死んだところで何の感動も起こりませんでした。程度の差はありますが、肩入れしたくなるようなキャラクターは見当たらなくて(強いて言えばカルナ)、最後まで意味の薄っぺらい死ばかりだったという印象です。

 第二に、歴史や伝説に対するリスペクトを感じないこと。言ってしまえばFGO的なキャラクター観だった(怒られそう)。Fateには一貫した二次創作としての原典(歴史・伝説)に対する敬虔さがあり、原典をきちんと下敷きにできているからこそのサーヴァントのカッコ良さや設定の重みがありました。それがこれまでのシリーズを好きな理由のひとつでもあります。なので、設定的な裏付けがあるとはいえポッと出のジーク君が英雄たちと互角に戦う展開もピンときませんでしたし、浅いキャラクターの描写も歴史へのリスペクトの欠如に由来するように思えて駄目でした。調べると原作ではもっと細かく設定が説明されているらしいのですが、それをカットしたのも「FGO民相手ならこんなもんでいいだろう」と舐められた気がして嫌でした。これでFateの名を冠していなければバトルの作画は派手だったし凡作くらいの評価で落ち着いたのかもしれないですが、失望感が強くてこの評価。他にもいろいろありますが長くなり過ぎましたね。因みに私はFGOもそこそこプレイしています。

 

メイドインアビスA

 かわいらしい絵柄の割に甘えを許さない過酷な展開で話題になった作品ですね。あまりにも未熟なレグとリコが二人きりで助け合い、お互い依存しながら、二度と戻れないかもしれない冒険に挑む姿はとても儚げで感動的でした。驚かされたのはリコが右手を負傷するシーン。演出も演技も素晴らしく、あれほどに説得力をもってレグの感じた不安がリアルに伝わってくる1シーンはそうそう見られるものではないです。

 中盤あたりで、母親に会う目的があるとはいえ、聡明なリコが明らかに実力不足なのに危険極まりないアビスへの冒険へ挑もうとするの異常だよな~と思ってたらオーゼンの「リコは一度死んでる」って話が出てきて、リコの一人称で描いてこなかったのが意図的だったと分かりなるほど!という感じでした。まあそれについてはミスリードの可能性もあると思っているわけですが、アビスというフロンティアへの憧れは外の人間からは恐らく理解し難いものです。一度嵌ったら蟻地獄のように人々を物理的にも精神的にも引きずり込んで離さないアビスの存在は確かに異常ですが、アビスの奇想天外な景観や説得力ある造形をもったモンスターたちを見ると、あの世界観が魅力的に思えてもしまうわけです。それだけレグやリコの憧れに共感し易くなるし、ある意味、観る我々をもアビスに引きずり込む仕掛けがされているともいえるでしょうか。その辺り、とても信頼できる作品だと感じさせてくれますね。合理性だけで量れないのが人間の有様でもある。脇を固めるナナチやオーゼンといったキャラクターにも非常に良いエピソードがありました。正直泣けた。アビスの謎やボンドルド卿の思惑については今後のシリーズで明かされていくと思うので楽しみ。

 

プリンセス・プリンシパルS

 オタクは『プリンセス・プリンシパル』を見ろ。19世紀ロンドンを舞台に繰り広げられる美少女たちのクール・スタイリッシュ・スパイ・アクション、それだけで最高という感じはありました。まあでも本作はありがちなコンセプト倒れの作品ではなくて、骨太なストーリーが伴っているからこそのこの評価です。基本的に一話完結のストーリーで毎回明確なテーマ性があり、その中でメインの五人の関係が少しずつ進展し、各々の抱える過去や強い思いが明らかになっていく構成はやはりいいですね。特にアンジェとプリンセスの幼少期の過去が明かされる回にはめちゃくちゃ感動してしまいました。二人がお互いに向け合う感情のデカさを思うとウワーッと絶叫してしまうみたいなのはある。それからまた2話を見返すと仕掛けられた細かい意味深なカットの意味合いが分かったりして…そんなふうに何度も繰り返し見るといろいろ発見が大きい作品でもあります。

「嘘」というのが本作全体のテーマでした。チーム白鳩の面々は全員が何かしらのプロフェッショナルであり、得意分野を生かして協力しながら作戦を成し遂げてゆくことで互いに信頼を深めていきます。彼女たちの卓越した技術は、メンバー各々が並々ならぬ決意と葛藤のなかで強さを身につけてきたもの。しかし一方で彼女たちは一人の少女としては歪な人間だといえるでしょう。時勢に翻弄され、両親の愛情を知らず、組織の手駒として使われ、権謀術数のなかで利用されかねない過酷な立場の彼女たちは「嘘」を使いこなして生きてきました。だからこそ不完全な彼女たちにとって、ただの少女でいられるあの部室でお茶をして過ごす時間こそがかけがえのない「本当」のものになったんだろうな、とね… そういうのが好き、という話でした。

 

ようこそ実力至上主義の教室へC

 やたら勉強とか頭の良さみたいなものがテーマとして強調されていた作品でした。今の私が見ると進学校と言ったってあんなに上昇志向の人間ばかりではないだろうし、逆に作者頭悪そうにも見えるんですが、中高時代に勉強ができるできないというのは私にとってもクリティカルな問題だったので、中高生向けのラノベ原作と考えればまあこんなものかとも思います。無人島での心理戦は純粋に面白かった。なかなか感心したのは最終話で、いわゆるツンデレヒロインの堀北さんが「素直」、明るく振る舞うが表裏の激しい櫛田さんが「不器用」という語られ方をされていたのにはなるほど!と唸らされました。あと堀北さんが初めてデレた場面で主人公が「俺はお前のことはどうでもいいがな」と内心つぶやいているのも非常にクールでよかった。ラノベ的なテンプレを崩そうとしている姿勢は評価したいけれども、全体的な青臭さが嫌でこんな感じです。

 

『Dive!!』 E

 これ、原作の小説を昔読んでいたんですよね。はっきり言ってこのアニメには原作へのリスペクトとか作り手のこだわりを感じませんでした。登場人物はみんなどこかで見たようなありがちなキャラクターに改変されており、EDなどでやたらと男の裸を強調しがち(なのは水着だから仕方がないとはいえ)、声優も狙い澄ましたように梶桜井中村とくれば安直な女性ウケの狙いが露骨で心底失望しました。基本的には原作のストーリーをなぞっており物語はあるかないかで言えばあったけれど、とにかくキャラクターの薄っぺらさが目につき全然感情移入はできませんでした。これをどうして我慢して見続けたかといえば、原作で大変感動した最後のオリンピック代表決定戦、特に沖津のスワンダイブのシーンが映像化されるのをどうしても見たかったからです。しかし…最後まで典型的な低予算アニメという感じで作画も演出も画面の切り取り方もまるで平凡でした。好きだった小説がこんな形でアニメ化されたのも腹が立ったし、時間を無駄にしたとしか思えなかった。未読だったらここまでイライラしなかったと思うけど、そもそも見てないでしょうね。

 

ボールルームへようこそA

 観る前の競技ダンスへの興味、私もほぼゼロだったし大多数のアニメファンにとってもそうだったと思います。しかし、登場人物たちが薄暗いスタジオで独り練習に打ち込む姿や、光り輝くダンスホールで華麗に踊る姿がこれほどカッコ良く見えたのには驚きがありました。ダンスシーンでやや止め絵が多かったというのはありますが、全体的に画面構成や動きの躍動感といった「見せ方」の部分がかなり上手い作品だったと思います。一見華やかなダンスの世界ですが、その裏には孤独な鍛錬があり、自分の背負ったものを表現する手段であり、他者とプライドをかけてぶつかり合う場でもあるわけですね。

 すごく印象的だったのが後半のOPの冒頭、多々良と千夏が練習をするカットです。朝焼けの光のなかを千夏がホールドの形に腕を広げて近づいてくる。女子高生が近づいてくるのがあんなに嫌だと思える図、あるか?多々良と千夏の間にあるのは安い共感ではないわけです。お互いが妥協なく相手を分かろうとした末にたどり着いた、相手の人格を尊重するが故の「完全には理解し得ない」という割り切りと、ひとつの目標に共に向かっていく相方としての絶対的な信頼です。前半では「リーダーはパートナーの額縁になる」「パートナーはペアの最大出力を決める」といった競技ダンスの一般論が出てきて、多々良―マコ組がその枠の中で精一杯自分を表現する様が描かれました。しかし多々良―千夏組では枠を超えた、彼ら独自の信頼を築くところまで到達したところに多々良の成長がみられるわけですね。遠慮がちに自分を相手に合わせていくのではなく、傷付けることを恐れないだけの信頼と自信を手にしたからこそ彼は千夏の存在を意識から消し、四本足になった幻覚を見るまでになりました。そして「解り合えない」からこそお互いの秘めた可能性に期待し続けられるし、ダンスに対するお互いの要求に真摯であることを求められます。だから私がOPのあのカットに感じる嫌らしさというのは休日が終わる時のそれに似ています。そんな否応なしに緊張を強いられる関係、甘えのない関係が、人間同士の相互理解においてとても本質的なものに思えて好感が持てたという話でした。

 

秋季(10月~12月)

宝石の国S

 この作品には感情移入しすぎて、一人で繰り返し観ているとナイーブになって変な声が出るようになった。最近はあまり観ないようにしています…と言いつつこの文章を書きながら観てたら泣いてしまって作業にならなくなった。マジで観てないなら今すぐ観てほしい。この作品については稿を改めていつかきちんと文章にしなければと思ってもいるので、かいつまんで書きますね。

 登場人物のほとんどが性別を持たず不死の「石」だというところがかなり特徴的な設定です。一話くらいの時点では、彼らは時々月人が襲ってくる以外は箱庭のような世界で牧歌的に生活しているように見えますね。しかしよく見ていくと、何百年もの寿命のなかで彼らは彼らなりに様々な悩みや強い感情を抱えて生きていることが分かってきます。聡明なシンシャは孤独感を、親切なダイヤモンドは嫉妬を、強いボルツは劣等感を。しかし、各々が親代わりともいえる先生と仲間たちとの穏やかな生活を守ろうと、不器用ながらも努力してあの日常を成り立たせています。そんな宝石たちの姿は人間の本質そのものだといえるのではないでしょうか。そんなところで宝石たちは大昔の生物「にんげん」が魂・肉・骨に分かれたうちの骨である、という話も出てきますね。主人公のフォスフォフィライトは若く、生まれつきの性質から無能であることを悩んでいました。ですが博物誌の仕事を任され、シンシャと出会って身の回りの矛盾と向き合おうとし始めたことがきっかけで成長していきます。しかしそれは大きな痛みを伴う道でもあり、仲間を失い、手足を失い、記憶を失い、一話の時と最終話では全く変わり果てた姿になってしまいました。それは本当に彼(彼女?)が望んだ結果だったのか。そもそも記憶が失われ生き方も180°変わってしまった彼が、どれほど本物のフォスだといえるだろうか。そんな成長の痛みをこの作品は残酷に描いています。人間関係の機微や人生観がある意味象徴的な形でそこに克明に描かれているからこそ、私は大変共感を持ってしまうわけです。

 以上テーマについての話でしたが、この作品はアニメとしての表現としても非常にハイクオリティでした。原作を読んでいたので、あの独特な世界観をアニメ化するのは無理じゃんと思っていたのにね。晴れた日の風になびく草や、夕暮れの浜辺、宝石たちの髪を透過して肩にかかる光、静かで広大無辺な海中、色とりどりに発光するクラゲなど、背景美術が大変美しかった。そして動きの部分でも、キャラクターのかわいらしい動きの表現で抜群のものがありました。3DCGでここまで可愛く見せることができるとは思っていませんでした。革命的と言っていいと思います。だからこそ私は初期フォスのあのかわいさが失われていくことに大変喪失感を覚えるわけですね。バトルの作画も相当な気合の入りようでした。ダイヤがしろと戦ったときの流れるような切れ目のないバトルシーンはCGの最高峰といえるのではないでしょうか。そして特筆すべきはフォス役の黒沢ともよさんを含め声優陣の好演です。彼女の「芝居らしくない芝居」が本当にプロフェッショナルという感じで、これも作品世界やキャラクターの魅力を底上げしていた要素だったと思います。とにかく、この作品のアニメ制作陣には原作のテーマを表現し直そうという一途さが感じられます。漫画にはなかった色彩や声やモーションが加わることでさらに作品世界の魅力が増したアニメ化だったと思います。ブルーレイ買いました。

 

十二大戦B

 12人の干支の名を持つ戦士たちが一晩のうちに、一人になるまで殺し合うバトルロイヤル。毎回一人のペースで、回想シーンが入った人間から、しかもたった一瞬で死んでいくのは統一感があって美しく、やはり西尾維新の仕事という感じでした。人が死ぬ作品ならそこにその死を「惜しい」と思わせるだけの展開がないと感情移入できなくて面白くないという話を何度かしましたが、この作品にもその種の難しさがあると思います。各キャラクターの過去回想というのが、裏社会や紛争の場で戦い続けて戦士になっていく、みたいな割と似通ったシーンばかりになってしまい「こんなの先週も見たな」という感じがありました。なので12人に12個の物語がきちんと用意されているべきバトルロイヤルものにおいて、そこがややまずかった部分だったといえます。この作品が真価を発揮したのはラスト二話でしたね。そこまで描いてきたあまりにも呆気ない死が、鼠の視点で様々な可能性のひとつであったと語られることで「惜しい」ものに変わっていったように思います。そして12人各々が戦場にかけてきた願いが、鼠の選択によって一切何の意味も持たない結果に終わるというのは、何というか滅びの美学みたいなものを感じられました。高い戦術性と作画力を持ったバトルシーンのなかに戦士たちが死の間際の一瞬で見せた輝きがこもっています。

 

いぬやしきC

 テーマは現代におけるヒーローとは何か、みたいなところなんでしょうか。ヒーローとは誰もが憧れるカッコいい存在であり、かつ無償で全ての人間を救う存在です。犬屋敷さんは家族からもぞんざいに扱われるしがないサラリーマンに過ぎませんが、悪を許せずあらゆる人間を無償で救う正義感を持っています。一方獅子神は無慈悲な大量殺人鬼でありながら、母親や直行には優しさをもって接します。一見獅子神を倫理観の欠けた悪役として捉えがちですが、例えば人が亡くなったというニュースがあって、それを見る人々のうち何人がそれを「人の死」として重く受け止め悲しんでいるでしょうか。死を悼むためには共感できることが必要条件だ、という話はもう4度目くらいですが、知らない人間を助け、知らない人間の死を悲しむのは難しいことです。それは都市化と個人主義化が進み、人の死のニュースが日常茶飯事になっている現代社会において当然ともいえるのかもしれません。獅子神は絶対的な異常者というわけではなく、自分に関係のない人間のことには無関心で、しかし独りにはなりたくない典型的な現代っ子です。対する犬屋敷さんはごく平凡な人間ですが、時代遅れともいえるヒーロー像を心に持っており、獅子神にはそれがない。犬屋敷と獅子神の戦いとは、そういった「正義」の捉え方の差異や世代のギャップを象徴するものだと思います。つまり、どちらが善でどちらが悪であるとかいう二元論に収束してはいけない対立のはずです。ところがこの作品は犬屋敷さんをヒーローとして、獅子神をサイコパスとして断定的に描きすぎたところがあり、テーマが薄められてしまっているところが残念でした。

 ほかには人が泣くシーンが多用されていますが、その表現があまり良くなくて低予算アニメ感が匂ってしまったのは失敗だったと思います。ただ全体的には続きが気になるようなストーリーで自然と毎週見続けられたのでこのくらい。

 

血界戦線 & BEYOND』B

「異常が日常」の街を舞台に個性的なライブラ・メンバーたちの織りなすクールでハチャメチャな群像劇。ボンズらしい派手な見せ方にこだわった異能力バトルシーンは健在でした。ヘルサレムス・ロットは都市としての濃密な文脈と多様性を内包しているように思えて魅力的ですし、異形のモンスターたちの造形も、カッコ良くもあり奇想天外でもあり好きです。

 ただ、この二期についてはやや不満があります。私は一期での松本理恵監督の音楽の使い方や画面構成がとても気に入っていて、何気ないシーンでも印象的でテーマを際立たせるような演出に毎話感心させられていました。それが独特な世界観の魅力を底上げするようにも働いていたと思います。ところが二期では監督も代わり、演出の面でかなり平凡なものになってしまった印象があります。代わりに二期で重視されていたのはキャラクター同士の言語的な、直接的なやり取りだったのではないでしょうか。一期でアニメオリジナルのキャラクターであるブラック・ホワイト兄妹に作中で重要な役割を担わせたことには原作ファンから少なからず批判があったと記憶していますが、それを受けてライブラ・メンバー間のやり取りを重視し、女性ウケを取り、非言語的でともすると伝わりにくいあの演出を切り捨てるような方針転換がなされたように思えて残念でした。期待していたわりに一期ほど楽しめなかったのでこのくらい。

 

 総括

“評価”をまとめると以下のようになります。

 

S 宝石の国進撃の巨人プリンセス・プリンシパル

A メイドインアビス武装少女マキャベリズム、リトルウィッチアカデミアボールルームへようこそACCA13区監察課Re:CREATORS

B 冴えない彼女の育てかた、終末なにして(略)、血界戦線十二大戦この素晴らしい世界に祝福を!、ID-0、Rewrite

C ベルセルクようこそ実力至上主義の教室へいぬやしき、CHAOS;CHILD

D Fate/Apocrypha政宗くんのリベンジハンドシェイカー

E Dive!!

 

 上のほうに評価が固まってるじゃん、と思われるかもしれません。これはですね、面白くないと思った作品は途中で視聴を止めてしまったりするので、評価対象外になりこの表には現れなくなるからです。多分それらも評価に含めるとするとCを平均として下の方にもバラけるはずです。ただ、今回取り上げなかった作品も全部「切った」わけではなく、時間がないとかで単純に見ていなかったものも多いです。有頂天家族キノの旅辺りは時間があったら見てみようと思ってます。他にもこれ!という作品があったら教えてください。

 今年のマイ・ベストは宝石の国でした。これだけ夢中になれる作品に出会えたことは僥倖でしたね。原作の漫画を貸してくれた後輩には感謝。

 今年も23作も観てしまったようですが、23作品こうしてレビューしてみると、何となく自分の「こういうのが好き」という感覚が相対化されたように思います。

 ご覧のとおりpart2のほうが1作品ごとの文章量が大きくなってしまいましたが、これは夏や秋の作品のほうが記憶に新しく、書くことが次々に湧いてきて文章が無限に長くなってしまったからです。これは逆にいえば、時間が経てば作品にふれて感動した記憶も風化していってしまうということで、なるべく記憶が残っているうちに文章として残すことはとても大事なように思えてきました。今回でもっと短いタームでこうして文章を書くクセをつけていきたいという気になったのでまたいずれ同様のことをやるかもしれません。

2017年アニメ総評part1:冬・春季編

冬のコミックマーケットに行って感化されたこともあって、今まで観たアニメについて個人的な記録としても何か文章で残しておきたいという気持ちになりました。

そこで今回は、ちょっと遅いですが「去年のアニメについて大雑把なレビューをしながら6段階で勝手な"評価"をつけていく」企画をします。対象は去年初回から最終話まで全話観たアニメ全タイトルです。"評価"はだいたい以下のような基準、というか気分でつけています。

 

S あぁ^~オタクになる~

A 秀作、人に勧められる

B 凡作、十分楽しめた

C 佳作、平均的

D 駄作、見るべきではなかった

E 許せねえ・・・

 

そんな読む人もいないと思うけど一応の注意としては、割とはっきり書くことは書くので、気に入らない意見もあるかもしれないけどそれはそれで一意見として認める、というスタンスで読んでほしいですね。こうする以上こちらも批判などいただくことがあれば尊重して真摯に向き合うつもりです。

書いてたら思いのほか長くなったのでpart1、part2に分割します。

 

2017年

冬季(1~3月)

『ACCA 13区監察課』:A

 架空の国家で働く官僚たちのお話。ビジュアル的な派手さはほぼなくて、なんというか非常に大人しい雰囲気を纏った稀有な作品。監察官である主人公が各地を視察するなかで国が抱える歪みだとか、各人物がどんな思いを抱いているのかが少しずつ明かされるんだけど、それらは基本的にいつも「社会」のフィルターに隠されていて、でもふとした時に何となく見えてくる瞬間があったりする。そんな奥ゆかしさが凄くリアルだしカッコいい。ナレーションも「説明役」のキャラクターもいないけど、タバコの銘柄とか好きなお菓子とか、そんな日常の些末な話題のなかに本筋のテーマを垣間見ることがあったり、台詞のない「間」の中に強い思いが感じ取れたりするのがおしゃれ。行間を読んでいく楽しさがあり、あとは設定の「国」を現実の社会構造と照らし合わせて見ると面白いですね。

 かなり小説っぽいお話であり、バトルシーンなんかがあるわけでもないのでこれアニメにする意味あるの?とは思ってました。疲れてるときに見ると眠くなる。

 

この素晴らしい世界に祝福を!2』B

 いわゆる「異世界もの」でギャグをやるというメタ的な作品だけれども、1期から安定して面白い。思いっきり崩した作画とか、随所にこだわりが感じられるのも良くて、ギャグとしてかなり成功していると思います。毎週楽しく観られました。ただ私としては特別思い入れのある話数もキャラクターも無かったのでこんな感じ。

 

RewriteB

 全話観たはずだけど、あまりに多くの疑問が投げ出されたままで全く終わったという感じしかない。2クールでも全然尺が足りなかったんでしょう。しかし難解極まる世界観には相当惹きつけられるものがあって、時間がある時にいつか原作をプレイしたいという思いはかなり湧いてきました。オカ研での平穏なラブコメ的な日常が、いつのまにか地球の存亡をかけた争いとオーバーラップしてしまい人が死にまくるという展開はとてもクールでいいですね。そしてそれがkey作品らしいADVへのメタと現実社会へのメッセージ性を伴ってやってくるのも見どころです。あと私はこういう一周遅れにも思える「昔のギャルゲー」然としたヒロイン像が案外好きなのかもしれない。

 

政宗くんのリベンジD

 反生殖主義者の主人公が女の子を落とす痛快復讐劇が見たくて見始めたはずなのですが、中盤でヒロインがもう一人出てきたあたりから普通のラブコメになってしまい、がっかりしました(?)。そうやって露骨に商業主義に走るから苦手なんだよな。

 

リトルウィッチアカデミアA

 表現としての第一義的なアニメーションの面白さというのは、あまりベストな表現じゃないけど「発想力」と「動き」だと思うんですよね。表現できるモチーフの幅広さと自由にそれを動かせる面白さ。本作はそうした最近の深夜アニメでは一種のテンプレートや過剰な雰囲気作りに隠れて軽視されがちな、本来的な楽しさをアニメーターが自由に、のびのびと追求していることが感じられて好感が持てます。これがやっぱトリガーなんだよな。だからキャラクター各々の個性を生き生きと描けているし、合間の「日常回」みたいな話数の出来もすごくいい。

 メインテーマのことをいうと、「魔法」が利己的に利用される人間の道具としてではなく、純真さやひたむきさ、そして誰にとっても開かれた「夢」「可能性」の象徴として描かれているのがポイントですね。ただしそこに至るまでにはアッコの猪突猛進ぶりだけではダメで、ダイアナやアーシュラ先生が挫折し葛藤する負の側面も描かれています。だからこそ自然と共感し易い物語になるのだと思います。スーシィの脳内を冒険する8話大好き。

 

『CHAOS;CHILD』C

 序盤のSFホラーめいた雰囲気作りが丁寧で最初はかなり評価していたのですが、中盤以降あまりにも簡単に、何の感動もなく人が死んでゆくので全然感情移入できなくなりました。間をとってこんなもん。『Rewrite』と同じくADV原作ですがこれもキャラクターはなぜか好き。

 

ハンドシェイカーD

 なんでこれ最後まで観たんだっけ…ってなってる。粗削りだけど3Dを使ったバトルシーンが表現としてなかなか斬新で見所だったんですが、話のほうはひたすら浅え…という感じで、テーマを語るためのこだわりとか必然性みたいなものが足りなかったと思います。りり会長がエロかった。

 

 

春期(4月~6月)

進撃の巨人season2』S

 一期は本当に大好きで、続きはアニメで観たいと思って原作にも手を出さずにいたけれどもようやく二期が見られて嬉しかったですね。こんだけ人がガンガン死ぬのに飽和しないで毎回ヒリヒリした恐怖感と食われる痛々しさが伝わってくるのすごくない?大迫力・超絶作画の立体起動シーンも健在でした。

 一期は理不尽な恐怖とそれに立ち向かう勇気というのが大きなテーマでしたが、二期では巨人という存在に隠された謎を解いていくという部分がクローズアップされてきました。EDの意味深なカットなんかも気になるし、「リヴァイ班が初回戦闘で全滅とかありえんだろ…」みたいな安易な予定調和をどんどん裏切ってくる作品だから油断ができなくて毎週続きが待ち遠しい。ライナーとベルトルトが巨人になるシーンは演出も相まって衝撃でしたね。

 壁というのは文明の象徴で、それが巨人に破壊されることで人間の社会も終わる。けれどもその構造には隠されてきた歴史の嘘みたいなものがあるらしいことが分かってきた。現代特有の社会や政治への漠然とした不信感にもつながる部分があり、ウォール教や憲兵団の話とか、現実へのメッセージ性を多分に持った作品で、その辺りもウケた理由なのかなと思っています。エレンやミカサ、アルミンは本来社会の代表者ではない、弱い立場の人間だったはずなのに、社会の守り手として期待される立場になってしまう。これまでは復讐心に任せて突っ走ってきたけど、いつかはその矛盾に気付かされるんじゃないか。で、それは最終話のライナーの「お前は一番その力を持っちゃいけない人間だ」という台詞と関係してくるんじゃないかと勝手に想像しているけれども、原作勢のみなさんどうなんでしょう。

 

終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?B

冒頭ヒロインが死ぬシーンから始まって最後きっちり死んで終わる構成はいかにもラノベっぽいタイトルに似合わず気骨が感じられてよかった。ほかの妖精たちのまとめ役として、しとやかで献身的に振る舞うクトリが主人公と出会って少しずつ変わっていく。嫉妬したり、不安な気持ちを吐露したりするようになって彼女は使われるだけの存在から人格を持った女性に近づいていくわけだけども、主人公に認められるだけの「自分」を意識すればするほど、自分が仮初めの存在であることを突きつけられてしまう。それでも苦しみながら強く生きようとするクトリの姿は儚げで感動的でした。「獣」の謎の説明はほとんど投げられていますが、命数短い彼女が見ていた世界の狭さを思うとこれはこれでありだと思います。

 で、気に入らないのは主人公のヴィレムの人格がはっきり描かれてないことなんですよね。何故彼がクトリを大切に思うのか、何を思って戦っていたのかいまいちピンとこないから、ただ気障ったらしいだけの男にも感じてしまう。まあそんな抜け殻のような彼にとってもクトリたちとの出会いが存在意義を与えてくれていた、みたいな話をしたいのだったらそれでもいいかなとも思うので、好みの問題かもしれない。

 

『ID-0』B

監督谷口悟朗、脚本黒田洋介なので見てました。スクライド大好き。全体的に「一昔前のアニメ」感があって懐かしくなってしまった。掘削船メンバー各々にあるべき描写がきちんとあって、キャラクターを丁寧に描いているところはさすがという感じ。肉体を失い、記憶を失っても自分は自分自身たり得るのか…というのがテーマですが、欠けた部分を補いあい、仲間とお互いを認めながら自己のあり方を探していくなかでのメンバー間のサバサバしたやり取りが格好良かった。SFとしても最後できっちり謎を回収したという印象でした。ただやはり全体的に地味さは拭えなくて、SFっぽく没入してしまうような世界観の魅力というのは無かったなという感じです。

 

Re:CREATORSA

 アニメとか漫画とかいったオタクコンテンツにも割と多様性があり、その各ジャンルの持つ独特の雰囲気とか一種のお約束みたいなものがあるわけだけども、それらが物語の構成要素として本当に上手く取り入れられてすごいと思いました。本作では各ジャンルがオーバーラップしながら、スマブラみたいに「ラノベヒロインvs魔法少女」のようなマッチアップが実現して迫力あるバトルシーンが見られたことは、いちアニメファンとして純粋に楽しかったですね。それで作品ごとの世界観のギャップやキャラクターごとの価値観のギャップ、あるいは創作世界と現実世界との違いというのがどんどん浮き彫りになっていくのはかなり面白かったです。

 後半になると創作論の話がメインになってきて、こちらも熱量があって共感できました。物語において作者と創作のキャラクターとでは作者のほうに主があるように考えがちだけれども、しかし作者の側も創作のキャラクターのひたむきさに心打たれるからこそ作品を書き、キャラクターの生き様を描写するのに真剣になる。

 以下気に入らない点を述べますが、第一に創作論の話は制作を担った人々にとってもクリティカルな問いだと想像されるので、やや説教くさく感じられること。第二にメテオラが文語的な言い回しを多用して説明をするシーンがあまりにも多く、内容を理解しようとするとかなり流れが途切れてしまうこと。特に二点目が深刻で、水瀬いのりさんの実力不足もあると思います(?)。

 

冴えない彼女の育てかた♭B

 このクールは『Re:CREATORS』とこの作品が創作論で見事にコンボを決めていて美しかった。タイトル通り、ヒロイン勢をいかに可愛く描くかという点において非常なこだわりを感じられるのはいいですね。えりりと詩羽先輩にとって、クリエイターとして唯一無二の作品を作ることと、倫理君に認めてもらうことは、自分の存在意義を確保するという意味合いにおいて全く同じ方向性なわけです。倫理君が優しさからえりりを休ませようとしたことが、クリエイターとしてのえりりのプライドを傷つける結果になるくだりは満点!という感じでした。そういう微妙な距離感が好き。

 ラブコメが基本的に嫌いという話をしましたが、この作品の「ラブコメ的テンプレ」はオタク的視点をもつ主人公たちによって相対化されていて、その中で彼ら独自の関係性を目指すとか、感じた一瞬のときめきを具現化することでテンプレを越えようとしているのは作品としての強度を感じます。ただこの作品をそこまで好きになれないのは主人公の倫理君が好きじゃない、その一点につきます。何故かは、まあ、あんまり言いたくないので察してください。

 

ベルセルクC

名作として広く知られた漫画が原作です。原作は未読でしたが、面白いかどうかで言うなら話としては断然面白かったですね。ただアニメ作品として見たときに、多用されている割にいまいち世界観に合ってない気がする3DCGとか、唐突に仕込んでくるギャグシーンとかが原作の良さを殺してる感じがしてしまってあまり入れ込めませんでした。もっと丁寧に作ってくれれば…という勿体なさが目立った印象です。

 

武装少女マキャベリズム』A

 こういう美少女がハーレム的にたくさんいてバトルするみたいな作品、いくらでもあるしあまり私は見ないんだけど、これはかなりハマってしまい原作の漫画まで揃えました。まずこの作品のギャグセンスがめちゃくちゃ好き。チョロすぎるヒロインとか、女の子に相撲をとらせるとか、設定が無茶苦茶で「わかってる」タイプの笑いがあるのがいい。バトルも真面目にするし「古武道」を全面に押し出してるけど、肝心のバトルシーンがお粗末で、それも狙ってるんじゃないかと思えて笑えます。

 特筆すべきは、この手の作品には本当に珍しいほどに主人公が気障でなくカッコ良くてさっぱりした、「大人」なキャラクターだということです。結局そこがかなり上手く効いていて、メタ的なギャグパートとシリアスなバトルシーンを接続して絶妙なバランスが形作られていますね。鬼瓦輪ちゃんもかなり好きですが一番はこの納↑村不動さんが魅力的だということに尽きるんだよな。なお見始めたのは古武道が題材だったからなのですが、正直あまりその方面の興味を満たしてくれる作品ではなかったですね。そこは若干不満ではある。

 

 

では、part2に続きます。

 

touseiryu.hatenablog.com

 

新海誠『君の名は。』感想・考察―現代人の孤独に寄り添う物語

 ※この文章ではネタバレについての配慮はしていません。ご了承ください

 

 

プロローグ:『君の名は。』初鑑賞の記

 新海誠監督の新作『君の名は。』は予告の段階から何かが違う作品だった。私が初めて本作を映画館に見に行ったのは公開からしばらく経った頃である。NHKのニュースで、二十代半ばくらいのいかにも遊んでそうな男がインタビューで「三回観た」と話しているのを見て衝撃だった。お前に新海作品の世界観が理解(わか)るのか?・・・若干不安を覚えつつも*1、ともかく新海ファンを自認する私としては当然観に行かなければならない。黒髪の乙女と連れ立って観られれば何も言うことはないが、スクリーンを前にして傍らに座ったのはいつもの信頼できるオタクであるチラホラとカップルの姿も見受けられたが、支障はない。支障は。ない・・・

 映画が始まり、何度か笑い、何度か息を呑む間に隣のオタクのことは最早気にならなくなった。「なんでもないや」が鳴り響くエンドロールの中、私は心地よい感覚に映画館の座席に深々と身をうずめながら「本当に大事なものはここにあった…」と一人呟いていた。数時間後には冷たくなって死体として発見された。その後オタクとお好み焼きを食べて体力を回復した私は、ひとしきり感想やら考察やらを一方的に聞かせてオタクを閉口させたのであった。夜風に吹かれながら満足気に私は思うのだった、「こいつと来て良かった」 ここからはそういう話をしていこうと思います(?)。

 

はじめに

 昨年夏に公開され日本国内における興行収入歴代4位の金字塔を打ち立てた本作は、公開後間もなくして多くのメディアで社会現象として取り上げられ、一度ならず何度も劇場へ通う人が続出した。「泣いた」「感動した」と称賛する声もあれば、「騒ぐほどでもない」「売れそうな要素の詰め合わせ」と批判的なコメントも多く見られた。いずれにせよ、本作についてなされた言及の多さはこの物語がいかに現代人の心を揺さぶるものであったかを示すものだといえるだろう。本稿では、作品の根底にあって明文化されていない文脈を解き明かすことを試みながら、なぜこれほど本作が多くの人々の共感を得たのかを考えてゆきたい。ネットで検索すれば本作についての感想・考察・解説の類はいくらでも出てくるし、今更語るべきものは無いようにも感じるのだが、筆者なりの問題意識と興味関心に基づいて話を進めていこうと思う。なお、作中最大の謎である主人公二人の「入れ替わり」のギミックであるとか彗星落下とタイムパラドクスについては、ストーリーとしての整合性や科学的な正確性に欠けるのではないかという指摘をされることもしばしばだが、筆者としてはそれらが大変些末なことに思えるのでここでは全く考える気にならない舞台装置の出来に執心して物語の読解に集中できないのは愚の骨頂であり、より重要なのはそれらが表象するものであるはずだからだ。

 

「距離」―新海作品の中の位置付け

 もちろん本作はいわゆる「遠距離恋愛」のお話だが、これは新海監督の十八番であるといえる。過去の作品では離れ離れになる男女の悲哀を鮮やかに描いて見せてきた。ゆえに新海の作家性を語るとき、「距離」という言葉が頻繁に使われてきた。作品ごとに「距離」は異なる意味合いを持ち、『ほしのこえ』では時間の「距離」が、『言の葉の庭』ではライフステージの「距離」が描かれてきた。なおかつ作中で二人が結ばれるという展開がまず無く、分かり易いハッピーエンドにはならないことが新海作品の大きな特徴といえる。切なさと寂寥感を湛えたストーリーは多くの人の共感を呼び、ある一定層にカルト的な支持を受けてきた一方、いまひとつ一般性を獲得するには至ってこなかったというのが『君の名は。』以前の新海への評価だったといえるだろう。そんな中で『君の名は。』は確かに過去の新海作品とはやや毛色の異なる作品だともいえよう。ラストシーンで主人公二人が再会して終わる明確なハッピーエンドの本作は、公開直後に既存の一部新海ファンからは「真の新海作品ではない」などという批判が上がったこともあり、現在でも割合そういった評価が散見されるのは確かだ。一種悲観的な「恋愛」観がこれまでの新海作品にはあったといえるが、肯定的なメッセージで終わる本作は果たして本当に新海らしからぬ作品だろうか。

 

瀧と三葉のキャラクターについて

これまでの新海作品の主人公といえば、例えば『秒速5センチメートル』の遠野貴樹のような、クールで理知的、感情表現が下手なタイプがほとんどであり、一人称視点で心の葛藤が描かれるのが常であった。一方本作の主人公の一人、東京の男子高校生・瀧くんはかなりガサツな男だと言わざるを得ない。ケンカっ早く、はじめから三葉に対して「お前」呼ばわり、「入れ替わり」が起こるやたちまち胸を揉んで「これってなんというか…女の体ってすげえな…」と感想を漏らす(小説版)、等身大の男子高校生である。これは過去の新海作品の大人びた主人公像とは大きく異なるキャラクターだといえよう。またもう一人の主人公・三葉も家族関係に複雑な事情を抱えてはいるが、自分の住む町に嫌気がさして「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶ、どちらかといえば素直な性格のこれまた等身大の女子高生であるといえる。そして恐らく、気難しい過去作の主人公たちよりは、瀧・三葉のほうが誰にとっても共感し易い主人公なのではないかと思う。物語終盤、「カタワレ時」のシーンの会話を見てほしい。奇跡によってはじめて面と向かい合った彼らのやりとりにロマンチックな台詞も直接的な愛情表現もなかったが、不器用ながらも出会えた喜びを隠しきれないような、いかにも初恋らしい微笑ましいシーンに仕上がっている。

 

物語を動かす二人の「素直さ」

 例えば先に述べた、『君の名は。』以前の代表作と呼ぶべき『秒速5センチメートル』のラストシーンとは、道を歩いていた主人公の貴樹が、向こうからやって来るヒロインらしき女性と踏切ですれ違うというものである。彼は予感がして振り向くものの、彼女の姿は踏切に入ってくる電車に遮られてしまう。彼では探し求めるものを自らの手に繋ぎ止めることはできなかったのだ。一方本作のラストシーンでは、ついにお互いを発見した彼らが一旦ぎこちなく通り過ぎようとするものの、瀧が意を決して振り返り、三葉に声をかけたことから二人が再会を果たすという感動的な結末になっている。このことが既存の新海ファンには大きな衝撃をもって受け止められた。二作品の全く対照的な終結の違いをもたらしたのは何だろうか。それは、主人公のキャラクターの違いであるというべきだろう。新海は「監督が瀧の立場なら、みんなを救うことができると思うか」という質問に対して「旅館あたりで『全部、俺の妄想…』で納得しちゃったんじゃないかと思います(笑)」と答えている。瀧が少年漫画の主人公のような素直さと熱意を持っているからこそ、おぼろげな記憶を信じ、彼女を探しに岐阜へ旅に出るような行動をとれたのだ。また最後に三葉が消えゆく瀧との記憶を信じて父親のもとへと走り続けられたのも、彼女の素直さゆえのものであろう。これは二人の一直線なひたむきさこそが時空を超えた奇跡を呼び寄せた、そんな情熱的なストーリーなのだと言うこともできる。この二人だからこそ、ラストシーンの階段で瀧は声をかけることができるのである。この二人だからこそ、明確なハッピーエンドを迎えることが必然のものだと納得できるのである。さて、皆さんは彼らのあり方に心から共感できるだろうか。それとも彼らのあり方は眩しすぎると感じるだろうか。ぶっちゃけ筆者は後者の側かなあと思うのだが(?)、本作をありがちな青春物語と断じ、新海誠は死んだと罵るのはもう少し待ってほしい。

 

貫徹されている「喪失感」「孤独感」

 本作は大まかに①ギャグ中心・二人の「入れ替わり」の話②二人が彗星から町を救う話③エピローグ の三部に分けられる。ここで筆者が特に考えたいのは、10分足らずのエピローグと冒頭の数秒間の、大人になった二人が登場するシーンで何が語られたのかということである。就職活動中の瀧は、正体不明の喪失感のなかで日々を過ごしている。かつてあれほど切実だった三葉への思いはその記憶とともに失われてしまったのだ。「よく覚えていない昔の出来事より、俺が考えるべきは来年の就職だ。」(小説版)そう取り繕ったところで、何か大事なことを忘れている、大切なものを失っているという不満は拭い切れない。筆者はこのあたりの瀧が独りで電車に乗っているシーンや、寝起きに過ぎ去った夢を惜しんでいるようなシーンにひどく共感を覚えてしまう。そこにあるのは簡単に言えば「喪失感」「孤独感」などではないかと思う。決して瀧と三葉のような「運命の人」でなくともよい。我々はこれまでの人生で多くの大切なものを失ってきてはいないか。そして大人になるにつれて、生活のなかで失ったこととすら忘れているのではないか。さらにはその喪失感を孤独に抱えたまま生きていく必要に動かされているのではないか。筆者は現代において新海のアニメーションが多くの人に「刺さる」のは、こうした現代人の悲しみに満ちた喪失と孤独にゆるやかに寄り添う姿勢が貫かれているためだと思っている。そして新海のその姿勢は、本作でも踏襲されていると考えるのである。

 

「距離」―都市と地方

さて、新海作品をつなぐキーワードは「距離」であると先に述べた。では本作における「距離」とは何だろうか。筆者の考えでは、これは紛れもなく「都市と地方」の距離である。三葉は神社の娘として生まれ、生まれつき巫女としての将来を背負わされた女性である。しかし彼女はその人生を窮屈に感じるからこそ、「東京のイケメン男子」に憧れを抱く。三葉が瀧と初めて入れ替わって新宿の街を歩くシーンを見てほしい。筆者も何度も東京に行っているが、彼女の目に映るキラキラとした街の風景は外の人間が都市に抱く憧れそのものだ。田舎にないものが都会にはあふれている。都市と地方の生活様式の差、文脈、住む人々の思いなどが「入れ替わり」のシーンに大いに対比されている。ただし新海は、瀧の住む東京と三葉の住む糸守町の風景を意識的に同じくらい美しく描いた、それは二つの異なる生活の優劣をつけたくなかったからであると語っている。例えば両者の朝のシーンを振り返ると、三葉には必ず妹の四葉が起こしにやって来る。一方瀧は寝坊をしても父親は起こしに来てはくれない。ここに田舎らしいウェットな人間関係と都会らしいドライなそれの対比を見ることができる。また主人公二人が高校生の時には、東京の街のほうが魅力的に描かれることが多いが、二人が大人になり東京での生活をしているシーンになるとそこに寂しげなイメージが加わってくる。地方と都市いずれかを貶めたり持ち上げたりするのではなく、新海の視線は現代を生きる我々のリアルな生活とそこにある差異に向けられているのだ。主人公たちがお互いのどこに、いつ惹かれたのかというのははっきりとは描かれていないし特に決めつける必要を感じないが、強いて言えばこの都市と地方との対照的な精神性に、互いの持っていない部分に惹かれていったものだと思う。

 

近現代史に寄せて

 農村から都市に人口が移動する。人々は生まれた土地から切り離される。物質的に豊かになる一方、人々のアイデンティティは曖昧になる。自分の将来を選ぶ自由が与えられた反面、どのようなあり方を選び取るかで大いに悩むことになる。都市では人々はどこか孤独で、地方では人が居なくなり、都市では人口集中で問題が起こり、地方では共同体とともに文化が失われてゆく。それは日本に限らず、近代化と都市化によって起こった様々な社会構造の変化の一端だといえよう。*2巫女として生きる将来に疑問を覚える三葉、土建屋を継がせようとする父親に反感を抱きながらも「一生ここで生きていくと思う」と強がる勅使河原。エピローグで三葉の友人である勅使河原とサヤカが登場することはご存知だろうが、他にも三葉をからかっていたクラスメートや高校生となった四葉が出てくるカットがあることもお気付きだろうか。主人公二人の奮闘で糸守町の人々は救われたが、町自体は消え去ってしまった。町の人々は土地の文脈から切り離され、三葉たちは自由になった。だが町を出て行けば悩まずに済むかといえば、瀧が就活で苦しんだように、都市生活者には都市生活者なりの将来への葛藤がある。三葉たちにとっての巫女舞組紐は、彼らが自分自身を規定するための要素でもある。ローカルな共同体の人間関係も、生まれつき彼らに居場所を与えてくれるものだともいえる。その点で瀧の生活は、岐阜旅行についてきてくれる司のような友人はいるものの、三葉に比べれば自らが依拠するものは希薄だったといえる。封建制から自由主義社会への移行が、絶対的に人々を幸せにしたとは言い難い面がある。そのような視点で本作を見ると、ますます各場面に込められたリアリティを感じとることができる。

 

都市に寄せて

 本作中で好きな場面はいくつも挙げられるが、筆者が特に気に入っているのは三葉が中学生だった瀧を駅のホームで見つけるシーンと、ラストの階段で二人がお互いを発見するシーンである。三葉は混み合った車内で瀧に近づくも、すぐに話しかけることはできない。一駅分の沈黙が続いて、彼女が失望して無言で電車を降りようとしたところで初めて組紐を手渡す重要な1シーンになる。あるいは、大人の二人が必死になってお互いを探そうとし、階段の上下で向かい合うも、しばらく伏し目がちに歩いたまま一度は通り過ぎてしまう。この一種奇妙なもどかしさがとてもリアルだと感じられるのだ。都市において電車のような公の空間では、個を殺し他人に干渉しないような振舞いが当然のものとして求められる。そうした流儀に反発してもおかしくない、開放的なキャラクター付けがされているこの二人でさえそれを受け入れている。物語を動かすファンタジーとしての強さを持っていたはずの二人でさえも、仕事や就活や日常のルーティンに呑まれて都市を生きる「普通の人間」になってしまうこういったところに寄る辺のない都市生活者の孤独が象徴的に描かれているとも思うし、リアルを追求する新海の手腕と誠実さが現れているとも思うのである。

 

地方に寄せて

 作中で「組紐」が象徴しているのは、瀧と三葉の間の不思議な縁であるとともに、過去から連綿と受け継がれてきた伝統ないし文化といったものである。三葉の宮水家の人々は代々「入れ替わり」を体験してきており、口嚙み酒を供えた洞窟に彗星の壁画があったことから推測すると、「入れ替わり」とは巫女となる女性が未来を予見することで、過去にも彗星が落ちている糸守を災害から守るためのシステムである。三葉の父親がおぼろげながらもそのことを認識していたとするなら、作中で語られなかった「なぜ最後に三葉は父親を説得できたのか」という当然の疑問に対するある程度の回答はできる*3津波とかならともかく隕石ってそういうもんじゃなくね、というツッコミはとりあえず捨て置こう。冒頭でも述べた通りそれらは些末なことである。しかし、設定資料を見ればわかるが、実は三葉の持つ組紐は隕石による災害を予兆するデザインになっているし、三葉たちが踊った巫女舞もそれを意識した振付になっている。だが三葉たち宮水家の人々はその意味を認識していなかった。そうなった原因と考えられるのが作中何度か名前が出た「繭五郎の大火」だ。史料が焼けてしまったことで、伝統は一部不完全な形で伝えられることになってしまったのである。ここで思い出されるのが、他でも指摘されているとおり東日本大震災津波災害だ。過去の大津波の教訓は活用されないままに多くの人命が失われた。しかし、これは決して特殊な事象ではなく、何百年と継承されてきた伝統が失われてしまうことは恐らく日本中いたるところで起こっている現象ではないだろうか。農村から都市へ人口が大きく移動することで、地方では過疎の問題が生じてくる。人が減って共同体が維持できなくなり、担い手が消滅すれば、地域が継承してきた伝統・文化は永遠に失われることになる。町の人々の命は救われたが、宮水神社は消えてしまい三葉の一家が東京へ移ってしまった後、巫女舞組紐の文化はどうなったのだろうか。都市と地方の不均衡が現実に引き起こす問題がここには描かれているのである。

 

感情を揺さぶるもの:背景

 新海作品の大きな特徴として、非常に緻密な背景美術の美しさが挙げられる。夜空に彗星が流れる壮大な光景、神社の鳥居にかかる夏の夕陽、ネオンを反射する雨に濡れた街路、それらは実物と見紛うほどのリアリティをもって眼前に迫って来る。現代アニメーションにおける背景美術のひとつの到達点とさえいってよいだろう。そうして美しく描かれた背景が作品世界そのものの美しさ・価値となり、観客を物語へ没入せしめるのに一役買っていることには違いない。ただ、筆者は本作に関してはもう一つの意味を考えることができると思っている。本作で描かれた風景はリアリティを感じさせる一方で、同じ光景を普通に写真で撮ってもこれほど美しいものにはならないような気がするのだ。つまり、ある意味で映像が現実を越えてしまっているようにも感じる。筆者には、これが夢の中の光景あるいは理想化された過去の記憶を意味しているように思えてならないなぜなら、一つはエピローグの前までのストーリーが、冒頭に出てくる大人の瀧と三葉による回想であるという解釈が可能であるためである。もう一つは、本作には「記憶」「夢」といった概念が多く登場し、主人公たちにとって大切であったはずの互いについての思い出が変質し失われることへの悲しみ、切なさこそ新海の表現したいものだと考えるためだ。我々の記憶というのは本質的に自分自身を形作るもののはずだが、時間が経つにつれ記憶は消失し、時に都合のいいように改変される。ここに人生というもののひとつの悲哀があるようにも思われる。我々がこの美しすぎる背景を目にするとき、それは主人公たちにとっての惜しむべき原風景であると同時に、我々自身にとっての在りし日の美しい思い出がオーバーラップする。よく新海作品の背景について「死にたくなる」とかいった感想を目にするが、それは忘れかけていた記憶が無意識下で喪失感をひきおこし、感情の深いレベルで世界観へ共感してしまう、そんな状態なのではないだろうか。

 

君の名は。』は恋愛賛美映画か?

 もちろん本作はボーイ・ミーツ・ガール、主人公二人によるラブストーリーであることは間違いない。だがここで語られているものは、世間一般で言うところの「恋愛」とはややずれている、言ってしまえばカップルで観に行く映画では必ずしもなかったのではないかと筆者は考えている。ここは筆者には活かすべき経験が不足している部分なので雑な議論になるかもしれない*4。皆さんは奥寺先輩の物語上の役割をいかにお考えだろうか。垢ぬけた美人の奥寺は年相応に素朴な三葉とはかなりの部分で対照的に描かれたキャラクターだといえる。奥寺もまた、瀧と入れ替わった三葉の素朴な優しさに好感を持つようになる。旅館で瀧と奥寺が会話するシーンというのは、瀧にとって三葉を選ぶか奥寺を選ぶかという分岐点となっていたとも思える。しかし結局瀧は三葉の方を選び、エピローグでは奥寺は結婚していて、瀧に「君も、いつかちゃんと、幸せになりなさい」と言い残して去ってゆく。ありがちなラブコメ的解釈をすれば、奥寺は「負けヒロイン」だということになる。しかし、奥寺が「負け」たのには含意があるように思えるのだ。オープニングなど本作の随所に登場する「半月」について、新海は瀧にとっての三葉、三葉にとっての瀧というお互いにとっての半身が欠けているさまを表現したイメージであると語っている。つまり、二人の関係は単なる恋愛感情による結びつきではなく、「半身」「運命の人」とでもいうべき分かち難く宿命的な関係だと考えるべきである。従って、どうあっても奥寺が「勝つ」ことは起こりえなかったのだ。一方、ここで恋愛映画のつもりで劇場に『君の名は。』を観に来たカップルを想像してもらいたい。彼らの関係は瀧―三葉のような宿命的な関係だろうか。それともバイトの先輩後輩という瀧―奥寺のような意味ありふれた関係だろうか。何の根拠もない憶測だが、皆さんの多くは後者を思い浮かべるものと信じている。世間一般で言われる恋愛とは、きわめてドライな言い方をすれば性欲や何らかの目的に基づいて、偶発的に営まれる関係といったほうが近いのではないか。だから、本作はありふれた意味での恋愛が敗北する物語だ、という解釈が場合によっては可能だと考えるわけである。公開直後、作家の石田衣良が「新海は幸せな恋愛の経験が無いのではないか」とコメントし物議を醸したが、筆者にはこれは全く「わかってる」指摘に思えるのだ*5

 

現代人に向けられたメッセージ

 ただし、奥寺は一人の自立したキャラクターとして描かれており、「幸せになりなさい」という言葉は自分なりの観客に対するメッセージであると新海は述べている。奥寺の物語上の役割が単に三葉の当て馬という理解でよいかといえばそれは明らかに誤りだ。筆者は新海が前向きなメッセージを代弁させたのが奥寺だったという点に意味があると思っている。瀧―三葉の関係は非常に特殊で、だからこそ強固な結びつきだと言えるのだが、もちろんそんなベスト・パートナーの関係を誰もが取り結べるわけではない。*6ベストという確証が持てなくとも、ベターな選択をしようと努める。満足とまではいえなくともより良い生活を求め続ける。一見自由な現代人の日々の営みとは、何かを失った悲しみや、他に最良の生き方・在り方があったのではないかという葛藤を抱えながらも、目の前の出来事をひとつずつこなしてゆくものではないだろうか。彼女が瀧に「幸せになりなさい」と言ったのは、自らの選択が最良のものではないのではないかと不安になったり、失ったものを悔いたりしてその先の人生を諦めてしまうのではなく、よりよい人生を追い求め続けることが幸せにつながるのだというメッセージである。だが瀧は「俺は別に、ふしあわせじゃない。(中略)でも、しあわせがなにかも、まだよく分からない」(小説版)と感じる。「もう少しだけ――、と俺はまた思う。」彼はそれでも、妥協することをよしとしなかった。結果として奇跡のような三葉との再会に至るのである。よりよく生きることは、必ずしも妥協を意味するわけではない。最も大切だった記憶さえ失われてしまうこの世界は残酷には違いない。だが失ってきたもの、自分にとって本質的なものにも目を向け、前進してゆくための糧とすればよい。筆者はエピローグに込められたメッセージを以上のように解釈している。

 

おわりに

 以上みてきたように、本作には現代人ならではの感覚や問題意識が鋭く表現されており、共感を得るための仕掛けが散りばめられている。他にも劇中の節目ごとに効果的に使われているRADWIMPSの楽曲は大いに観客の心を揺さぶるほか、キャッチーな歌詞で世界観を補強するように機能している。新海もむしろこの楽曲によって作品世界が広がっていったこと、作中で大きな役割を果たしたことを語っている。だがこの魅力について言葉で説明するのは難しく思えたので本稿では取り上げなかった。*7もし観ていない方がおられるようならぜひこの魅力を肌で感じてもらいたい。この物語と出会い、そこに込められた意味を読み解く経験が誰にとっても次の一歩を踏み出す力となってほしいと思うし、十分その価値がある作品であると信じたい。

 

 

 

 前に書いたの

touseiryu.hatenablog.com

*1:ベタな青春映画などは新海に求めていないので

*2:参考文献として:佐伯啓志『20世紀とは何だったのか―現代文明論下「西欧近代」の帰結』(2004、PHP研究所)。

*3:詳しくは小説の『君の名は。Another side: Earthbound』を参照されたし

*4:事例研究が不足しているのでどなたかご教授願いたい、できれば理知的な黒髪の乙女がいい

*5:筆者が新海監督を大変”信頼”している理由はこういうところにもある。

*6:奥寺が妥協的な結婚をした、とまでは言わない

*7:「入れ替わってる!?」を二人で被せてから「前前前世」のイントロにつながるところが最高にカッコよくて好き